アーケードゲームマニア必携のコントロールボックスを生み出した男! 鈴木康史氏インタビュー前編

  • 記事タイトル
    アーケードゲームマニア必携のコントロールボックスを生み出した男! 鈴木康史氏インタビュー前編
  • 公開日
    2019年07月05日
  • 記事番号
    1116
  • ライター
    こうべみせ

1990年代に青春時代を過ごした古参ゲーマーにとって、コントロールボックスは憧れのアイテムだった。家庭用ゲーム機やPCなど、当時の一般的なゲームプラットフォームはアーケードゲームを完全移植するには非力で、本物のアーケードゲームを家庭で楽しめるコントロールボックスは、オリジナルにこだわるマニアにとって唯一無二の存在だった。

そんなコントロールボックスを当時から作り続けてきたのが、キョーワインターナショナル鈴木康史氏だ。氏の手から生み出される「COMBOシリーズ」などのコントロールボックスは、耐久性と操作性に優れ、「家でアーケードゲームを楽しむにはこれでなければダメだ」というファンが多い。

▲現在の製品である「COMBO AV EX++」。レバー、ボタンは三和電子製を使用している(画像:公式サイトより引用)

この度、キョーワインターナショナル代表の鈴木氏に直接お話を伺う機会を得られたので、これまで気になっていたことについて質問してみた。コントロールボックスの誕生秘話やキョーワインターナショナルの意外な側面まで知ることができる興味深いインタビューを前後編の2回でお届けする。

【聞き手】
ゲーム文化保存研究所
所長:大堀 康祐
ライター:こうべみせ

ゲーム喫茶の経営から始まったキョーワインターナショナルの歴史

──キョーワインターナショナルさんといえば、アーケードゲームを自宅でプレイできるようにするコントロールボックスの製作・販売をしている会社で、私や大堀所長のような古参ゲーマーはお世話になった人も多いと思います。私の記憶では、1980年代くらいからゲーム誌で御社の広告をよく目にしていましたが、会社自体はいつ頃から活動されていたのでしょうか。

▲「KIC-045DX」が発売された時の『ベーマガ』(1988年)掲載広告(画像:公式サイトより引用)

鈴木 私自身は1977年頃には『ブレイクアウト』(1976年/アタリ)の販売を、仕事ですでに始めていまして、そのうちリースもするようになりました。自分のロケーション(店舗)も経営していたので、しばらくはそれで仕事は安定していましたよ。

大堀 それじゃ『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)が出る前から、ビデオゲームに携わっていたということですね。 『ブレイクアウト』もリースはしていたんですか?

鈴木 『ブレイクアウト』の時は販売だけでした。リースを始めたのは『スペースインベーダー』からでしたね。『スペースインベーダー』が発売になって、しばらく経つと周りの噂や世間の雰囲気で「スペースインベーダーは人気が出るな」と感じたんですよ。

──その当時から「キョーワインターナショナル」の屋号で仕事をしていたのですか?

鈴木 その時はまだ個人の名前でやっていました。ただ「キョーワインターナショナルカンパニー」という名前は既に登録していましたね。

──ビデオゲーム、アーケードゲームの黎明期からこの業界でお仕事をされていたわけですね。

大堀 当時はご自身のロケーションも持っていたということですが、どの辺りで営業されていたんでしょうか。お店の名前を教えていただけますか。

鈴木 当時はゲーム喫茶を経営していました。店があったのは東京・神田と秋葉原です。秋葉原の店は「フランセ」という名前でした。その場所は今だと買取センターか何かになってしまっているのかな。近くに「やっちゃ場(青物市場)」(東京都中央卸売市場神田分場)があったから、夜になるとトラックの運転手などのお客さんで賑わいました。神田にあったのは本店で、そちらは専修大学や専門学校の近くだったので、学生さんがいっぱい来ました。どちらも売り上げは良かったですね。

──どちらも立地的に集客しやすい場所ですね。

鈴木 あと、江東橋(墨田区)で「リスボン」という店もやっていました。お相撲さんがよく来る店で、(元大関)朝潮(現、高砂親方)も常連客でしたよ。大ちゃん(朝潮の愛称)が来ると『ギャラクシアン』(1979年/ナムコ)を無料でやらせてあげたんだけど、あの人はゲームが下手だからすぐ終わっちゃった。ほかにも都内のあちこちに店を出していましたよ。

一同 (笑)

インベーダーブームで得た収益を原資に法人化

大堀 全部で何店くらい経営されていたんですか?

鈴木 最盛期で20軒くらいですね。ゲームは30台から多い時は50台くらい置いていました。当時は1店舗あたり1カ月間で100万円分くらいの100円玉が筐体に入っていました。それらはまるまる収入になったから、良い稼ぎになっていましたよ。

大堀 やはり風営法改正前(*01)で、24時間営業が許されていたことが大きかったんじゃないですか? 特に『スペースインベーダー』がブームになった時期とかは売り上げが桁違いにすごかったでしょうね

鈴木 風営法改正前と言っても、自分が経営していたのは喫茶店だったので、あまり関係ありませんでした。喫茶店営業に対する制限はありましたけど。ただ、遊技場を経営していたところはすごかったようですね。当時、ゲームセンターで業績を伸ばして上場したようなところもあったかな。そういうゲームセンターは24時間電源を入れっぱなしでしたよ。そういったところからゲームを中古で引き取ることもあったんですけど、ブラウン管の焼き付きがすごいんです。それだけフル稼働だったんでしょうね。

▲インベーダーブームのさなかには基板が足りないといった状態になることも(画像:『スペースインベーダー』公式サイトより引用)©TAITO CORPORATION 1978 ALL RIGHTS RESERVED.

大堀 じゃあ、鈴木さんご自身が経営していたのは喫茶店で、ゲームセンターではなかったのですね。

鈴木 喫茶店が主でした。

大堀 ゲーム喫茶をしながら、リースもされていた感じですね。

鈴木 昔はテーブル代わりにゲームを何台か置くっていうのが喫茶店の定番でしたから。

大堀 100円のゲームで月に100万円売り上げるのだから、すごいです

鈴木 その売り上げがあったから会社を始めようと思ったんです。

脚注

脚注
01 風営法改正前 : ここでは1985年2月に施行された「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」以前を指す。この年の改正で、ゲームセンターが属する業種(8号営業)の営業禁止時間帯が「午前0時から日の出まで」と定められた(2016年の再改正で、現在は8号営業から5号営業にカテゴリーが改められている)。

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