『ベーマガ』&『エイリアンフィールド』復刻! 大橋編集長×水上氏×市川氏インタビュー 中編

  • 記事タイトル
    『ベーマガ』&『エイリアンフィールド』復刻! 大橋編集長×水上氏×市川氏インタビュー 中編
  • 公開日
    2018年12月17日
  • 記事番号
    721
  • ライター
    高橋 ピョン太

マイコン(パソコン)少年たちを夢中にさせたゲーム雑誌『マイコンBASICマガジン』(以下、ベーマガ)。そして、この『ベーマガ』の創刊号にプログラムが掲載された『エイリアンフィールド』。

これら2つの復刻版の同時発売を記念して企画された特別インタビューの中編では、時代を作ってきた『ベーマガ』と、そこから誕生した『エイリアンフィールド』の軌跡をさらに深堀りしていきます。

『ベーマガ』の名物編集長・大橋太郎氏、『エイリアンフィールド』の生みの親でもある水上恵太氏、そして『エイリアンフィールド』を復刻させた市川幹人氏。

『ベーマガ』創刊号の裏話から、『エイリアンフィールド』が結んだお三方の不思議な縁、そして当時の反響まで、今回も充実した内容となっています。とくとご覧あれ!

予想を上回った2つの『ベーマガ』創刊号

▲『ラジオの製作』の特別付録として初めて世に出た『ベーマガ』。こちらには水上氏の『エイリアンフィールド』のプログラムが掲載されている(画像:マインドウエア提供)

――まずは『ベーマガ』が『ラジオの製作』の特別付録として創刊された当時の反響について伺います。

大橋 とにかく本誌は特別付録の創刊から評判が良かったですね。当時は読者から本誌の感想が書かれたハガキが返ってくるんですが、その数がものすごくて…。

それを全部読んで次の企画を考えたり、どういう方向性にしたらいいか、参考にしていました。付録の創刊号が大好評だったので、毎号付けることになりました。

――水上さんのほうは、特別付録の『ベーマガ』創刊号にご自身のプログラムが掲載された後の評判はどうでした?

水上 自分の周りでは、実はあまりマイコンで遊んでいる人がいなかったので、正直、反響は少なかったですね。

――ちなみに当時は、ご自身の作ったゲームをどんなふうにして遊んでいたんでしょう。友達に披露するようなことはあったんでしょうか?

水上 そうですね。友達に遊んでもらうには、そのためにユニー(店頭にマイコンを置いていた電気店の入っていた総合スーパー)に行っていました。当時は、今のようにネットでダウンロードして遊んでもらうという環境がないので、そういったマイコンのある店に自分のプログラムを持っていって、友達に遊んでもらっていました

――(『ベーマガ』に)掲載された時、ご自身はどんなお気持ちでしたか?

水上 掲載されて、誇らしく思いましたね。全国に何万部と配られている本に自分の名前が載って、たくさんの人に読まれるんですから、そりゃあ、うれしいですよね。

――ちなみに、付録として創刊された当初は、もう月刊誌として創刊することが予定されていたんですか?

大橋 いや、様子を見ていました。

当時の販促資料を懐かしそうに見る水上氏(左)と大橋氏(右)。1985年5月調べで「パソコン保持率」は37%となっていた

市川 僕は付録だった頃から『ベーマガ』の熱烈な読者で、毎月『ラジオの製作』の付録を楽しみにしていました。それから月刊誌としての創刊されるまで、1年2カ月の期間が過ぎていくのですが、月刊誌になった月に、僕はそんなことも知らないでいつも通り『ラジオの製作』を買いました。

付録の『ベーマガ』を楽しみにしていたのに付いていなかったので、「どうしてなくなったんだろう? あんなに毎月盛り上がっていたのに…」って思っていたら、1週間後に月刊誌となった『ベーマガ』が本屋さんに並べられていた。とても衝撃的でしたね。月刊誌となった『ベーマガ』は300円だったんで、一瞬買うのを迷ったんですけど、すぐに「買おう」って決意した記憶があります。

▲1982年6月に単体で初めて発行された『ベーマガ』創刊号

――300円はかなりお得な価格帯だと思いますが、『ラジオの製作』を買ってから新たな300円の出費は小学生にとっては痛いですね。

市川 痛いですよ~。親に『ラジオの製作』を買ってもらってから、さらに『ベーマガ』を買ったわけですから。1982年7月号の『ラジオの製作』の本誌は、たぶんほとんど読まなかったと思います。「なんだ付録付いてないのかよー」っていう感じでしたから(笑)。

大橋 実はこの頃、付録で出していたものが単品で売れるかどうか、テストしていた時期がありました。秋葉原で、当時親しかった角田無線電機のお店のマイコンコーナーに、『ベーマガ』のロケテストのつもりで「150円」という値段を付けて単品で置いてもらったんですよ

当時、毎日秋葉原に通ってどれぐらい本誌が減るかを見ていたんですが、かなりの勢いで減っていきました。すぐに、これはいけるなと確信しましたね。

市川 当時の速度感を考えると、かなり驚異的な話ですね。

――月刊誌として創刊したときは何部ぐらい刷ったんですか?

大橋 当時、少年たちをターゲットにしたマイコン雑誌はなかったですからね。ロケテストで売れるというのは分かったんですが、会社の上層部が最初は慎重に行こうということで、創刊号は8,000部ぐらいに抑えて印刷しました。内心ではもっといけると思っていたんですが…。

当時、本は取次(*01)を順番に回っていき、各取次ごとに配本の部数を決めていくんですが、最初の取次が『ベーマガ』の初版を全部買い受けることになったんです。ほかの取次に回らなくなるってことで、急いで副社長に電話をして増刷することになったんですが、雑誌は大量に増刷することもできない。なので、なんとかちょこっと増刷して対応したんですね。

そして、いよいよ発売になってからスリップ(本に挟んである短冊型の売り上げ・補充注文票)がたくさん返ってきたんですね。このスリップが返ってくるというのは書店からの再注文を意味しているんですが、返ってきた分、また配本しなければならないんです。

一週間もしないうちに箱いっぱいのスリップが返ってきたんで、また増刷したんです。最終的に、創刊号は4万部ほど売り上げたと思います

脚注

脚注
01 取次 : 出版社から書店へ書籍・雑誌などの出版物を取次販売する流通業者。

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