『ベーマガ』&『エイリアンフィールド』復刻記念!大橋編集長×水上氏×市川氏 特別インタビュー 前編
1980年代、マイコン少年の心をわしづかみにした電波新聞社の月刊誌『マイコンBASICマガジン』(以下『ベーマガ』)。
その誌名通り、当時の主流だったプログラミング言語『BASIC』を対象に、読者の作成したプログラムが多数掲載されており、マイコン(パソコン)ファンだけでなく、ゲームファンを魅了した人気雑誌でした。
当時、自作のプログラムを投稿するのは中高生~若者が中心で、その中から多くのクリエーターも生まれました。いわば、クリエーターの登竜門的な役割も担っていました。
もともと『ベーマガ』は、電子工作やアマチュア無線、BCLブームに支えられていた人気雑誌『ラジオの製作』の特別付録として、1981年4月に誕生。マイコンブームの後押しで定期的に掲載されるようになり、1982年6月には『ラジオの製作』から独立する形で、晴れて月刊誌として創刊されました。
その『ベーマガ』がまだ付録だったころ、付録の創刊号に初めて掲載されたのが、PC-8001用(*01)のドットイートゲーム『エイリアンフィールド』でした。『エイリアンフィールド』は当時、中学生読者であった水上恵太氏が作成したもので、大きな話題となりました。
この水上氏が制作した『エイリアンフィールド』に深く感銘を受け、後にゲームクリエーターを目指すようになったのが、マインドウェア代表取締役の市川幹人氏です。
市川氏はこれまでに多くのレトロゲームを復刻させてきましたが、自分の原点ともいえる『エイリアンフィールド』をかねてから復刻したいと考えており、制作者の水上氏を探し当てることに成功。本人から許可を得ると、2018年冬に復刻版の発売を発表します。
そんな中、なんと同時期に『ベーマガ』が再創刊されるという、うれしいニュースも飛び込んできました。
2003年に惜しまれつつ休刊となった『ベーマガ』ですが、今回は、電波新聞社刊『電子工作マガジン』の特別別冊付録として、現代の子供たちに向けた新たな『ベーマガ』が企画されているとのこと。この企画の立役者というのが、当時の名物編集長だった大橋太郎氏であり、現『電子工作マガジン』編集長だというのだから、楽しみが高まります。
『ベーマガ』再創刊版『マイコンBASICマガジン 41号』の発売日は2018年12月19日。それに合わせるように『エイリアンフィールド』の復刻版となる 『エイリアンフィールド3671』も同日に発売されます。実はこの流れ、発売日以外はまったくの偶然で動いていた別々のプロジェクトというから驚くではないですか。
今回は、この2つの復刻を記念して大橋編集長、水上氏、市川氏をお招きし、当時の開発秘話を交えながら、ゲーム作りの魅力に迫ってみたいと思います。
プログラム作りに熱中した中学生時代
――最初に、『ベーマガ』創刊号掲載プログラム第1号となった『エイリアンフィールド』の作者である水上恵太さんに、当時の状況から伺いたいと思います。『ベーマガ』創刊号にゲームが掲載された経緯について教えていただけますか?
水上 僕はもともと、電子工作やアマチュア無線をやっていた関係で『ラジオの製作』の読者でした。当初からマイコンをやっていたわけではないのですが、1980年代になって電気設備業をやっていた父親がマイコンを買うぞと言い出して、「それは何だろう?」と気になって、マイコンを売っているお店に通い始めるようになりました。
それでいろいろなお店に行ってマイコンについて調べているうちに、これはおもしろいと思うようになりました。
当時、マイコンはものすごく高価なものだったので、店頭でマイコンを触らせてくれる家電店がいくつかあって、自分はその家電店へ行き、見様見真似でプログラミング的なことをするようになりました。
最初は雑誌に載っているプログラムの打ち込みをするところから始まって、何か自分でも作ってみたいということで、いろいろなものを作り始めました。
当時はBASICの使い方を覚えながらプログラミングしていたので、新しい命令を使っていろいろなものを作っていました。その中でたまたまできた1本が『エイリアンフィールド』です。
家電店のマイコンコーナーというのは、ゲーム好きというか、新しモノ・おもしろモノ好きの子供たちが集まっていたので、そこでその子たちにプレイしてもらって、すぐにフィードバックをもらっていました。そういう形で、当時は何本もゲームを作っていましたね。
マイコンがあれば何でもできると思われていた夢のあった時代で、それと、当時テレビの画面に何かが映るということにものすごく感動したんですよ。
テレビというものは番組を見るもので、そこで何かをするというのは違う次元の世界だと思っていたんですが、マイコンが現れてから、画面上に自分の打った文字が映し出され、自分のプログラムが動き出すということに、当時の僕はすごくびっくりしたし、おもしろくて感動しましたね。
――ちなみに、それは何歳ぐらいの頃のお話ですか?
水上 15歳だったかな。中学生ですね。
――店頭で遊んでいたのはPC-8001ですか?
水上 そうですね、PC-8001でしたね。店頭にはMZ-80(*02)や、ほかにもいろいろな機種がありましたが、父親がPC-8001を買うと言っていたので、それでPC-8001ばかり触っていました。
当時は、地元には数軒ほどマイコンが置いてあるお店があったんですが、僕はタダで使わせてくれるお店にばかり行っていました。温泉地の旅館のテレビみたいに、100円を入れると30分遊べるみたいなお店もありましたが、僕はそこに通っていた子供のことをブルジョワだと思っていました(笑)。
――当時は、店頭で使わせてくれるお店がたくさんありましたね。
水上 結局、電気屋さんにしてみても専門店ではないので、マイコンの説明ができないわけですよ。なので使ってもらうことで、子供たちでも簡単に使えるんですよというアピールができていたんですよね。
『エイリアンフィールド』がベーマガに掲載される経緯
――そこからベーマガに投稿するまでは、どんな経緯があったんですか?
水上 僕はその頃『ラジオの製作』を読んでいて、一度、記事について編集部に問い合せたことがありました。当時、僕はFMトランスミッターを使って番組を流すというようなことをやっていて、確か、その関連記事が『ラジオの製作』に載ったことがありました。はっきり覚えていませんが…。
大橋 (そんな企画記事を)やったんじゃないでしょうかね。あの頃、それも流行らせようと思っていたので。当時は、ラジオにFM放送が加わり、そこの空いているところを使って放送局を作ろうというような特集記事をやっていた時代ですから。
水上 当時ソニーが、ラインイン端子の付いている卓上トランスミッターを出していたんですよね。それを使っていろいろ遊んでいました。僕の友人は、それこそラジオ番組を作り、放送っぽいことまでやっていましたね。
そんな関係で、編集部とは何度かやり取りをしていて、どうしてそんな話になったのか覚えていないんですが、編集部から「今度マイコンの雑誌を出すから、プログラムを書いてみないか?」 というようなことを言われて、編集部に自作のプログラムを送ったんです。そうしたら、「それが評判いいので掲載させてくれ」という話になったんですね。だから、正確に言うと投稿作品ではないんですね。
大橋 そうですね。依頼した形ですね。当時、特別付録として『ベーマガ』を作ろうっていうことになったんだけど、そこにはサンプルがいるだろうという話になりました。その頃、ハドソン(*03)の工藤裕司社長と仲が良くて、相談したんですよ…。
大橋 なぜ『ベーマガ』を出そうと思ったかというと、その頃、電波新聞社ではすでに『月刊マイコン』という雑誌を出していて、すでに売れていてものすごく分厚い雑誌になっていたんですね。他社からは『ASCII(アスキー)』だとか『I/O(アイオー)』というマイコン雑誌も出ていて、これらは圧倒的なシェアでした。
そんな中、誰が言い出したか覚えてないんですが、世の中には大人向けのマイコン雑誌ばかりだから、子供向けの雑誌を作ってもいいんじゃないかという話が出ました。当時、小中学生向けには『ラジオの製作』があり、こちらもかなりの部数が出ていたので、その中でやることになりました。
そのちょっと前くらいに、8,000~9,000円ぐらいのテレビゲーム用のチップがアメリカから入ってきていて、そのテレビゲームのチップというのが秋葉原で流行っていた時期がありました。
LSI(大規模集積回路)というのが出てきた頃の話ですが、ものすごくチップが売れた時期があったんですね。そんなことも誌面で扱っていて、これは子供にもいけるんじゃないかと考えていた頃でしたね。
そんなともあって『ベーマガ』を、テストがてら『ラジオの製作』の付録として出すことになりました。そこで、誌面で何をサンプルに付ければいいのか分からなくて工藤社長に相談したら、「これからはマイコンでゲームを作る時代だよ」と言うんですね。
当時、私はそんなことあるのかなぁ、なんて思ったんだけど、編集部でもそれがどうもいいらしいという話になりました。それでいろいろと網を張っていたら、マイコンに詳しい少年がいることが分かりまして、水上少年にちょっとカマをかけたら、やってくれるという話になったんですね。
水上 (笑)
大橋 「原稿料を差し上げるのでプログラムを送ってくれないか」という話をしたのがきっかけでしたね。
――それで水上さんのプログラムが掲載第1号になったわけですね。
大橋 そうですね。それから誌面も少しずつ変わっていきました。あっちこっち方向性をシフトしていったんですね。何をやったらいいか試行錯誤していましたね。
プログラムのリードエラーがそのまま掲載された創刊号
水上 当時、編集部に送ったプログラムのカセットテープが読み込めないって言われて、リードエラーがたくさん出たようでした。表紙に使われているソースの写真も、自分が送った『エイリアンフィールド』のものなんですが、リードエラーが出ていたせいで不自然なスペースがいくつも入っていて…。
編集部でもリードエラーを修正したそうなんですが、修正しきれてなくてそのまま載っているんですよね。
市川 でね、次号にちゃんとデバッグ情報が載るんですよ(笑)。
大橋 1カ所間違えても動かないですからね。そういうことも、編集をしていて少しずつノウハウとして溜まっていきましたね。
市川 まさに、誰もやったことがない世界を雑誌にしていくという。参考書がない状況から始まっていくから、もう大変な時代でしたね。
――プログラムを雑誌に掲載するというのもノウハウが必要でしたよね。
大橋 そうですね。すでに隣の編集部の『月刊マイコン』では(プログラム掲載を)やっていたので、そのノウハウを多少は得ていましたけど、試行錯誤でしたね。あと、差別化しなきゃいけないので、『ベーマガ』では、基本的にはプログラムリストは、1プログラム1ページでやっていました。それ以上になるのは、よほどおもしろいもの以外は載せない、というコンセプトでやっていました。
――(1プログラム1ページというのは)簡単に入力できるようにという配慮ですか?
大橋 そうですね。あとマシン語で書いちゃうと、どこが間違っているのかも全然分からないから、それは排除するということで、他紙と差別化を図っていました。当時、三大マイコン誌と呼ばれていた『月刊マイコン』『ASCII』『I/O』には、とにかく長いプログラムリストが載っていました。
どれも、そのまますぐに販売できるようなプログラムばかりだったので、本誌では短く簡潔なものを選ぶようにしました。当時『ベーマガ』は、早い人で8歳ぐらいから、(上は)15歳ぐらいまでの子供たちが読んでいたので、その子たちでも遊べるものにしたかったという目的もありましたね。
――子供たちがターゲットということが理由だったんですね。
大橋 編集責任者の私自身も、これぐらいしか分からないですから(笑)。アマチュア無線とかそういうのは得意だったんだけど、マイコンは難しかったですからね。
市川 実際に自分が『ベーマガ』を読み始めたのは、小学校4年生か5年生ぐらいだったんですけど、『I/O』なんかは工業英語講座みたいのをやっていて、小学生がそんなのを読んで分かるか、という世界だったんです。後に役に立ちましたが(笑)。
ぶっちゃけ、その頃ほかの雑誌には相手にされてないでしょというプログラムが多かったというのは感じていましたね。やっぱり『ベーマガ』は、誌面がやわらかかったというのがありますね。
脚注
↑01 | PC-8001 : 1979年に日本電気から発売されたパソコン。当時、パソコンは20万円以上の高額なものであったが、このPC-8001は16万円代と比較的手ごろであるため、一般家庭にも普及した。 |
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↑02 | MZ-80 : 1978年に発売されたシャープの8ビットのパソコン。BASIC言語を採用し、初心者でも容易にプログラミングができることから、マイコンファンの人気を独占した。 |
↑03 | ハドソン : かつて北海道にあったゲーム開発会社。1984年にファミコン業界に参入し、『ボンバーマン』シリーズ(1985年~)や『桃太郎伝説』シリーズ(1987年~)などのヒット作を生み出す。2012年にコナミデジタルエンタテインメントに吸収合併され、事実上消滅した。 |