アーケードゲームマニア必携のコントロールボックスを生み出した男! 鈴木康史氏インタビュー前編

中古基板を通販したら予想外の人気に

──1980年ころから中古基板販売を手掛けるようになったのは、基板改造からの自然な流れだったのですか?

鈴木 流れとしては自然にそうなっていった感じですね。基板を改造するほかにも、新しい基板を販売していたものですから、新しい基板を買ってくれたオペレーターのところには、使わなくなる古い基板がダブついてくるんです。それを買い取って中古基板販売用の商材が増えていった感じです

大堀 改造業務をしていたということで、最初は中古基板販売もゲームセンターのオペレーター向けだったと思います。それをゲーム好きな一般の人に向けて売り始めるようになったのは、何か契機があったんですか?

鈴木 中学生の頃に『模型と工作』に載っていた広告を見て通販で買い物をした記憶があったものですから、1980年か1981年に、『トランジスタ技術』(1964年~/CQ出版社 ※01トランジスタ技術 : 電子工学系の雑誌。愛称は「トラ技」。真空管からマイコンまで、幅広いジャンルの電子工作を中心にした記事を掲載している。)や『ラジオの製作』(1955~1999年/電波新聞社※02ラジオの製作 : 電波新聞社が1955年から1999年に発行していた月刊誌。アマチュア無線やパソコン、オーディオなど、エレクトロニクス関連の記事を総合的に扱い、人気を集めていた。)に中古筐体の広告を出したんです。ゲーム基板付きで3万円とかの値段を付けて。それが個人客相手に販売をした最初ですね。

──反響はどうでしたか?

鈴木 当時は珍しかったせいもあったのか、けっこう売れましたよ。テーブル筐体を欲しいという人がたくさんいました。売り上げはだいぶ良かったですね。

大堀 その頃に『スペースインベーダー』を3万円で売ることができたんですか? 筐体を含めてだと、まだ高価なものだったのではないかと感じるのですが。

鈴木 いや、当時はもうまったく売れなくなってしまっていて、『スペースインベーダー』のライセンス生産をしていたロジテック※03ロジテック : 1976~1983年まで営業していたアミューズメント系のメーカー。アーケードゲームやカラオケ機器の製造を行っていた。同名のパソコンの周辺機器メーカーとは無関係。とか、倉庫に積まれているような状態でみんな困っていたんですよ。同社はインベーダーブームの後に会社を畳んでしまいましたが、藤沢にあった倉庫まで、いらなくなったかなりの数のゲームを引き取りに行ったくらいですから。

大堀 それじゃ、3万円で販売しても充分な利益が出たんですか。

鈴木 1万円で買い取ったりしていたので処分価格みたいなもんでした。

──当時から中古アーケードゲームを購入するような人はゲームファンだったのですか? それとも喫茶店の経営者が安くゲームを入手しようとしていたとか。

鈴木 私は趣味の延長で、『トランジスタ技術』辺りに、基板やパーツを筐体と一緒に出せば売れるだろうと考えて広告を出したんですよね。工作好きの人をある程度対象にしていたんです。その後も広告を見れば分かるんですけど、フルキット、要するに組み立てキットもメインで売っていたんですよ。コントロールボックスは『ラジオの製作』で取り上げてもらって、けっこうお客さんがつきました

大手メーカーにも認められた鈴木氏のビデオコンバーター

──ということは、その頃にはもうコントロールボックスを作っていたんですか?

鈴木 コントロールボックスの発売は1985年です。一般のお客さん向けに筐体の販売を開始してから2~3年経ってからでしたね。コントロールボックスの販売を開始するまでの間はRGBコンバーターやビデオコンバーターといった映像信号変換ボード※04映像信号変換ボード : RGB信号をビデオ信号に変換したり、その逆でビデオ信号をRGB信号に変換するなど、入力された映像信号を別の方式にする回路基板。を作っていました。当時はそういった製品がほかにありませんでしたから、いろんな雑誌で紹介されました。ビデオコンバーターが完成して、RGB信号をビデオ出力やS端子出力にきれいに変換できるようになったので、それからコントロールボックスの製作を始めたんですよ

──ビデオコンバーターの存在が前提になっていたんですね。

鈴木 ビデオコンバーターがなければ、家庭のテレビでは遊べませんから。当時はほかにもビデオコンバーターは存在していたのですが、映像出力の調整がいろいろと面倒だったんですよ。きれいに映像変換できるものがなかったんです。私が作ったビデオコンバーターはそれがうまくできたんです。きれいにビデオ出力できるコンバーターが作れたので、「うちのコントロールボックスはアーケードゲームを家庭で楽しめます」というように売り出せたんです。感覚としてはファミコンと似たような感じですね。

──鈴木さんが作られたビデオコンバーターの性能は、群を抜いて良かったということですね。

鈴木 私が作ったビデオコンバーターは、ソニーのOEM製品として1992年のバルセロナオリンピックでも使われたんですよ。「ジャンボトロン※05ジャンボトロン : ソニー製の超大型屋外モニター。1985年に開催された「つくば科学万博(国際科学技術博覧会)」で初めて使用され、その後は野球場など多くの施設で使われるようになった。画面表示に蛍光表示管を採用し、それまでは難しかった鮮やかなフルカラー表示を可能にしたっていう大きなモニターに出力するためのものでした。

大堀 それはすごいですね!

鈴木 それまでソニーにはビデオコンバーターがなかったんですよ。ソニーが1645※061645 : ソニー製のビデオエンコーダーIC「CXA1645」のこと。消費電力の違いで1645Mと1645Pの2種類が存在する。RGB信号をY/C信号やコンポジットビデオ信号に変換する機能を持つ。初代プレイステーションに採用されていた。という、プレイステ-ション1にも使った高性能コンバーターを出したのは(1992年のバルセロナ)オリンピックの後になってからです。

──だからビデオコンバーターのノウハウがあった鈴木さんに白羽の矢が立ったということですか。

鈴木 そういうことになりますかね。ほかにも、私のビデオコンバーターはボウリング場のオートマチックスコアラー(自動採点機)のモニター出力にも使われました。鷺ノ宮(東京都中野区)に「パークレーン」というボウリング場があったんですけど、スコア表示に使用するRGBモニターの手配が間に合わなかったようで、急遽30インチくらいの液晶にビデオ出力することになったんです。そこでは30数台分のビデオコンバーターが使われることになりましたよ。

大堀 鈴木さんのビデオコンバーターは注目を集めて、いろんなところで採用されたんですね。

鈴木 ビデオコンバーターだけでも当時はいろんな展開をすることができました。

初期のコントロールボックスはビジネスホテル向けの業務機

──ビデオコンバーターが完成してからコントロールボックスの製作に入られたというお話でしたが、もともとはコントロールボックスのパーツとして必要だったから、ビデオコンバーターを先に手掛けたという流れだったのでしょうか。

鈴木 どちらかというとその逆で、良いビデオコンバーターを作ることができたので、それを生かせるコントロールボックスを作ってみようかという感じです。コントロールボックスには前身となる製品があります。1985年に販売開始した「G・BOX」という業者向けの機器なんですが、麻雀ゲームなどをビジネスホテルのテレビにビデオ端子でつないで遊べるようにしたものです。それについては当時の『月刊コインジャーナル』(1976~2001年/エイ・クリエイト社※07月刊コインジャーナル : アミューズメント機器やゲームセンターに関する情報を扱う業界専門誌。出版社の事業停止とともに2001年に廃刊するが、編集部は現在の出版社(アミューズメント・ジャーナル)へ移籍し、現在は『月刊アミューズメント・ジャーナル』として刊行中。)を読めば分かると思います。広告を出していたし、紹介記事も載っているはずですから。「G・BOX」の「G」は、ゲームではなくて、ギャンブルの「G」を意味しています。麻雀ゲームのような映像はビデオ端子できれいに映すことができたんですよ。

──まだその頃はコンシューマー(一般消費者)向けではなくて、ビジネスホテルですとか完全に業者向け、B to Bでやっていたんですね。ちなみに、「G・BOX」で遊べたゲームは麻雀とのことですが、それはもともとあったビデオゲームからの流用ですか?

鈴木 はい。中古基板を流用して作っていました。

大堀 そういった基板は中に格納できるようになっていたんですか?

鈴木 そうです。

大堀 じゃあ、けっこう大きめサイズだったんですね。

鈴木 だから最初に発売したコントロールボックスはレバーやボタンのコンパネが付いていますが、物自体は「G・BOX」と同じものなんですよ。麻雀のコンパネにも交換できるようになっているから、テーブルゲーム機のコンパネが交換できるのと同じ作りです。コントロールボックスの中には基板が入るようになっていて、コンパネも変えられると。たしか100台くらいは作ったのかな。

大堀 麻雀用に開発した「G・BOX」から転用することで黒いコントロールボックスが誕生したのですね。

鈴木 はい。それを初期に購入してくれたお客さんが山下章さん※08山下章 : 編集プロダクションのスタジオベントスタッフ代表取締役、ゲームライター。『マイコンBASICマガジン』(1982年~2003年/電波新聞社)で連載していた「チャレンジ! アドベンチャー・ゲーム」で一躍人気ライターとなる。手塚一郎さん※09手塚一郎 : ゲーム・シナリオライター。現・スタジオベントスタッフ取締役。『マイコンBASICマガジン』では、簡易ゲームブックとして遊べる「ペーパー・アドベンチャー・コーナー」などを企画し、人気を得る。

一同 (笑)

鈴木 当時はテレビの1チャンネルや2チャンネルに映すRF接続※10RF接続 : テレビのアンテナ端子に繋ぐ映像入力方法。ゲーム機やビデオデッキなどの映像信号をアナログテレビ放送と同じ信号に変換することで画面表示を行う。しかなかったじゃないですか。山下さんなんか、カラーテレビを縦にして遊んでましたよ。確か基板はサービスであげた『戦場の狼』(1985年/カプコン)だったかな。

大堀 あげたんですか(笑)

鈴木 テレビを縦にまでして一晩中遊んだ、という話を聞いて、やっぱりコントロールボックスはアーケードゲームを好きな人にアピールできるんだなと思って、基板をあげました。


次回予告

次回は月刊誌『マイコンBASICマガジン』で有名な電波新聞社やゲームライターたちとのエピソード、格闘ゲームのブームとともに迎えるコントロールボックス全盛期の思い出など、キョーワインターナショナルについてさらに深くお話を伺っていきます。次週公開予定。お楽しみに!

鈴木 康史 氏

キョーワインターナショナル代表。個人向けアーケードゲーム機器のパイオニアとして知られている。1970年代からアーケードゲーム販売やゲーム喫茶経営を通じてビデオゲームの世界にかかわるようになる。1980年代に入ると個人向けに中古アーケードゲーム基板の通販を開始。1985年から製作・販売を始めたコントロールボックスシリーズは、家庭で手軽にアーケードゲームを楽しめるとマニアから絶大な支持を集めた。現在はコントロールボックスの最新モデルとなる「COMBO AV EX++」の製作を行っている。

脚注 +