『ベーマガ』同窓会その③(最終回) 『ALL ABOUT namco』の制作裏話
目次
大橋編集長のナムコへのこだわり
手塚 いまだに疑問なのは、どうして『AAN』だったのかということです。ナムコ以外のゲームメーカーでやろうというお考えはなかったのでしょうか?
大橋 ライセンスをもらいに、いろんなメーカーに行きましたが、ナムコには他社とは違う品位を感じていました。ナムコのゲームは、ハチャメチャなものがない。全部筋が一本通っているように思います。
なんていうかな、ナムコのゲームは「文化的な創作物」って感じがしたんだよね。映画のように、作り手がしっかりとしたストーリー性とポリシーを持って作っているというか…。
ナムコのゲームには起承転結があり、ストーリーが展開していって、次の章に進んだり、それからまた元に戻ったり、また繰り返したり。それからとんでもないところを飛んでいくとかね。いろんなストーリー性とか可能性を実現しているから、これはすごいなぁと思いましたね。
手塚 それは僕も感じていたことでした。ナムコは別格なところがありましたから。
大堀 大橋編集長は後からゲームを始めたという話でしたが、初めからそのこと(ナムコの質の高さ)を見抜かれていたということですよね。
大橋 でも、ナムコの良さはそれだけではないんですよね。ナムコのクリエーターには夢がある。
シューティングゲームの『ギャラクシアン』を作った澤野和則さんとは年代が近いので、よく話をさせていただきました。若い開発者が多かったなかで、澤野さんは当時の私と同じ30~40代でした。
もともと澤野さんの実家は木馬屋さんで潜水艦ゲームの「サブマリン」など、機械仕掛けのおもちゃ「エレメカ」を制作していたそうです。澤野さんは「今私がやっているゲーム制作は、私が以前エレメカでやりたいと思ったことを、パソコンやCPU、モニターを使って実現しているだけなんです」とおっしゃっていました。
澤野さんはバーチャルリアリティーがまだ存在しなかった時代に、それと似たようなことを実現していました。
上から物が落ちてきたところにヒントを得たという『ギャラクシアン』も、どんどんと発展させていき、娯楽性の高い作品として昇華させていった。ナムコのクリエーターの方々には本当に夢があって、その夢を持ち続けて新しいゲームを作っているという姿勢に心打たれましたね。
大橋編集長が見つめる今、そして未来
見城 大橋編集長の現在の活動についてお聞きしたいと思います。
最近は『電子工作マガジン』の責任者をされているということですが、どちらの世代をターゲットにした雑誌なんですか?
大橋 当時、『ベーマガ』で影響を受けたという40~50歳になっている世代ですね。自分の子供がゲームでばかり遊んでいて、自分で何も作れないという危機感を募らせた親ごさんたちが、『電子工作マガジン』を見ながら自分の子供と一緒にプログラムを組んだり、電子工作をしたりして、モノづくりを楽しんでいるようです。冬休みや夏休みには、そんな親子連れをターゲットとした工作教室も行っているんですよ。
1,500円程度の費用でパソコンが自作できる「IchigoJam」とか、1万5,000円くらいで作れるロボットキットとか、自分で作ったものが動くって楽しいですよね。
見城 そういえば先日、秋葉原の家電量販店で偶然お会いしましたよね? その時、大橋編集長がいまだに取材されていたので、びっくりしました。
大橋 月に2~3回は取材に行きますよ。
大堀 まだ現役で活動されているってスゴイですよね。
大橋 30歳で『ラジオの製作』の編集長になり、9万部を記録したんで、もう天下をとったぞと思って満足していたんだけど、40歳に近づいて担当した『ベーマガ』もヒットしました。とにかく面白いことをやっていくうちに、もうこんな年齢になってしまった。あとはもうねぇ、後進にも道を譲らないとね。
でも、できるうちにがんばっていろいろとやっていきたいと思っていますね。
見城 これまでを振り返ってみて、『AAN』や『ベーマガ』、そして電波新聞社の残してきたものとは何でしょう?
大橋 ゲーム移植でライセンスの考え方を定着させることができたというのは重要だったと思います。
また、僕は昔から小中学生をターゲットとした本を作ってきたので、アダルト的なゲームは掲載しないというポリシーを持って編集していました。そうすると、今になってちゃんと跳ね返ってくるんですよ。
この間、ファルコムの加藤正幸さん(創業者・現会長)や『ファミマガ』(ファミリーコンピュータMagazine)の編集者が、「『ベーマガ』はいい雑誌だったね」と言ってくれたんです。とてもうれしかったですね。また、『ベーマガ』のイベントにもたくさんの読者の方々が駆け付けてくださって、思いも寄らぬことでした。
見城 たくさんの功績を残されてきたなかで、過去にやり残したことはありますか? もっとこうすればよかったとか、今だったらこういうことができたとか…。
大橋 私は基本的にあまりそういったことを考える人間ではないので、「今」と「これから」をどうするかということだけを考えています。過去は過去で、それまで一生懸命やったから、ちゃんと評価もされている。重要なのは、今をどう一生懸命やるかなんですね。
見城 素晴らしいですね。その言葉にそのまま、大橋編集長のたどってきた足跡が表れている気がします。それでは最後に、今後の活動について教えてください。
大橋 今後の活動ではないけれど、最近ちょっと憂慮していることがあります。今は何でも情報がネットで手に入るような世の中になって、紙媒体が衰退しています。その反面、昔と同じく、ネットなんかを見ていると「電波新聞社に紹介されました」とメーカーさんたちが自社商品のアピールに(紙媒体を)使用している。ポリシーのあるメディアであれば、このメディアに掲載されたいと思われる価値観がいまだに存在していると思うし、そういった紙媒体をしっかりと残していくことが大切だと思います。
手塚 それって紙媒体にこだわっているということですか?
大橋 ネットでは簡単にデータをいじれるけれど、紙媒体は一度印刷したら簡単に改造できない。そういうところがネットにはないところですよね。変えることのできるネットメディア、変えることのできない紙媒体をうまく連動させられれば、面白いことができるんじゃないかなと思っています。
大堀 IGCCメディアも大橋編集長がおっしゃる「ポリシーのあるメディア」になりたいですね。
見城 今後、大橋編集長のますますのご活躍を期待しております。
※座談会出席者の記憶・見解に基づく記事です。
ⒸBANDAI NAMCO Entertainment Inc.
『ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて』
『ベーマガ』の編集者&ライターチームが、『パックマン』や『マッピー』などナムコのアーケード27作品を取り上げたゲーム攻略集。ゲームの紹介や攻略法、ドット絵集、ゲーム音楽の譜面集、グッズ紹介がなされている。1985年10月5日発行、B5判、424P、定価2,500円。3回の再版がおこなわれ、10万部以上を売り上げた。
1987年には「ALL ABOUT namco II ナムコゲームのすべて II」を発売。
【今回の同窓会出席者のプロフィール】
大橋 太郎 氏
1948年、東京都生まれ。1967年に電波新聞社に入社。『ラジオの製作』編集長を経て、1982年に『マイコンBASICマガジン』を創刊。1996年には28万6000部で業界No.1のゲーム雑誌となる。『ALL ABOUT namcoナムコゲームのすべて』、『Computer Music Magazine(コンピューターミュージックマガジン)』など次々とヒット作を出し、現在も現役で『電子工作マガジン』の責任者を務める。電波新聞では、コラム執筆も担当している。現・電波新聞社取締役。
手塚 一郎 氏
1966年、東京都生まれ。『マイコンBASICマガジン』ではミニマム版の『ペーパーアドベンチャー』を自ら企画・執筆し話題を呼んだ。後に、ナムコの『ドラゴンバスター』の同誌の別冊のムックを執筆し、ゲーム作家として、『小説 ファイナルファンタジーIV 上下』『リネージュ2 解放されし者』などを執筆。『ファイナルファンタジーIV ジ・アフター 月の帰還』(2008年)などゲームのシナリオも手掛ける。現・スタジオベントスタッフ取締役。Twitter:@Tezuka_Ichiro、公式HP
大堀 康祐
1966年、東京都生まれ。高校生の時に“うる星あんず”のペンネームでミニコミ誌『ゼビウス1000万点の解法』を制作。その後『マイコンBASICマガジン』の別冊『スーパーソフトマガジン』の創刊に携わり、『マル勝ファミコン』などのゲーム雑誌にてライターとして活躍。ゲームプランナーなどを経て、仲間3人とともに1994年にゲーム開発会社マトリックスを設立。2016年にゲーム文化保存研究所を設立。当研究所所長。
インタビュアー 見城こうじ
1965年、東京都生まれ。株式会社ナムコでディレクターとしてさまざまなアーケードゲームの開発に携わった後、ノイズ社を立ち上げ、任天堂と共同でカスタムロボシリーズ5作を手掛ける。その他の代表作『コズモギャング・ザ・ビデオ』、『コズモギャング・ザ・パズル』、『ゼビウスアレンジメント』、か『TWIN GATES』、『PENDULUM FEVER』など。元『マイコンBASICマガジン』のゲームライターという顔も持つ。現在はフリーランスのゲームディレクターとして活動。ゲーム文化保存研究所の電子書籍制作にも協力中。Twitter