アーケードゲームマニア必携のコントロールボックスを生み出した男! 鈴木康史氏インタビュー前編
インベーダーブーム後に始めた基板改造が人気に
──『スペースインベーダー』ほどの流行は後にも先にもないことは確かですが、商売をしている人にとってはそこまですごいものだったんですね。
鈴木 でも『スペースインベーダー』ブームが去ったら、喫茶店の売り上げは極端に下がってしまいました。当時はどこのお店も稼げなくなって、頭を抱えてしまったようですね。でも、幸いにも自分には機械関係の知識があったものですから、基板の改造を始めたんです。
──現在の仕事にだんだん近づいてきました。
鈴木 自分でやれば安上がりで済むので、自分の店にあった基板の改造から始めました。それからスポーツ新聞などに広告を出して改造を請け負ったんですね。それがきっかけになって、いろんなオペレーターと知り合って輪が広がりました。だから、当時のことを知っている人はみんな自分のことを改造屋だって言いますよ(笑)
大堀 インベーダーブームが終わった時って、どのような感じだったんですか?
鈴木 不思議なくらい急にお客さんが来なくなったような感じですよ。お客さんが減ったのは夏休みのせいかと思っていたけど、秋になっても閑古鳥が鳴くような状態になりました。
大堀 ブームが終わった様子は新聞の三行広告にも現れていましたね。入手困難だった『スペースインベーダー』だったのに、「タイトー純正インベーダー300台即納可」みたいな広告が目立ち始めて。
鈴木 ブーム後は毎日のように価格が下がっていきましたからね。
大堀 それで改造の仕事が鈴木さんにとって救世主になった感じですか?
鈴木 改造屋で2、3年いい思いができました(笑) ゲーム喫茶のほうも、ブームは去ってしまいましたが、周りの同業者も減ってくれたので、その分は稼ぐことができた感じですね。
大堀 当時は僕も小学6年生くらいでしたが、インベーダーハウスなんかも相当な数あったものが、ブームが過ぎた途端に一気になくなったのを覚えてます。
──なだらかにブームが収まっていったのではなく、文字通りにピタッと終わった感じなんですね。
鈴木 そうですね。でも(インベーダー)ブームがいきなり終わったのは、飽きたとかだけじゃなくて、学校やPTAがゲームを禁止にした影響もあったと思いますよ。
──改造屋とおっしゃっていますが、実際にどのような改造をしていたんですか?
鈴木 『スペースインベーダー』基板をほかのゲームに置き換えるようなことですね。スペースインベーダーの基板は、内容を『ギャラクシーウォーズ』(1979年/ユニバーサル)とかに簡単に交換できたんですよ。当時のオペレーターは基板の知識がある人が少なくて、自分で交換できなかった。交換したい時は業者へ持ち込んで…という面倒くささがあったんですね。そこで私は先方まで足を運んで、その場で作業してあげるようにしたんです。当時は私のように出張改造する業者はほとんどいなかったんじゃないかな。
大堀 スポーツ新聞に広告を出されていたというお話で思い出したのですが、当時は「○○から△△へ。○万で可。基板送れ」みたいな三行広告をよく見かけましたね。ですから、当時は基板を送って改造してもらうのが当たり前だったということがよく分かります。
──それなのに、鈴木さんに来てもらってその場で改造してもらえたのですから、オペレーターは基板を送る必用もなく安心できたでしょうね。
鈴木 基板を送ってしまったら、その間は営業できませんから。店を休まずに交換できたのはメリットに感じていただけたでしょうね。
──出張改造したのは都内だけでしたか?
鈴木 当時、「ブランズウィック」というボウリング場チェーンと取り引きしていたんですよ。今も(2019年6月現在)池袋にはBSG(ブランズウィックスポーツガーデン)が残っていますよね。そこはゲームセンターも運営していて、福島から名古屋までチェーン展開していたので、私は基板を持って車で各地を回りました。
大堀 出張改造はかなりニーズがあったのですね。
鈴木 私1人だけで仕事をしていましたから、出張できる(範囲に)限度はありました。これが何人かのチームでやっていたら、もっと手広くできたのかもしれませんが。
発売日前にゲームを売ってしまう大らかな時代
大堀 基板の改造って、ROM交換だけなら比較的簡単にできるけど、面倒なものになってくるとジャンパ線を飛ばす(*01)といったことも必要でしたよね。そういった技術はどのように身に付けていかれたのですか?
鈴木 やはり勉強はたくさんしました。でも、もともと機械いじりや電子工作が好きだったので、基礎知識が身に付いていたのは大きかったと思います。中学の頃から『模型と工作』(1961~1968年/技術出版(*02))という雑誌を愛読していて、ラジコンのエンジン機をいじったりしていました。高校生になるとバイクのエンジンをいじるようなこともしていたので、基板の改造も趣味の延長みたいなものでしたね。
大堀 基板の流用でゲームを新しくする時も、元にする基板が分からなければできなかったと思います。その辺のノウハウは、テスト改造のようなトライアルをして蓄積していった感じでしょうか。
鈴木 (基板の)シリーズがどうなっているかなどで判別する感じでした。ほかには、『スペースインベーダー』の亜流を作っていた業者が改造の技術を持っていたので、そこから学んだりとかね。当時はどの業者もメーカーの予定日より早く発売してしまうような、そういう競争をしていた時代でした。
──発売前に流通してしまうようなことがあったんですか?
鈴木 要するに、メーカーのテストロケとか、有力なオペレーターには先にゲームを送ったりしていたんですよ。当時は横流しみたいなことをしている業者もいましたし。私もジャトレの『ギャラクシアン』(1979年)を発売前に設置した記憶がありますよ。
大堀 発売前に!(笑)
鈴木 だからその辺はいい加減な時代だったんですよ。
脚注