『がんばれギンくん』を作った男たち 早川隆祥氏×高宮孝治氏ダブルインタビュー 後編

基板の売り上げから見た
『がんばれギンくん』というゲーム

▲プロデューサーとしての苦楽を語る早川氏

早川 先ほど「リリースの際にプロデューサーとして苦労した」と正直にお答えしたのと、前編で『がんばれギンくん』は、演出も含めたボリューム(満足感)を追求・表現した点は自画自賛ながらも評価したい、と話したのは一応の根拠がありまして。

――と、おっしゃいますと?

早川 端的に申しますと、このゲーム、在庫基板の転用からプロジェクトがスタートしています。当時、テクモは総販・ディストリビューター的な業務もありましたので、自社製品以外にも他社様から仕入れた基板が1,000枚単位で残ることもありました。私が『クイズココロジー』(1992年)、『でろ~んでろでろ』(1995年)、『脳力向上委員会』(1995年)など基板転用を前提としたタイトルを抱えることが多く、『がんばれギンくん』もその一つでした。そういえば、このゲームは何の基板を流用していましたっけ?

高宮 『ファイナルスターフォース※01ファイナルスターフォース : 1992年発売。テクモを代表するシューティングゲーム『スターフォース』シリーズ(1984年/テーカン)の第3作目にして完結作。種類の増えたパワーアップやボンバーの実装など、格段に進化している。参考までに、第2作目はFCでリリースされた『スーパースターフォース 時空暦の秘密』(1986年)で、シューティング+探索アクション要素を持つ。』(1992年/テクモ)ですね。ただし『ファイナルスターフォース』も実は転用基板です。おおもとの基板のタイトルは失念してしまいましたが、結果的に『がんばれギンくん』の基板は2回転用されたものです

――2回転用とは初耳です。ロケテストの反応などは覚えていますか?

高宮 社内の好評に反し、御茶ノ水にあったテクモ直営店での結果は正直イマイチでした。マズいなとは思いましたが、そもそもこのゲームは半分出オチのようなもので、これが味だよといって必ずしも万人から理解が得られるとも思えず、好き嫌いは分かれるだろうと。そういうスタンスでしたので、どこか楽観していた部分もあります。

早川 私もそれほど焦った記憶はないです。あの頃のロケテストは、日時を決めてお披露目するプロモーション的な意味合いではなく、ある日突然稼働させて正確なインカムを集計したり、制作者がコッソリ視察に行ったりと、文字通り「テスト」でした。それらを検討した結果、まぁそこまでではないかなと。あまりにひどければ商品化すら危ういですからね。

――結果、基板はどれくらい売り上げたのですか?

早川 卸値が10〜15万円で、枚数にして500〜600枚ほど売り上げることができたと記憶しています。ゆえに商売上はじゅうぶんプラスになったのでプロジェクト単位の回収という意味ではひとまず成功です

▲早川氏の言葉に耳を傾ける高宮氏

――なるほど。

高宮 このゲームは対戦格闘やシューティングなど(当時の)流行ではなく、店舗の占有面積は小さいながらもある程度の集客が見込めるミニゲーム集というジャンルと、今までにない個性的な世界観が評価され、基板を購入していただいたと当時の販売担当から聞いています。

早川 レバーとボタン一つのみ。台の移動や特殊なコンパネに変える手間がなく、基板の差し替えだけですぐに稼働できるシンプルな点も功を奏していると思います。

リリース後の世間の反応とコンシューマー移植への気運

高宮 当時の体験なのですが、『がんばれギンくん』リリース後に様子見も兼ねて足を運んだ都内の某ゲーセンで、2台並んだメガロ筐体※02メガロ筐体 : セガが開発した大型筐体で正式名称は『MEGALO 50』。最大の特徴である50インチ特大モニターを前に、1Pと2Pが横並びでプレイする。に片方が『バーチャファイター2(以下『バーチャ2』)』(1994年/セガ)、もう片方に『がんばれギンくん』が稼働していました。このロケーションを見たときは「勝った!」と思いましたね。

一同 (笑)。

高宮 『がんばれギンくん』も対戦要素や共同プレイがあるので、横並びで快適に楽しめるメガロ筐体に設置することは、一応理に適っていると思います。ですが、まさか『バーチャ2』の隣とは…。あの光景は今でも忘れられません。

――それは私も見てみたかったです! 採算ラインをクリアしたのであれば、次は家庭用に移植しようという動きはなかったのですか?

高宮 う〜ん…。

早川 ない、ですね(笑)。

――1995年という、セガサターン(SS)やプレイステーション(PS)など数多くのゲームが発売された当時の次世代機ブームであればひょっとしたら、とも思うのですが。

早川 アーケードと家庭用で考え方の違いはありますが、制作側としては本来の目的(在庫基板の整理)が達成できたので、その時点でプロジェクトは終了という認識でした

高宮 この時代にもなりますと、キチンと…というのも変ですが、高名なクリエーターや名のある人を的確に起用し、販売価格に見合う以上の完成度を目指しつつ、タイアップやCMなどプロモーション活動を抜かりなく行う必要があります。

――その条件に『がんばれギンくん』を当てはめると…。

高宮 まぁ出せませんよね(笑)。前編にてお話の通り、このゲームは「ウゴウゴルーガ」、なかでも「がんばれ!まさおくん」からエッセンスの核を頂いています。もし秋元きつねさん※03秋元きつね : 1968年生まれ。CGアーティストとして「ウゴウゴルーガ」の制作スタッフに名を連ね、「がんばれ!まさおくん」ほかを担当し、以降も独自の世界を表現した映像作品を発表。その片影は『せがれいじり』(PS/1999年/エニックス)および『続せがれいじり 変珍たませがれ』(PS2/2002年/エニックス)にて味わうことができる。2014年没。の目に留まったら…という思いも少なからずありましたので

一同 (笑)。

高宮 もう一つ記憶しているエピソードですが、「あのがんばれギンくんは、スーパーファミコンの『マリオペイント※04マリオペイント : 1992年に任天堂より発売されたSFC用ゲームソフト。同梱のマウスを用いて、SFC上でお絵描きやアニメーション、音楽作成が楽しめる。マウス操作の練習も兼ねているミニゲーム「ハエたたき」がおもしろい。』(1992年/任天堂)で制作されている!」という内容を何かの雑誌か書籍で読みまして…。

――それは本当ですか!?

▲かんたんコース「どんまい学園 涙もの」の一 コマ。決して「がんばれ!まさおくん」の新作ではない

高宮 開発が決定して各部門にスタッフをアサインした直後は設備がまだ充分ではなく、時間をムダにするのもよくないので、研修も兼ねて機材が届くまでの数日間だけ導入しました

――まさか『がんばれギンくん』で『マリオペイント』の有用性が実証されるとは思いませんでした。

高宮 実際に使用したデザインはありませんが、仮デザインというか、練習としてそれなりに意味はあったと思います。よって、半分ウソで半分ホント、というのが実情です。

早川 『がんばれギンくん』だったらあり得るかもしれない、と思わせるのが「らしい」部分ですね(笑)。

――さて、最後となりますが、ディレクター、プロデューサーという視点で、改めて本作を振り返っていかがですか?

▲インタビュー終了後、「まさか『がんばれギンくん』の開発話をする日がくるとは…」と、しみじみ語る早川氏(左)と高宮氏(右)

高宮 アクションミニゲームとして先行する他作品、さらに他ジャンルのゲームとどう差別化を図るか、どう特徴を出すかといった点に重きを置き、優秀なスタッフに囲まれながら自分の感性の赴くまま制作できました。言葉が適切かは分かりませんが、これは今思えば非常にインディペンデントな感覚だったとも言えます。その上でほかにない異質感を出しつつ、トータルで洗練されたゲームを目指していました。

早川 何年か前に当時のスタッフと会ったとき、皆一様に「自分たちでおもしろがって作っていた」と話していました。そんな環境から生まれたゲームに今でもファンの方がいらっしゃることは、とてもありがたいことです。

――こちらこそ、本日は貴重なお話をお聞かせてくださり、ありがとうございます。

早川 ただ、洗練されたゲーム、と言えるかは…。

高宮 これはこれでアリかな、ということで…(笑)。

ビデオゲーム史に残された
決して小さくない痕跡

インタビューの間、その場にいる全員の笑みが絶えることは最後までなかった。だが、この雰囲気は決して『がんばれギンくん』を斜に見たものではなく、各々が持つ思い出深い記憶と愛着を表現したものであることは、記事をお読みいただいた方にはお分かりいただけると思う。そして、この笑顔こそ『がんばれギンくん』が目指したものではないだろうか。

それまで筆者が抱いていた「あのテクモからなぜこんなゲームが…?」との疑問には、「あのテクモだからこそ、このようなゲームが生まれた」という回答が適切なのかもしれない。

早川 隆祥 氏
1988年テクモ(現 コーエーテクモゲームス)に入社。「いろいろな部署を見ておく」といった当時の社風のもと、営業を皮切りに人事、在庫管理などさまざまな部署を経てディレクター、プロデューサーとして定着。テクモの看板タイトル『ギャロップレーサー』シリーズ(1996年〜)など数多くの作品にかかわり、同社を支えた。現在は、あまた技術開発部 設計課開発プランナーとして精力的にゲーム事業に携わる。
高宮 孝治 氏
1990年にテクモ入社。ほぼ即戦力に近い形で入社したこともあり、一貫してディレクターとして活躍。しかしその枠に収まらずプランナー、プログラマーといった顔ものぞかせながら、『モンスターファーム』シリーズ(1997年〜)などを担当。現在は、近年注目が集まるブロックチェーンゲーム『My Crypto Heroes』を開発するdoublejump.tokyo執行役員/ディレクター。

特別寄稿 『在庫基板から生まれるゲームについて』

今回のインタビューに際し、版元であるコーエーテクモゲームス執行役員の原尾宏次氏より特別寄稿を頂きました。ここに全文を掲載させていただきます。

コーエーテクモゲームス
執行役員 IP事業推進部長
原尾宏次

私は1989年入社です。早川さんと高宮さんに挟まれた代でしたので、記事内容の懐かしさに涙が出ました。

さて、今回のインタビューで、業務用基板における在庫の再利用という話が出ていました。売れ残った基板あるいは売れて市場に多く残っている基板を改造して新しいゲームにする。これは、当時のゲーム業界ではそれほど珍しいことではありませんでした。実際に、発売済み基板のロム交換タイトルからは意外な名作も生まれています。

テーカンが1983年にリリースした『SENJYO(センジョウ)』は大きなセールスを記録したものの、当時としては斬新すぎたゲーム性がたたり、ゲームセンターでのインカム(売上)がふるいませんでした。大量に仕入れてしまった全国のオペレーター(ゲームセンター店主)からの恨みは大きく、それをなだめるために急きょ作られたのが、あの『スターフォース』です(1984年9月11日発売、サブボード交換 OP価格5万4,800円、完成基板 OP価格14万8,000円)。

また、幻のシューティングゲームとして知られる『Au-アウ-』(未発売)は、敵を吸い込んでから吐き出し、ほかの敵にぶつけるというゲーム性になっていました。これはベースとなった『ガズラー』(1983年/テーカン)基板の性能が弱く、大量の弾を画面内に出せなかったことからの苦肉の策だったと聞いています。

当時は企画に合わせてハードを一から作る、といった贅沢なこともありましたが、逆に、ハード性能の制約に合わせて企画を考えなければならないことも多々あった時代でした。その中での創意工夫によって、数々の名作や迷作が生まれた、ということですね。

ゲームの進化論とは別に、このような会社の事情によって新しいゲームが作られるということも、業務用ならではのおもしろいところだと思います。また、のちの「システム基板」の原型であったともいえるでしょう。

ちなみに『がんばれギンくん』は、私のお客様(当時は営業でした)のお店には合わず売り上げが今ひとつで、かなり怒られたことを覚えています(笑)。

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脚注 +