『ベーマガ』&『エイリアンフィールド』復刻記念!大橋編集長×水上氏×市川氏 特別インタビュー 前編
『ベーマガ』が子供にこだわる理由
大橋 当時の資料があるんですが、本当に読者層は下が8歳ぐらいから、上が18歳ぐらいまでで、層の中心は中学2年生ぐらいでしたね。中学3年生になると勉強しろという話になるので。
――そこまで『ペーマガ』が子供たちにこだわったのはどうしてなんでしょうか?
大橋 僕はアマチュア無線から始まり、当時、学生時代からアマチュア無線ではコンテスト(決められた条件等で交信数などを競うもの)で優勝して、ある程度有名だったんですね。相当、天狗になっていて、入社後すぐに『ラジオの製作』の編集部に配属されました。
『ラジオの製作』で流行らせたものの一つに、BCLカードの収集というものがありました。BCLは海外放送のことで、それを聞いて受信報告書をその放送局に送ると、お返しにベリカードをもらえるんです。その趣味の世界では有名な、「BCL界の神様」と言われる山田耕嗣先生という方がいらして、僕は彼の担当になったんですね。
その頃、僕は先生の書く文章というのがすごく幼稚に見えたんです。それで、生意気にも僕は、先生の書いた文章を全部書き直して校正したものを見せたら、すごく叱られました。先生は僕のことを「太郎」って呼んでいたんですが、「太郎ちゃん、キミにひと言、言っておかないと」と言われ、「キミは誰に読ませようと思って文章を編集しているんだ」と聞かれました。そこで先生は「僕は小学校5年生の子供でも読めるように書いているんだよ」っておっしゃったんですね。
そこでハッと気がついて、自分自身を思い返すと、そのぐらいの頃に興味を持った専門分野を一所懸命やり始めたなと、思い出したんですね。その時に読んでいたCQ出版社(*01)なんかの本が、必ずジュニア向けのコーナーというのを作っていたんですね。内容が分かりやすくって、漢字も少なく、読みやすかったというのがありましたね。
それに出会ったことが功を奏したかなという気もします。そういうことは大切だなと気づかされましたね。
もっとも子供たち相手と言っても、自分の設計した回路を見てくださいみたいなね、早熟と言ってはなんですが、ここにいる2人も当時そうだったと思うけど、「これで合っていますか? 」なんて言いながら、大人と変わらない内容のものを送ってきたりするわけです。その辺りは、すごいんですよ。だから、今の子供たちだってすごいはずなんですよ。
市川 そうですね。今はもっと情報も得やすくなっていますからね。
大橋 そう、だから子供相手といえども、中身は真剣にやっていかないとダメですね。あと、当時はより多くの子供たちの名前を誌面に載せてあげたいという気持ちもありましたね。今だと個人情報の問題があって怒られちゃいますけど、当時の雑誌は住所まで載っていて、雑誌に載るだけでもうれしかった時代でしたからね。
――創刊号の時点では投稿がなかったと思うんですが、やはり水上さんのような方がほかにもいらしたんですか?
大橋 そうですね。
――そのあと投稿へと移行したのは、どのような流れでだったんですか?
大橋 やっぱり、原稿料が要因としてありましたね。当時は、ページ数が何ページでも原稿料1万円で、源泉徴収されて9000円でしたけど、原稿料制にしたらどんどん投稿が来るわけですよ。当時は、「掲載されたプログラムを参考にしてもいいし、改造してもいい。ただし、どこの何を参考にしたのかを明記する」というルールにしたら、相乗効果で投稿がどんどん来るんですよ。
市川 まさに「移植テクニックマスター大作戦」なんて、自分の持っている機種にプログラムを移植して送れって話ですからね。
――ちなみに『エイリアンフィールド』を作った頃は、もう水上さんはPC-8001を持っていたんですか?
水上 ハッキリとした記憶はないんですが、確か家でプログラムをカセットテープにセーブして送った記憶があるので、持っていたと思います。ただ、ベースになったプログラムは、電気店の店頭ですね(笑)。それをブラッシュアップして送ったと思います。
『エイリアンフィールド』のアイデアはどうやって生まれたのか?
――『エイリアンフィールド』のアイデアはどのようなところから生まれたんでしょうか?
水上 やっぱり『パックマン』のような一発逆転の要素でゲームを作りたいなと思っていたので、そこからの思い付きですかね。
――それで、ドットイートということですね。
水上 ただ、当然そんなプログラム技術はないわけで、『エイリアンフィールド』はかなり引き算の結果でできたものです。
例えば、『パックマン』のように敵が迷路を回り込んでくるような、そんなプログラムは書けないわけですよ。なので、これはもうまっすぐ突っ込んでくるプログラムにしようというようになるわけですね。まっすぐ突っ込んでくると壁に当たるので、今度は壁を壊せるようにしようとしたりとか。
本当は、迷路もきれいにデザインしたいんですが、迷路設計の方法なんて分からないので、ランダムにブロックを配置させるように作っていました。
それとPC-8001って、いろんな色のキャラクターが動き回ると、色を指定しているアトリビュートというのが壊れて、正常に色を出せなくなるんですね。それで面クリア型ゲームにしようとか、本当に引き算の結果で生まれたものでしたね。
――確か、アトリビュートは20回しか書き換えられないんでしたよね。
水上 そうですね。1ラインで20回色を書き換えると、それ以降は画面が崩れてしまうという、PC-8001の独特な構造でしたね。それと『エイリアンフィールド』のエイリアンの初期値が4匹なのは『パックマン』オマージュです。
――それは、いい話ですね(笑)。ということは、水上さんはゲームセンターでゲームをするというのが日常だったということですか?
水上 はい、もちろんです。通っていた電気店が入っていたのはユニー(総合スーパー)なんですが、そこにもゲーセンはありましたし、その後からはナムコ直営ゲーセンの「キャロット」が近くにあったので、そこに通うようになりましたね。
アーケードゲームは『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)の前から大好きでしたね。そうそう、それがタダで遊べるなんて、当時の子供にとってマイコンは素晴らしいアイテムでしたよね。
――当時のマイコン少年はみんなそうでしたね。家でタダでゲームが遊べる幸せを感じていましたね。ちなみに、店頭でマイコンをいじり始めた頃って、マイコンでゲームが作れるなんて分からないですよね? それについてはどのように知り得たのでしょうか?
水上 やはり雑誌ですね。『ASCII』や『I/O』、もちろん『月刊マイコン』を見ていたので、すぐにマイコンでゲームができるということに気がつきました。
一番参考になったのは、アスキー出版の『PC-8001 BASIC ゲームブック』(1979年)でしたね。ゲームが何本も載っている本なんですが、それを参考にプログラムの勉強もしていました。
――BASICはお店で遊んでいるうちに覚えたんですか?
水上 そうですね。
市川 まずPC-8001が出たのが1979年9月なんですが、『エイリアンフィールド』が掲載された『ベーマガ』の創刊号が出たのが1981年4月なので、ほぼ1年半ぐらいですよね。そのときにオリジナルのこの作品が出たのが、私としては驚異的でした。
その当時、マイコン関係の情報なんて、本屋さんの理工書の本の一部のところでしか収集できない情報量だったので、そんな状況でもこんなゲームを発想できたんなんて、本当に衝撃的でしたね。
最初に僕が衝撃を受けた作品ということもあって、今回『エイリアンフィールド』のWindows版をやらせていただくことになりました。
この作品がなんでものすごく記憶に残っているのかというと、ほかに『ベーマガ』創刊号に載っていたプログラムに、MZ-80用の『ブロックくずし』とベーシックマスターの『もぐらたたき』があったんですが、この2つは当時LSIゲームでも遊べちゃうゲームだったので、そんなに新鮮味はなかったんですよね。
ですけど、『エイリアンフィールド』は圧倒的にオリジナリティがあって、それだけ全然違うものに感じました。
――確かに『ブロックくずし』と『もぐらたたき』は、どのマイコンにも必ずありましたね。
市川 そうなんですよ。だから、『エイリアンフィールド』は鮮明に覚えているんですよね~。
――なるほど、これでようやく本日お集まりいただいたお三方が、どのように『エイリアンフィールド』でつながったかが分かりました。
次回予告
前編ではお三方がどのようにつながったのかを中心にお聞きしました。次回は、『ベーマガ』創刊号の制作の裏話から、『エイリアンフィールド』の当時の反響まで、1980年代の昔話で盛り上がりました。『ベーマガ』ファンには懐かしい名前が連発。中編は来週公開予定です。お楽しみに!!
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大橋 太郎 氏
1948年、東京都生まれ。1967年に電波新聞社に入社。『ラジオの製作』編集長を経て、1982年に『マイコンBASICマガジン』を創刊。1996年には28万6000部で業界No.1のゲーム雑誌となる。『ALL ABOUT namcoナムコゲームのすべて』、『Computer Music Magazine(コンピューターミュージックマガジン)』など次々とヒット作を出し、現在も現役で『電子工作マガジン』の責任者を務める。電波新聞では、コラム執筆も担当している。現・電波新聞社取締役。
水上 恵太 氏
電気店店頭のマイコンでBASIC言語をマスターし、中学生にして『ラジオの製作』の特別付録『マイコンBASICマガジン』創刊号(1981年)の掲載プログラマー第1号となる。ナムコのゲーム開発者などを経て、現在はコンピューター関連のエンジニアと並行し、法政大学大学院経済学研究科でゲーム産業研究に従事。その傍ら、IGCCと慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD) がコラボしたゲーム文化アーカイブプロジェクトにも携わる。
市川 幹人 氏
1971年東京都生まれ。有限会社マインドウェア代表取締役。1987年、マインドウェアの前身となるMNM Softwareを高校生にして設立し、X68000用『Star Wars -Attack On The Death Star-』(1991年)、メガドライブ用『スラップファイトMD』(1993年)を発表。以来、数多くの作品を手掛ける。現在は往年のPCゲームを復刻させる「VIDEO GAME CLASSICS」シリーズなどを展開中。
脚注