ゲームセンターNTK店長・石井賢司氏インタビュー 「80~90年代・青春をかけたゲームセンター経営」前編

  • 記事タイトル
    ゲームセンターNTK店長・石井賢司氏インタビュー 「80~90年代・青春をかけたゲームセンター経営」前編
  • 公開日
    2026年07月24日
  • 記事番号
    14579
  • ライター
    藤井昌樹

1985~1999年の期間、北海道恵庭市に「NTK」というゲームセンターがあり、そこで店長を務めた石井賢司さんに当時のお話を伺いました。「NTK」はメーカーの直営店とは異なる個人経営の店でありながら、道内各地は元より道外からもプレイヤーが集まる人気店として高い知名度があったお店です。80年代の時点でゲーマー同士が主体的に交流する場を提供するなど、先駆的な取り組みも行っていました。しかし、そのような人気店もゲームセンターの変化の波に飲まれ、最終的に閉店の決断をすることになります。
今回のインタビュー前編では、千葉県での石井さんとゲームとの出会いから恵庭で開店した「NTK」の営業が軌道に乗るまでのお話を伺いました。続く後編と合わせてビデオゲーム主体のゲームセンター、その栄枯盛衰のひとつの事例として貴重な記録となっています。

以前、札幌在住の元ハイスコアラー・中川 剛さんにインタビューを行った際に「NTK」の話題がありました。そのときのお話が筆者の中で強く残っていて、機会があればぜひ石井さんにお話を伺いたいと考えていました。今回の石井さんへのインタビューは、中川さんのご厚意とご協力があったことで実現しました。
中川さんのインタビューで「NTK」についてもお聞きしています。ぜひ、こちらもお読みください。

「NTK」元店長である石井賢司氏

 

千葉県のゲーセンではじめてビデオゲームと出会う

―― 石井さんは今おいくつですか?

石井 63歳です。

―― ということは最初期のビデオゲームに10代の中盤くらいで接していることになります。石井さんが最初に見たビデオゲームは何でしょう?

石井 いちばん最初はいわゆる「ブロックくずし」です。

―― 実際に遊んだのもそちらですか?

石井 いや、「ブロックくずし」とその次の『スペースインベーダー』(タイトー/1978年)はほとんどやっていません。高校生でしたので友だちから学校帰りに「ゲーセンに寄ろう」と誘われることがありましたが、ぼくはやらないで見ているだけだったんです。なぜかというと100円が惜しかった。100円を入れても画面の中が動くだけで、何か景品が出るみたいな見返りがないと感じていたんです。だからはじめはすごく冷めた目でビデオゲームのことを見ていたんですよ。

―― そうでしたか。

石井 だけど、あるきっかけがありました。当時地元だった千葉のゲーセンに『パックマン』(ナムコ/1980年)が置かれたときに友だちがプレイを始めました。当時はテーブル筐体だったから、ぼくは向かい側に座って友だちのプレイを見ようと思っていた。そうしたらその友だちが「これおもしろいよ、やってみな」と言って、勝手に200円を入れて2Pボタンを押したんです。友だちがミスしたら、2Pのこっち側の画面になったので、自分もやることになっちゃった。最初は戸惑ったけど、レバー動かしてどんどんドットを食べていけばいいことがわかって、おもしろいなって感じたんです。それからは自分でも100円入れて遊ぶようになりました。その後も続けて遊んでいたら、同じクラスの友だちが『パックマン』の攻略法をいろいろ教えてくれました。最初のチェリーの面から始まって、次はストロベリーの面。こういうパターンで動くとモンスターに捕まらずにメロンの面まで簡単にクリアできるって教えてくれて。それを覚えて実際に自分でやってみたら先の面まで進めるようになって、周りで見ていた小学生や中学生が「おお、すごい!」って盛り上がったんです。そういうのを見ていて、何か燃えてきたっていうか、それが自分がゲームにハマるきっかけですね。

―― 一緒に行った友だちが勝手に200円を入れて『パックマン』の2Pプレイを始めた。そういう思いがけない出来事が石井さんとゲームの本格的な繋がりのきっかけになったというのはおもしろいですね。

石井さんが、それまで興味を持っていなかったビデオゲームにのめり込むきっかけとなった『パックマン』(※画像はアーケードアーカイブス)
PAC-MAN™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

石井 そういった経緯があってゲームのおもしろさがわかった。さっき言ったとおり、自分は高校生のときに千葉県の習志野市に住んでいました。学校は市川市にあったので総武線の黄色い電車に乗って船橋で乗り換えて通学していたんです。その途中のゲーセンに寄って遊んでいました。そのときにふと「みんなが集まる人気のあるゲーセンってどういうところだろう」と考えることがあったんです。当時だと1プレイ100円のところと50円のところがありましたよね。50円のところでも不良がいてカツアゲされるようなところに行きたくない。一方、不良があまりたむろしないゲーセンでも筐体のメンテナンスがいいところと悪いところがある。ということは最強のゲーセンは50円の店で治安が良くてメンテもいいところでしょ。そうすると口コミでみんなそこに集まるようになるだろう。後に自分はゲーセンの店長になるわけですけれど、まだ一人のプレイヤーだった時点でプレイヤーが行きやすいのは治安が良くてメンテが良くてプレイ料金が安いということを、この時点で実際の経験として学んでいました。

―― それが後にご自身でゲーセンを経営するときに活きてくるのですね。

最初の就職先は北海道・恵庭、その後千葉県へ戻りゲーセンの店長に

石井 高校までぼくは千葉にいたんですけど、その後、何と北海道に就職をします。高校2年生のときに旅行で初めて北海道に行きました。北海道のあまりにもダイナミックな大自然に驚き、水や空気も美味しくて「すごいな、いいな、こっちで働きたいな、住みたいな」と思いました。そうしたら高校3年のときに、日本全国どこからでも社員を広域募集するとして、北海道の企業からの求人があったんです。それで帯広にある会社を第一志望で受けたのですが落ちてしまいました。でも他に北海道の会社からの求人があって、そちらに応募したら合格しました。働くことになったのが恵庭市にあった工場で、寮も同じ恵庭にあったんです。そんな感じでボロい6畳一間での寮生活が始まりました。

―― このときが石井さんと恵庭の最初の接点になるのですね。

石井 ただ仕事は理不尽にきつくて、寮生活もいろいろしんどいことが多くて、もう日常生活が嫌になるレベルでした。それで寮にいるのが嫌だから、仕事が終わったら直行で当時恵庭にあったスーパー「ホクホー」内のゲームコーナーに行って閉店までいることが多かった。そのときの会社は朝5時か6時くらいに仕事が始まって午後3時には終わっちゃうので、そのまま直行すれば3時から4時くらいにゲームコーナーに着く。その時間はちょうど中学生や高校生が学校帰りに来ているから、彼らと一緒にずっとゲームコーナーに入り浸っていました。

―― そこで10代のプレイヤーのゲーセンでの様子を知ることもできたのですね。

石井さんが1981年に通っていた恵庭市のスーパー「ホクホー」の外観(写真提供:石井賢司氏)
恵庭市のスーパー「ホクホー」内にあったゲームコーナー(写真提供:石井賢司氏)

石井 働いていた恵庭の会社は1981年の4月に入社して、翌年の1月に辞めました。9か月とちょっとです。今で言うブラックな会社で、年末年始に千葉に帰ったときに、親にひどすぎる待遇のことを話しました。他に仲が良かった友だちにも話したら、どちらからも「辞めたほうがいい」と言われたんです。それで1月にすぐ辞めて、その後、千葉に戻りました。

―― それまで通っていた恵庭のゲームコーナーで、後にゲームセンターをやろうと思うきっかけになるようなことはありましたか?

石井 月に2回、ゲームコーナーを運営していたエイト・レジャー(*01) のおじさんが来て筐体のコイン箱を開けるんですよ。ガチャンと落ちるくらい重たいコインが、みんなの見ている前に出てきて、「全部で28万円じゃん! これって俺たちが入れた100円だよね」って友だちと話したりしてね。そのときにこっそり「絶対、俺も自分でゲームセンターをやって、これくらい稼いでやるんだ」という気持ちになりました。そういう思いを抱いて千葉に帰ったんです。

―― 千葉に戻られたあとは?

石井 千葉に帰ってから最初の1週間くらいはブラブラ遊んでいたんですが、どこか会社に就職しなきゃまずいなってなったときに、新聞にゲーセンのスタッフの求人広告があったんです。東京の葛飾区に金町というところがあって、そこでゲームセンターをいくつか営業していた会社に応募して、何とか就職できました。バンに乗ってゲーム機を搬入したり、リース先の喫茶店から集金したり、ゲーム機の改造とかもそこで覚えましたね。

―― まずは東京で、社員としてゲーセンの経営に携わったんですね。

石井 ただ、その会社はゲーセンを6~7店舗くらい経営していたんですけど管理が悪かった上に、不良が店にいついて一般の客が来なくなって売上がどんどん落ちてしまったんです。閉店した店から引き上げてきたテーブル筐体が倉庫に120~130台くらい積み上げてありました。そのときに社長が「どこか置いてくれるところはないか、リースするところはないか」と口ぐせのように言っていたんです。そのときにピンときたのが、当時は駄菓子屋にゲーム機が置いてありましたよね。ぼくが住んでいたのは千葉の習志野市。京成電鉄の実籾(みもみ)という駅から歩いて2分のところで、しかもその途中に習志野高校があって学生がよく通る。だから、このエリアにゲーム機を置いたら儲かるかもと思いました。

―― ご実家の近くにヒントがあったんですね。

石井 実家と道路を挟んだ反対側に、ぼくの家が貸していた10坪くらいの貸家があったんですよ。しかも、それまで住んでいた人がちょうど出ていって空き家になっていた。そこのカーポートだったところにゲーム機を置いてみたらどうかと社長に言ってみると「おい、それ置いてみろ。今日にもバンに積んで持っていけ」って言われて。さっそく持っていきました。今でも忘れないんですが、積んでいったゲームが『クラッシュローラー』(アルファ電子/1981年)と『パックマン』。1プレイ30円で稼働させて、最初はどれくらいお金が入るかわからなかったんですけど、始めてみると1日に2000~3000円ずつ入りました。ゲーム機2台で4000~6000円くらい入りますから折半でも結構な副収入になります。稼働開始から2日経ち、金庫を開けて入っていた金額の報告を社長にしたら「そこにゲーム機は最大で何台置けるんだ」と聞いてきたので、「詰めて置いたら6~7台くらい入ります」と答えました。そうしたら社長はバンに積めるだけ積んでゲーム機を持ってきてくれました。追加で入れたゲームは『ドンキーコング』(任天堂/1981年)や『ターピン』(セガ販売・コナミ制作/1981年)、『フロッガー』(セガ販売・コナミ制作/1981年)があったと思います。当初2台だったものが6台になって、売上も順調に上がってきました。最終的には30台リースでしたね。ぼくがそのゲーセンでオーナーとして働いた最後の1年間はリースから買い取りに切り替えました。

―― 就職されてから何年目の頃ですか?

石井 2年目だったかな。買い取りにしてからの最後の1年は、売上が月に60万とか100万円まで上がっていました。リースだと良いゲームが入ってこない場合があるんですよ。だから自分のところで買い取るのがいちばん強いかなって思ったんです。社長にそれを正直に話したら、じゃあ買い取りの段取りをすると言ってくれました。そんな感じで自分がそこで働いた最後の1年は買い取ったゲームを稼働させていました。ただ、その後に実籾のゲーセンを辞めることになります。

―― 辞めた理由は?

石井 風営法の改正で夜中に営業ができなくなる。そうなると売上が苦しいんですよ。その後どうしようと考えたときに、ぼくの頭の中に思い浮かんだのが恵庭です。もしぼくが、千葉のゲーセンで動かしていたゲームを恵庭に持っていったらどうなるのかって考えたんですよ。絶対に地域でいちばん人気のあるゲーセンにできると思いました。エイト・レジャーさんがリースで「ホクホー」に置いていたゲームは最新のものではなく、ちょっと古いものなんです。ということは、千葉のゲーセンに置いてあった新しめのゲームを恵庭に持っていけば、地域でいちばんの人気店になれるはず。それで1985年の2月に、千葉でリースから買い取ったゲームを恵庭に持っていきました。

―― 石井さん自身が買い取ったということですか?

石井 そうです。東京の金町にあった会社が持っていたゲーム30台を全部ぼくが買い取りしました。それで85年に恵庭の末広町というところで15坪の店を借りて、ゲームを30台持っていき、開店しました。だから北海道・恵庭でのゲーセンのスタートは1985年2月10日で、それが開店記念日なんですよ。

恵庭でゲームセンター「NTK」0号店をオープン

―― ちょっと整理しますと、3年ほど千葉の実籾にあったゲーセンの営業に携わり、ゲーセン経営の仕組みとかノウハウ、知見をそこで学んで、それを独立して仕事にできそうだということがわかった。

石井 そうです。実籾での売り上げは自分の取り分的に店の電気代などを引いても40万とか50万円くらいありましたから、それでやっていけそうという見立てもありました。

―― そういった中で最初の就職先が恵庭だったことを思い出して、ご自身で立ち上げるゲーセンを恵庭でということに思い至ったと。恵庭でも「ホクホー」のゲームコーナーの様子を実際に行って知っていたから、地域の状況や来てくれそうな客層など現実的なイメージがしやすかったわけですね。

石井 まさにそういうことです。

―― このときから、お店の名前が「NTK」になったのですか?

石井 いや、千葉の実籾にあったゲーセンも「ファミリーステーションNTK」という名前だったんです。

―― 千葉の名前を引き継いだわけですか。

石井 そうです。その後、恵庭でいくつか店舗を開店しますが全部「NTK」です。ちなみに、ぼくはこの業界を辞めてからマージャン屋を16年やったんですよ。その名前も「NTK」です。

―― この「NTK」という名前をつけたのはどなたなんですか?

石井 「NTK」は「日本テレビゲーム研究会」の頭文字なんです。「日本テレビゲーム研究会」は、ぼくが高校のときに『パックマン』のパターンを友だちと一緒に研究するために作ったサークルでした。その頃ってビデオゲームと言わないでテレビゲームって言っていたじゃないですか。だから「日本テレビゲーム研究会」、略して「NTK」。その名前が、ぼくが16~17歳のときからずっと続くわけです。

―― 自分が学生時代のサークル名を店名にされたんですね。良い話です。ちなみに石井さんが千葉から恵庭に持っていた基板には、どういうゲームがあったのでしょう?

石井 さっき話にあった『フロッガー』などが、まずありました。あと『ゼビウス』(ナムコ/1983年)もありましたね。

―― 当時だとナムコが強かった頃ですよね。

石井 そうです。『ディグダグ』(ナムコ/1982年)や『ドルアーガの塔』(ナムコ/1984年)もありました。

―― 1985年までにリリースされたタイトル数年分が稼働していた感じでしょうか。直営店だとメーカーの意向で置いてあるゲームが変わってしまいますけど、個人経営だと入れ替えが店側の自由にできるわけですよね。

石井 そうです、もう好き勝手に。だから、その個人経営の好き勝手にやるゲーセンがいちばん強いかなと思ったんですよね。恵庭で最初の店を「0号店」と呼んでいるのですけど、そこが開店した頃に『グラディウス』(コナミ/1985年)が出ました。ぼくは自分のアンテナをフル活用して『グラディウス』のことを調べたら、これは人気が出そうだということがわかった。当時『グラディウス』は普通の基板の倍以上の値段だったんですよ。

―― バブルシステム(*02)ですよね。

石井 そうそう、バブルシステムです。それでも基板を買ってうちで稼働させました。すると、やっぱりゲーマーの口コミってすごいんですよ。隣の千歳市にもゲーセンが何軒かあったのですが、千歳のお客さんもみんなうちに来るようになっちゃった。なぜかと言うと、千歳にはその『グラディウス』がなかったから。それで売り上げは順調に上がっていったのですが、お客さんが集まりすぎちゃって店に入れないんです。ちょうどその頃、大型の筐体が出てきます。『アウトラン』(セガ/1986年)や、あと『ダライアス』(タイトー/1987年)ですね。それも買っちゃいましたけど、店内に置くのが難しくなってきた。じゃあもっと広いところを探そうということになって、1987年に「1号店」と呼ばれる33坪のところに移りました。そこだと筐体が60台ぐらい入りました。場所は恵庭の漁町です。

―― 最初の0号店のときにも、それらの大型筐体はあったのですか?

石井 大型筐体はもうありました。15坪でしたけど、『アウトラン』も『ダライアス』も入れましたね。『アウトラン』は、デラックス筐体より小さいスタンダード筐体です。画面がデラックスは26インチで、スタンダードが20インチ。値段が30~40万円ほど違いました。スタンダードはあの当時で買い取り価格が約100万円で、デラックスは130万くらいだったんですよ。

「NTK」初期から稼働していたセガの体感ゲーム『アウトラン』(※画像はNintendo Switch™ SEGA AGES)
©SEGA
「NTK」に置かれていた『アウトラン』スタンダード筐体(※画像は旭川・高砂温泉にて2026年現在も稼働しているスタンダード筐体)
©SEGA

ハイスコア集計と独自のラインナップで知名度が上がっていく「NTK」

―― 最初の0号店に来られた客層というのは?

石井 0号店の頃、やっぱりメインは中学生ですね。中学生メインで高校生が次。小学生はほぼいなかったかな。当時はゲーセンに行かないようにと学校でうるさく言われていましたから。1号店に移ってからの33坪の店は少し年齢層が上がりまして、中学生から高校生と、あと20代の大学生や社会人の方が来ていました。

―― 基本、お店に入れるゲームの選定というのは石井さんが?

石井 もちろん。お金を払うのはぼくですから、入れるか入れないか全部ぼくが決めました。ただ、自分のセンスで入れるだけじゃなくて、来ていた常連さんや、他の従業員の人たちの意見を聞きました。あと、ぼくはメーカーさんのいろいろな人と繋がりがあったので、東京でのロケテストの話もいろいろ入ってきていて、そういうのも含めて判断しました。

―― 従業員さんは0号店からいたのですか?

石井 1号店までは、ぼくだけです。1989年に1号店と並行して2号店を恵庭市本町にオープンしますが、そのときから他の従業員を使いました。ちなみに2号店は、1号店と同じ道沿いの約200メートル離れたところにありました。ぼくが携わったゲーセンは千葉の実籾も含めて4店あったことになりますが、すべて頭に付く名前が違うんですよね。最初の千葉県習志野市の実籾は「ファミリーステーションNTK」、恵庭の0号店が「ゲームプラザNTK」、0号店から移転した1号店が「コミュニティスペースNTK」、2号店が「ジョイスペースNTK」。頭の文字が違っても、みんなの呼ぶ通称は「NTK」なんですよ。

―― ベーマガ(マイコンBASICマガジン)やゲーメストにNTKで集計したハイスコアを掲載されていましたよね。

石井 両方に載せていました。集計を始めたのはどちらの雑誌も1987年だと思います。1号店の時代からで、0号店のときはやっていない。スコア集計や「ゲーマーズ交流会(北海道ゲームの日)」というイベントを始めたのも1号店からです。0号店のときは、ほぼ恵庭市内のお客さんのみでした。他所から来るというのは、ほとんどなかったです。1号店になって名前がコミュニティスペースになり、みなさんが交流会のために道内各地から来るようになって、急速に有名になりましたね。

―― 0号店時代でも恵庭市内のお客さんが多く来られていたのですね。

石井 恵庭市内のゲーセンは、小さなところも入れて5店あったんですよ。その中には、ぼくも行っていた「ホクホー」のゲームコーナーもあった。そういった中で「NTK」の恵庭市内でのシェアは8割あったんじゃないですかね。圧倒的に強かったです。

―― ハイスコア集計を始めようとしたきっかけというのは?

石井 道内の他店で集計したハイスコアが雑誌に掲載されているのを見たことですね。ナムコのキャロット系がよくベーマガに載っていましたよね。それで「うちも載せよう」と思ったんです。お客さんから要望があったというよりは、まずぼくがやろうという感じでしたね。その後、お客さんのほうからも「スコアを載せたい」と食いついてくる人が出てきました。

―― 先ほど『アウトラン』や『ダライアス』が「NTK」にあったという話がありましたが、当時恵庭市内のほかのゲーセンにはなかったんですか?

石井 なかったです。特に『ダライアス』はうちにしかなかったですね。ただ千歳市だとセガやタイトーの直営店があったので、そちらに行けば『アウトラン』や『ダライアス』は置いてありました。基本的に直営店だと自社が発売したゲームしか置かないから、恵庭から千歳の範囲で両方置いてあったのは「NTK」だけじゃないかな。

80年代中期、恵庭市内では「NTK」にしか置いていなかった『ダライアス』(※画像はダライアス コズミックコレクションAE)
© TAITO CORPORATION 1986, 2019 ALL RIGHTS RESERVED.

―― 他の大型筐体もので言うと、中川さんのインタビューの中で『スーパーハングオン』(セガ/1987年)が「NTK」に置いてあったことがわかっています。他のセガの体感ゲームも置いてあったのでしょうか?

石井 『アフターバーナーII』(セガ/1987年)はありました。うちが唯一入れなかったのが『スペースハリアー』(セガ/1985年)なんですよ。

―― ちなみにお店の営業時間というのは? 0号店開店の時点で風営法が施行されているから、閉店は夜の0時までになりますか?

石井 そうですね。午前10時開店で夜の0時までです。

―― 休みの日はあったんですか?

石井 いや、1年365日まったくの無休ですね。千葉の実籾の頃から基本休みなし。移転のときに特別に休業したくらいです。ただ、他の従業員がいるようになってからは、シフトを組んで休むようにはなりました。あくまでお店の休業日がないということです。

独自の取り組み「ゲーマーズ交流会」のはじまり

―― 「NTK」独自の取り組みである「ゲーマーズ交流会」についてお聞きします。

石井 「NTK」で集計したハイスコアをゲーメストに掲載してもらったときに、コメント欄に交流会の告知を載せたんですね。「ゲームの日あります、集まれ、ゲーマーズ交流会、毎月最終日曜日ですよ」って。そうしたら、みんなそれを見て来てくれたんです。中川さんもそうでしたよね。

―― 中川さんのインタビューのときに87年の8月から始まったという話がありました。

石井 交流会はもっと前ですよ。今日のインタビューに先立ってお見せした交流会の写真が1987年の5月だと思います。だから1号店が開店した翌月には始まっています。1号店は交流会をやるために始めた店くらいの気持ちでした。今思い出しましたが、0号店でも1号店に移転する1か月前に1回やったはずです。だからイベントに来ているお客さんの様子を見たときに0号店の時点でゲーマー同士の交流が成立する感触がありましたね。それで1号店の名前を「コミュニティスペース」にしました。

―― 毎月最終日曜日に交流会を開催というのは最初から?

石井 そうです、わかりやすいようにどんな月でも関係なく最終日曜日にしていました。みんなもそれで覚えていましたね。ところが前日の土曜日から来る人が多くなったんですよ。最初の第1回は日曜日だけだったけど、第2回からは、前の日に前夜祭じゃないけど自主的に集まるようになって。うちの店舗の2階に倉庫を借りていたんですよ。そこでみんな寝ていました(笑)。

―― 1回目は何人くらい来たんですか?

石井 1回目はそんなに来なかった。10~20人くらいじゃないでしょうか。1回目はやはり恵庭の人たちがメインで。あとは室蘭から車に乗ってきた人たちがいました。彼らはその後も継続して来てくれて、大きな勢力のひとつだったんですよ。

―― 室蘭の人はどうやってイベントのことを知ったのでしょう?

石井 室蘭から札幌に別の用事で移動しているときに、うちを見つけて入ってきたんですよ。旧国道36号線沿いという幹線道路の見つけやすいところに店があったので、移動中に目に入って「ちょっと寄ってみよう」という感じだったんでしょう。彼らと話したら、そのまま仲良くなっちゃって「今度、他の友人を連れてきますよ」と言ってくれました。彼らは室蘭に住んでいたから、来る途中に苫小牧を通るじゃないですか。その苫小牧の知り合いを途中で乗っけてきたりして。だから最初の交流会のスタートの盛り上がりは室蘭側からです。第2回目からは札幌方面の方たちも来るようになった。月坊(つきだて)ちゃん(*03)や中川さんはそのときからですよね。

左が「ゲーマーズ交流会」に札幌から常連として参加していたハイスコアラーの中川 剛さん。今回のインタビューでは中川さんにも同席していただいた。

―― 1~2回目の段階で道内各地のゲーマーから注目を集めていたんですね。

石井 加速度的に知名度が上がっていきました。道内各地から夜行列車で来ましたっていう人がいたり、函館や稚内、帯広や北見から来る人もいた。函館からは自転車で来た人がいて話題になりましたよね。

―― 87~88年の時期でそのレベルのゲームイベントは他になかったですよね。

石井 ないです。そういう意味で道内のゲーマーにしてみれば「NTK」は一世を風靡した店だったと思います。うちの店が強かった理由がもうひとつあって。千葉でゲーセンを経営していたときの会社が取引していたタイトーやコナミ、セガといったメーカーさんの営業の人と、ぼくが恵庭に移ってからもずっと繋がっていたということです。だから情報をもらったり、場合によっては問屋さん経由で「NTK」でロケテストをやることもあったんです。

―― 前職での繋がりを活かせたんですね。

石井 特にうちはカプコンさんに注目してもらったのが強かったですね。なぜ注目してもらったのかというと、他店では入れていない『ストリートファイター』(カプコン/1987年)をうちに入れていたんです。1作目の『ストリートファイター』は道内でそれほど多く稼働していなかったんですよ。それを恵庭のこんな30坪の小さな店に入れたものだからメーカーさんも注目してくれて。そういった東京のいろいろな営業の人との繋がりがあったので、良いゲームを早く店に入れられる。それから筐体のメンテナンスにも気を遣ったし、店内の居心地も良くした。居心地というのはカツアゲするような不良がいないということです。それは自分がかつてゲーマーだったから、ゲーマーの気持ちがわかるわけですよね。同じゲーセンに行くならまずメンテのいい店。それから100円か50円かなら安いほう。それと居心地の良い店。最後は店内がコミュニティの場になっていること。そこに行けば他にも誰かゲーマーがいて、知り合いになる。そうすると「あいつがいるかもしれないから行こうかな」ってことにもなりますよね。そういった相乗効果で強い店ができました。最初に恵庭の会社に就職したときに「ホクホー」のゲームコーナーで考えていたことを実践したわけです。

(後編につづく)

インタビュー協力:GAMERSBAR lettuce702
北海道札幌市中央区南6条西3丁目第8桂和ビル4階
X(Twitter):https://x.com/gblettuce702
TEL:090-9757-1646
『アウトラン』筐体・撮影協力:旭川 高砂温泉
北海道旭川市高砂台8丁目1−235−15
X(Twitter):https://x.com/takasago_onsen
TEL:0166-61-0227

本インタビューにあたって、下記の皆様にご協力をいただきました。こちらにお名前を紹介させていただき、お礼を申し上げます。(敬称略)

 中川 剛
 佐藤 昌信(GAMERSBAR lettuce702 店長)
 ATS
 島貫 敬淑(旭川 高砂温泉スタッフ)

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