アーケードゲームが輝いていた時代を駆け抜けた男! 坂本慎一氏インタビュー 中編

ゲームミュージック作曲者として本腰を入れ始める

▲坂本氏とは旧知の仲である大堀所長

坂本 でも、やっぱりプログラマーは向いてないわって思い始めたんですよ。自分はセンスがないから、もうプログラムで食っていくのはダメだなって思って。だからサウンド方面に仕事をどんどんシフトしていったんです。

でも当時は自分が作った曲なんてぜんぜん評価されていなかったですね。今はレトロゲームにスポットが当たるようになったおかげで、なんとか評価されるようになったんですけど。

大堀 僕は当時から坂本さんの曲好きだったよ。

坂本 またまた~。

――市場の反応というか、インターネットがなかったから、当時はフィードバックを得る手段があまりなかったですよね。

坂本 だから、どこでウケているか全然分かりませんでした。

大堀 『アーガス』の曲は良かったですよ。ただ、長時間やっていると曲がずれてくるんですよね。

坂本 あれはデータの作り方が原因ですね。データの合間にディレイ※1ディレイ : サウンドエフェクトの一種で、わずかに音を遅らせる効果のこと。をかけているんだけど、ディレイの休符がループするたびに加算されるんで音がずれていく。だから、長時間プレイできるようなうまい人には気づかれてしまうんです。

大堀 気づきましたよ!! ずれてきた、ずれてきたって。

坂本 大堀さんはうまいもんね。

――『アーガス』や『バルトリック』の楽曲はキャッチーですよね。いまだにずっと覚えています。

坂本 あれがFM音源を使って作曲した最初のタイトルかな。当時はテーカンでもFM音源を使うって話があって、在職時に少し触ったんだけど、2203※22203 : ヤマハのFM音源チップ。正式名称はYM2203。当時、PCやアーケード基板の音源として多く採用されていた。チップじゃなくて、手書きのデータシートとセラミックでできた量産前の白いチップだったかな。今のような樹脂じゃなくて、EPROMみたいなセラミック素材でできていてね。

当時は「FM音源って何?」みたいな感じで、『アーガス』なんかもお手本がない状態で、FM音源を手探りでいじっていました。シーケンサーもたいしたものが存在してなくて、ヤマハから出ていたYISシリーズのMSX※3MSX : 1980年代に共通規格として各社からさまざまな機種が発売されていた8ビットパソコン。当時、コナミを中心として神がかった完成度のゲームソフトが多数作られていたため、ほかのPCより見劣りする性能だったにもかかわらず大人気となっていた。がFM音源ユニットを挿してシーケンスを組めたので、サウンドはそれで作っていましたね。

大堀 MSXで作っていたんですね。

坂本 そう。2203とかなり近いコンパチなFM音源だったから、それで音色を作るしかない。プリセットがそんなにいけてなかったから。

それで音色エディタやシーケンサーで作ったデータをテープに保存して。その時は2400ボー※4ボー : ボーレート(baud rate)のこと。データ転送速度の単位で、カセットテープにデータを記録していた当時、セーブやロードの速度を表すのに用いられていた。現在、一般的に通信速度の単位として用いられているbpsは1秒間に転送可能なデータ量を示すもので、ボーレートとは一致しない。かなんかだったかな。翌日読み込もうとするとロードできないってトラブルを何度か起こしながらやっていましたね。あれがFM音源の最初かな

大堀 で、NMKではどこまで制作にかかわっていたんですか?

坂本 『サイキック5』まではやっていて。でも、もうその頃はちょっと疲れてしまって。

精神的に疲れてしまい出社拒否に

▲NMK時代の最後の作品として携わった『サイキック5』(画像はシティコネクション提供) ⒸCITY CONNECTION CO., LTD

大堀 人生に疲れちゃった?

坂本 そう(笑)。20歳の頃だったかな。精神的に疲れちゃった。

大堀 早いねえ。生き急いでいるねえ。

坂本 よく言われる(笑)。燃え尽き症候群ってやつ。仕事は一生懸命やっていましたよ。ほかの人からはどう見えたか分からないけど、自分としては目一杯やっていたんです。だから一つ一つの作品を作るのがもう辛くて。「自分はもう曲書けないかも…」みたいなとこまで行っちゃって。
で、出社拒否ですよ。会社に通えなくなっちゃいました

大堀 坂本さんは時代を全部先取りしているね(笑)。

坂本 でしょ(笑)。だけど、自分がそうなったから、同じようにそうなっちゃう人の気持ちもすごくよく分かる。その時は20歳で結婚もしていて、生活も変化してしまったせいかもしれないけど、その時はもう会社には行きたいと思えないんですよ。当時はメールとかないから、電話がかかってくるたびに「今日も行けないです」って。

2カ月くらい会社に行けなくて、お金もなくなってきて。さすがに琴寄さんたちが我が家に来られました。「坂本くん、どうするの?」って聞かれたけど、その時は「辞めます」って言う勇気もないんですよ。ポケーっとしながら「もうちょっと考えたいです」って言うのが精一杯だったかな。その時は、まだ仕事の途中で終わってなかったんです。

大堀 『サイキック5』が?

坂本 終わってない。終わってないからデータは打たなきゃならない。MSXは買っても高が知れていたので、会社と同じ機材を自宅にも置いていたんです。だから家でもデータを作っていて。

当時、会社にピアノのできる女性がいたので、最後の方で作ったデータをその人に渡してデータ入力してもらうようにしていました。家でデータを作って、それを会社に送るみたいな感じですよね。

――元祖リモートワーカーですね

坂本 考えればそうか! 今思うと、かなり先取していたんですね(笑)。

新天地となるエスケープとの出会い

坂本 そんな状況だった頃にエスケープ(後のウエストン・ビット・エンタテインメント)という会社ができるんですよ。まだその会社ができるかできないかの瀬戸際だったかな。そこでは『ワンダーボーイ』(1986年/セガ)というゲームを作っていて。

▲エスケープが開発した『ワンダーボーイ』。動画は韓国のゲーム開発会社のCFKが移植した 『WONDER BOY RETURNS』の公式トレーラー。冒頭で初版の動画が登場する

大堀 「エスケープ( =逃亡)」って社名を付けてセガに怒られたんでしょ。

坂本 怒られました。いや、それは置いといて、あの会社が本当にすごいなと思ったのは、門前仲町にあったマンションで、(エスケープの)創業者の西澤龍一さん※5西澤龍一 : テーカンやユニバーサルプレイランド(後のUPL)などでプログラマー兼ゲームデザイナーとして活躍した後、1985年に石塚路志人氏とともにエスケープ(後のウエストン・ビット・エンタテインメント)を創立。代表作は『忍者くん 魔城の冒険』(1984年/タイトー)、『NOVA2001』(1983年/UPL)など。が管理人をやりながら、管理人室で(『ワンダーボーイ』を)開発していたんですよ。管理人室がけっこう広かったから。

大堀 西澤さんってマンションの管理人やっていたんだ。

坂本 みんな普段は本業を持っていて、働いていたんですよ。

大堀 じゃあ、西澤さんが先にUPLを辞めて、管理人になりましたって感じかな。

坂本 西澤さんも変わり者で、会社勤めには向いてないから(笑)。それで、手弁当みたいな感じで夜中にそこ(管理人室)に集まって『ワンダーボーイ』を作っていたらしいんですよ。西澤龍一、石塚路志人※6石塚路志人(いしづか みちしと) : 一時期テーカンに在籍していた名プログラマー。エスケープ(後のウエストン・ビット・エンタテインメント)を創立し、『ワンダーボーイ』などを手掛ける。そのほか代表作に『ボンジャック』(1984年/テーカン)など。、デザイナーの女の子という3人のメンバーで、原資がない状態でね。

ある日「遊びにおいでよ」と言われて、「それじゃあ」って思って行ったんです。『ワンダーボーイ』を見せられて「これどう?」って石塚さんが聞くんですよ。な ので「『スーパーマリオブラザーズ』(FC/1985年/任天堂)の方がおもしろい」って答えました(笑)。

――テーカンに入社した時の話で、同じようなシーンがあったような気がするんですけど(笑)。デジャブじゃないですよね(前編参照)。

大堀 石塚さんにまた言っちゃった!

――比較対象がかなり厳しいですね。『スーパーマリオブラザーズ』よりおもしろいゲームって、そうそうないですよ。

大堀 『スーパーマリオブラザーズ』を見て作ったゲームだろうからなあ。

坂本 だから(石塚さんら)に「言い得て妙だね」と返答されました。だってそう答えるしかないじゃないですか。当時はガチでゲーマーだったし、ハイスコアランキングとかすごく意識しながらゲームしていたから。あのゲームを見たら普通にそう思いますよ。

でもそういうやり取りがあってから、ちょいちょいその管理室に出入りするようになったんです。ちなみに『ワンダーボーイ』の楽曲は西澤さんが作りました。

大堀 西澤さんって作曲までやっていたの?

▲一時期、心を病んでしまったという坂本氏。エスケープに誘われたことが復活の引き金となった

坂本 その当時は、曲なんて鳴ってればいいって時代でしたから。

大堀 そうなんだ。『ワンダーボーイ』って管理人室で作っていたんだ

坂本 けっこうレアな話ですよ。

大堀 西澤さんは本業で管理人をやっていたの? UPLを辞めてから。

坂本 管理人をやりたかったわけじゃないでしょ。ゲームを作るために管理人の部屋が欲しかっただけだと思いますよ。ちゃんと裏を取るとどうか分からないですけど、でも当時の僕としてはそんなふうに理解しています。

大堀 なるほどね。

坂本 で、ちょいちょい遊びに行っていると、軽い鬱(うつ)だった僕の状態を分かっていたのか、石塚さんが「今度新しいのを作るから一緒にやってみる?」って誘ってくださったんです。「給料を倍出すから」ってここでも言われて。

大堀 お!

坂本 倍々ですね。これでテーカンのときの4倍になるぞ…と。

大堀 いいなあ!

坂本 最初から素数みたいな額の給料だったですもん。

大堀 でかい素数だってあるよ。

坂本 テーカンの時は、大卒だって給料が十何万という時代に、僕は手取りではなく総支給で7万8,000円もらっていました。倍々で増えたといっても、そんな大きな額でもないですよ。でも年齢のわりにはもらっていた方かな。

人間ってゲンキンなものでね、お金が増えると鬱が治るんですよ。知っていました?(笑)

一同 笑

大堀 良かったじゃないですか。

坂本 というか、もらうからにはしっかりとやらなきゃっていうポリシーはできていましたから。実は、当時のNMKの出すタイトルはどれもあまり売れなくて、経営状態があまり良くなかったんですよ。

会社の成長に立ち会ったメンバーの僕としては、かなりプレッシャーを感じていました。人員は増やしているし、ゲームの開発ラインも増やしているし…。社員を養っていくところにも意識が行っちゃっていて、それがプレッシャーになっていたのかもしれませんね。

そこからまた会社を始めるようなところへ戻っちゃって、「あれ? デジャブだな」とか思った。

大堀 リセットボタンを押した感じ?

坂本 そう。人生のリセットボタンを押したんです


次回予告

いよいよエスケープに活動の場を移すこととなる坂本氏。あの大ヒット作の楽曲を手掛けることとなるのだが、そこでも興味深いエピソードがあったようだ。
ついに最終回となる後編では、エスケープでの思い出を中心にお話を伺っていく。

坂本 慎一 氏
16歳でゲーム業界に入ってから30年以上の長きにわたり、プランナー、ディレクターを経て現在はプロデューサーとして活躍しているベテランクリエーター。テーカン(後のテクモ、現 コーエーテクモゲームス)、NMK、ウエストン・ビット・エンタテインメント時代に多くの有名作品に携わっている。代表作は『SENJYO』(1983年/テーカン)、『アーガス』(1986年/ジャレコ)、『ワンダーボーイ モンスターランド』(1987年/セガ)など。現在は、あまた株式会社制作2部部長。

脚注   [ + ]