『がんばれギンくん』を作った男たち 早川隆祥氏×高宮孝治氏ダブルインタビュー 後編

『がんばれギンくん』を作った男たち ダブルインタビュー前編」では、同ゲームの世界観の構築過程や登場キャラクターのモデルなど、主にリリースに至るまでの背景を語っていただいた。

このゲームが放つ異能なセンスは、ファンのみならず制作者であるお二人も認めるところ。だが、企業を背負っている以上は相応のクオリティが求められ、リリースに際してあらゆる数字と顔を突き合わせる必要があることは言うまでもない

インタビューでは、お二人の入社から1990年代テクモの制作風景に触れつつ、ビジネス面にまで話は及んだ。後編では、本作の魅力をさらに解明していく。

特に希望していなかったゲームメーカーへの就職
テクモ入社のきっかけは偶然!?

――お二人がテクモに入社されたいきさつをお聞かせください。

早川 私は1988年に入社しました。翌年に元号が昭和から平成に変わったことを覚えているので、事実上昭和最後の入社組です。

――もともとゲーム業界志望だったのですか?

早川 それがそんな気持ちはまったくなく、大学4年の時に送られてきた大量の入社案内の中からなんとなく選びました(笑)。

高宮 あのころはまだ郵送で分厚い会社案内がよく届いていましたねぇ。

早川 お恥ずかしい話ですが、我ながら真面目に就職活動をした覚えがなく、試しに受けてみるか、と軽い気持ちで臨んだら内定を頂いたので、スパッと迷いなく決めました。大学の先輩が入社していたことも一つの理由ですね。

――ビデオゲームには馴染みがなかったと?

▲「ろくな就職活動をしていないにもかかわらず、内定を頂き感謝しています」と早川氏

早川 いえ、ゲームはかなりやり込んでいました。ヒマさえあれば自宅やバイト先で家庭用をプレイしていたり、予備校時代は渋谷センター街のゲーセンを根城にしていましたので、むしろ好きなほうです。ただ私の場合、「だからゲーム業界に就職したい!」という発想はなく、テクモの入社は本当にたまたまというのが正直なところですね。

――ご自身のビデオゲームの原点、と申しますか、これは! といった強く記憶に残るゲームはありますか?

早川 今すぐパッと思いつくのは『エレベーターアクション』(1983年/タイトー)と『ロードランナー』(1984年/アイレム)です。アクションゲーム、なかでもパズル的思考が求められたり、駆け引き要素があるゲームを好んでプレイしていました。

――どちらのゲームも息長く移植が繰り返された人気作ですね。高宮さんはいつごろテクモへ入社されましたか?

高宮 私は早川さんより2年遅く1990年に入社しました。直後にFCの『キャプテン翼Ⅱ スーパーストライカー』をリリースするといった話があったことを記憶しています。

――まさに家庭用ゲーム全盛のころですね。

高宮 そうですね。ゲームファンだけでなく原作を愛する方にも受け入れていただき好調なセールスを記録した続編ですから、入社して間もないながらも、社内的にプロモーションに力を入れていたことはよく覚えています。

▲「あのころのファミコン(以下、FC)ブームは本当にすさまじかった」と語る高宮氏

入社直後はさまざまな部署を経験
1990年代テクモの新入社員教育とは

――お二人とも、テクモへは何がしかの希望職種があって入社されたのですか?

早川 私はそもそもゲーム業界に就職することは考えていなかったので、希望は特にありませんでした。ただし、当時は「希望部署以外にも、ほかの現場や仕事も知っておいたほうがよい」との方針のもと、入社直後は「コンシューマー事業部」というプロモーションを担当する部署に配属されました。

――当時どのようなタイトルを担当されましたか?

早川 よく記憶しているのは、いちばん最初に担当した『キャプテン翼』(FC/1988年)です。配属直後に上司からロムを渡され、プレイを指示されました。デパートやおもちゃ屋さんを巡って説明するためには、内容をキチンと理解しておく必要がありますから。

▲左『キャプテン翼』(1988年)、右『キャプテン翼Ⅱ スーパーストライカー』(1990年)。いずれもFCでリリース(画像:筆者撮影)

――大枠で言うところの「営業/販売促進」でしょうか?

早川 そうですね。その後も問屋さんを回ったり、帳簿を付けたり、総務や人事も経験しながら2〜3年経過したのち、初めて制作現場に入りました。ある日唐突に「マスターアップ直前だけど人が足りないから手伝ってくれ」とのことで、サリオ※01サリオ:テクモの関連会社(レーベル)にしてセガ・マークⅢ/マスターシステムにおける唯一のサードパーティ。「シルバーカートリッジ」シリーズとして『ソロモンの鍵 王女リヒタの涙』『アルゴスの十字剣』(ともに1988年)の2タイトルを発売。の制作部があった墨田区吾妻橋のビルで『おぼっちゃまくん※02おぼっちゃまくん:『月刊コロコロコミック』(小学館)で1986年から1994年にかけて連載されていた小林よしのり原作の漫画およびTVアニメ。児童向け漫画の王道パターンである、お下品・おバカな表現をふんだんに用いたギャグに徹底しているが、「茶魔語」と呼ばれるユニークな言葉遊びや、ギャグに込められた確かなストーリーテリングで多くのファンを獲得。2016年から『コロコロアニキ』(小学館)で復活、完全新作にて連載がスタートした。ゲーム内容は、最大5人までプレイ可能なボードゲームで、ヒロイン御嬢沙麻代(おじょう さまよ)の欲しがる物を世界中から競って集めることが目的。』(FC/1991年)を担当します。初めての制作現場は、右も左も分からず戸惑いの連続でした。

▲サリオから発売されたセガ・マークⅢ/マスターシステム専用ソフト『ソロモンの鍵 王女リヒタの涙』(1988年)。本作はFM音源に対応している(画像:筆者撮影)

高宮 私は初めからディレクター、プランナーとして入社しましたので、即戦力な形で制作現場に配属されました。ですが、やはり「開発だけしかできないようではダメだ」との方針で、通常業務と兼ねる形で営業部員とともにショップ、問屋回りもこなしました。今にして思えば、とてもよい経験をさせていただきましたね。

――創業者の柿原彬人※03柿原彬人(かきはら よしひと) : 1938年福岡県生まれ。1964年に帝国管財株式会社、1967年に日本ヨット株式会社を設立。1980年からビデオゲーム業界に参入し、テクモの礎を築く。JAMMA(日本アミューズメントマシン協会)会長、顧問を歴任。2006年没。氏とは、カリスマ性というか豪放磊落(ごうほうらいらく)というか非常に魅力的な人物だったと聞いています。

早川 ビデオゲームという海の物とも山の物ともつかない未知の世界を切り拓き、結果を出しつつ生き抜いてきた方ですから、ただ者ではありません。当時の部下として大変尊敬しています。

高宮 同感です。ただテクモだけでなく、ひとかどの企業に成長したゲーム会社の創業主は修羅場をくぐってきただけあって、皆どこかただならぬ雰囲気を持っているものです。

――新作がリリースされる際、柿原氏は実際にチェックされていたのでしょうか?

早川 主要なタイトルはひととおりプレイされていましたが、現場に一任していた部分もありますし、ご本人自身が普段ゲームを嗜まないこともあって、すべてに目を通していたわけではありません。なので、『がんばれギンくん』は社長のチェックをすり抜けた作品というわけです(笑)。

――(柿原氏の)チェックが及ばないことを見越して…ということですか?

高宮 そうなんです(笑)。ある程度分かっていて自由な制作でがきた結果、あのようなゲームが完成しました。ただし、早川さんはプロデューサーというお立場で、相当ご苦労されたと思いますが…。

早川 まぁ、それなりに苦労しましたね(笑)。

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