近代ビデオゲームの原点『スペースインベーダー』を生んだゲーム業界の父!西角友宏氏インタビュー 前編

回路でのゲーム制作で身に付いたコスト感覚

大堀 当時は基板を設計する際に、コストを抑制するよう会社から指示されたことはあったのですか?

西角 いや、全然言われてはいませんでしたね。自分でやりたいようにやっていました(笑)。どちらかというと個人的にコストを意識しながら作っていたんですよ。『スペースインベーダー』以前は、プログラムじゃなくてハードウェアでゲームを作っていましたから。ロジック回路の組み合わせだけで。だからなるべくICを少なくするように、コストを考えながら作ることが身に付いていたんです

大堀 なるほど。自主的にコストを抑えるように考えていらしたわけですね。

西角 少ない数のICで作るということが技術者の能力を示すことでもありましたからね。だからコストを抑えることはICを少なくするということで、自分の力を試したかったという気持ちもありました。

大堀 『スペースインベーダー』以前ということは、『スピードレース』(1974年/タイトー)なんかは回路の組み合わせで作っていたわけですね。

西角 『スピードレース』なんかも、シリーズが続いていくと画面内にいろいろなものが登場するようになったわけです。それには、回路を追加してICを増やしていくという作業が必要だったんですね。(シリーズ)始めの頃はそれがまだシンプルだったんですけど、終わりの頃になるとトンネルの中を走るとかになって、その分ICが増えて回路が複雑になっていきました。

昔はそういうゲームの作り方だったんです。プログラムで作るようになってからは、増やすのはプログラム領域だけになりますけど、ハードウェアだけで作るとキャラクターの動作が1つ増えるだけでも回路を追加する必要があったんですよ。

初期から存在していたレバー操作版コンパネのインベーダー

――『スペースインベーダー』の初期バージョンは、砲台の移動がボタン式になっていて、レバー式ではありませんでしたよね。西角さんは操作インタフェースの設計にはかかわっていらっしゃらなかったとお聞きしていますが、開発中からそうなることはご存知だったのですか。

西角 確かに、操作インタフェース周りは別の人間が担当していたのですが、ボタン操作で遊ぶのは初めから考えていました
生産技術という別部署の人間がレバー式に設計し直したようですが、それは営業からの要望だったかもしれませんね。私のオリジナルは、ボタンで遊ぶタイプです。

――ボタン操作で考えられていたものをレバー式に変更するというのは、営業的にはどういった事情によるものだったのでしょうか。

▲当時のテーブル筐体(画像:公式サイトより引用)©TAITO CORPORATION 1978 ALL RIGHTS RESERVED.

西角 テーブル筐体の存在でしょうね。テーブル筐体の数がものすごく増えましたから。あの時代のテーブル筐体は横向きに操作パネルが付いているデザインでした。あのような操作パネルの付き方では、砲台をボタン移動させようとしても操作がやりにくいですよ。レバー式なら横向きに付いていても操作しやすい。そういった理由によるものなのでしょうね。

――確かに初期バージョンはアップライト筐体だったので、ボタンは上から押すタイプで操作に問題はありませんでした。

西角 でも、テーブル筐体に入れたレバー式の『スペースインベーダー』は初期バージョンから存在していた気がする。当時の(タイトーの)プライベートショーにテーブル筐体版も出品していたと思うんだけど、テーブル筐体版は最初からレバーだったかな…。

大堀 僕は地方に住んでいたんで、タイトーさんの純正コンパネはなかったんですよ(笑)。

西角 たぶんレバーだったと思います。当時のテーブル筐体のデザインだとボタンで砲台の操作はできないですよ。そう考えると、初めからレバー操作のバージョンは存在したはずです。私がアップライト筐体で制作していたから、販売している途中でテーブル筐体用に改造したと思っていたんだけれど、テーブル筐体に合わせてレバー操作のものも最初から用意していたのかもしれませんね。まあ、ちゃんと調べればハッキリするだろうけけど。

――ゲームバランスはボタン操作で最適化されるように調整していたのですか?

▲「テーブル筐体はインベーダー以前から存在しましたよ」と話す西角氏

西角 開発中はボタンでずっとプレイしていました。開発にかかわっていた人間でレバーを使っている者はいませんでした。みんなボタン操作でプレイしていましたね。(『スペースインベーダー』が)完成してから、組み込みの部署が営業から指示されて(レバー操作版を)作ったのかもしれません。その実情は今となってはハッキリしませんね。

――自分の記憶では、テーブル筐体はアップライト型から少し間をおいて登場したように思っていたのですが、最初から存在したものだったのですか。

西角 最初からありましたよ。といいますか、『スペースインベーダー』が登場する前からテーブル型筐体そのものは市場に出ていました。ブロック崩しゲームの『ブレイクアウト』(1976年/アタリ)もテーブル筐体版を出していましたから。

ただ、コンパネに話を戻すと、『ブレイクアウト』は(ダイアル型のコントローラーを)回すだけでしたから、当時のテーブル型筐体のようなコンパネの付き方でも遊びにくいことはなかったんですね。恐らく最初の発表会のときからテーブル筐体版は出ていますから、レバーで操作する『スペースインベーダー』は、初期から存在したはずです。

――当時小学生だった自分は、リリース間もない頃のアップライト型が『スペースインベーダー』との出会いだったんです。もちろんボタン操作のものでした。それからすぐにブームが始まって、そのときにレバー操作のテーブル型が世に溢れたので、レバー操作版はブームに合わせて喫茶店に置けるように作られたのかとずっと思っていました。

西角 私もそうかなと思っていたんですけど、でもよく考えてみると発表会にテーブル型も出品していたんですよね。

▲ 1978年夏に開催された「タイトー新製品発表展示会」ではテーブル型も出品された(タイトー提供)

ゲームと無関係な会社も『スペースインベーダー』を解析していたほどの影響力

――『スペースインベーダー』はあらためて語る必要がないくらい社会現象になって、他社の開発者も影響を受けたと思います。それは西角さんも当時は感じていらっしゃいましたか? 他社のゲームを見て「これはインベーダーに影響されたな」とか。

西角 私の友人が電子関係の設計会社に勤めていたんです。そこはゲームとはまったく関係のない会社だったんですけどね。『スペースインベーダー』がヒットしている最中に、友人に用があってその会社に遊びに行きました。そしたら(その会社に)『スペースインベーダー』が置いてありましたよ(笑)。

一同 (笑)

西角 たぶん、どこかから解析を頼まれたんじゃないでしょうか。そのことついて触れるような話はしませんでしたけどね。そこは電子関係の会社でしたけど、画像処理とかもやっていたんじゃないかな。でも、画像処理の部分で接点があったかもしれませんが、ゲーム自体とは無縁の会社なんです。恐らく(本作のヒットを見て)ビデオゲームを作りたいと考えた会社が、自分では(基板を)解析できないので、電子回路専門の設計会社に頼んでやってもらっていたということはあるでしょうね。

その時は(『スペースインベーダー』が置いてある)話題には触れずに帰りましたけどね。でも、その友人は少し気まずそうな顔をしていたな。筐体の扉が開いていましたもん。開いているということは、遊ぶ目的だけではなくて中を調べているということすから(笑)。

だから、自分でも多方面に影響を与えていたことは分かっていました。それまでオペレーターをしていた人が、自分でもビデオゲームを作ってみようと動き出したわけですから。会社なんかでもカプコンさんとかね、自分らで開発を始めて、『スペースインベーダー』以降はビデオゲーム開発会社が増えましたよね

――当時から活躍していたビデオゲームメーカーで有名なところというと、タイトーさんは当然ですが、セガさんやナムコさんも積極的に活動されていましたね。その後、今も活躍されている大きなゲームメーカーが育っていったような感じで記憶しています。

西角 ナムコさんは当時、少しだけ出遅れた感はありましたけどね。当時はタイトーが新基軸のゲームを積極的にリリースしていて、セガさんも頑張っていました。ナムコさんは『スペースインベーダー』と同じ頃ピンボールのようなゲームをリリースしました。

――『ジービー(Gee Bee)』(1978年/ナムコ)ですね。

西角 これはあくまでも私の想像ですが、ナムコさんはアタリと当時提携して代理店のように活動していたので、ゲーム開発にはあまり力を入れてなかったのかもしれませんね。タイトーの場合はそのような提携などはしていなかったので、自前でゲーム開発を頑張っちゃったという感じなんですが。


次回予告

次回は『スペースインベーダー』リリース後のエピソードを中心にお届けする。カラー化の話や、大流行となる前に対処できたちょっと致命的なバグの話など、興味深い話は尽きない。営業部署との駆け引きや、『スペースインベーダー』開発中の息抜きとして別ゲームを作ったという驚きの秘話も飛び出した中編に乞うご期待!

西角 友宏 氏
ビデオゲーム史に燦然と輝く名作『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)を生み出し、ゲームデザイナーという職業ジャンルを確立させた。1968年にパシフィック工業(当時のタイトーの子会社)へ入社し、エレメカのエンジニアを経験した後にタイトーへ移籍する。『ルナレスキュー』(1979年)『バルーンボンバー』(1980年)など多くのゲームを手がけている。現在は、タイトーにてアドバイザーを務める。