ゲームセンター聖地巡礼「1980~1990年代 高田馬場」
ハイスコアバトルも熾烈を極めたナムコ直営店「ゲームブティック 高田馬場店」
―― 高田馬場のナムコ直営店「ゲームブティック 高田馬場店」のお話を聞かせてください。
見城 当時、ゲームマニアが集まる店といえば「プレイシティキャロット 巣鴨店」でした。店舗も広かったですし。でも、それ以前は「ゲームブティック 高田馬場店」が一番有名でしたね。というか、大堀くんが『マイコンBASICマガジン』(*01)(以下『ベーマガ』)で紹介してから、一気に知れ渡ったと記憶しています。
大堀 「ブティック」は高田馬場のさかえ通りにあった店で、単に僕のホームグラウンドだったんだけど、ベーマガ誌上で盛り上げましたからねえ(笑)。
見城 大堀くんをはじめ、当時の有名なゲーマーが集うお店ということで人気でした。店舗は狭いけど、洋ゲー(欧米メーカーの外国産のゲーム)もたくさん置いてあったり、ラインナップも変わっていて個性的でしたね。『マーブルマッドネス』(1984年/アタリ)もいち早く置いていたし、『シニスター』(1982年/ウィリアムス)もありました。
大堀 今では「 日高屋」になっていますね。フロアは縦に細長く、一番奥にトイレがある配置は現在も変わらない。ビデオゲームだけじゃなくてピンボールも2~3台置いてあったし、あとは洋ゲーですね。入り口の細い通路に『スターウォーズ』(1983年/アタリ)がムリヤリ置いてあったり。
場所柄、学生が集まるということで、ナムコもお金をかけていたんだと思います。『ボスコニアン』(1981年/ナムコ)のポスターをデザインした長岡秀星さん(*02)が描いた大きなモアイのイラストが、壁にドカーンと飾ってあったけど、あれもお金がかかっていたはず。
見城 そもそも、ナムコの直営店で「ゲームブティック」なんて名前が付いているのはここだけで、独特なお店でしたよね。ほかは基本的に「キャロット」を冠した店名でしたし。
大堀 「ブティック」には熱いゲーマーが集まって、ハイスコア対決も熾烈を極めていましたね。ただ、洋ゲーに関しては僕はあまりハマれなかった。理由は、洋ゲーは難しいからお金がかかる(笑)。ついていけなかったです。
見城 大堀くんがそう言うってすごいなあ。
―― 大堀さんのような著名な方ですと、ファンの方に話しかけられたりしたことも多かったのではないでしょうか?
大堀 僕の同人誌『ゼビウス1000万点への解法』も、最初は「ブティック」でしか売っていなかったし、買いに来てくれた方はいましたね。そういうタイミングでお話をしたりというのはありました。
見城 (本の影響で)有名ゲーセンになりすぎて、遠くから遠征してくる人も多くなって。狭い店舗だから大変でしたよね。
ゲームをするにも食事をするにも安定のさかえ通り
―― 私は、上京して最初にさかえ通りを通ったときに、「これが『オホーツクに消ゆ(*03)』(1984年/アスキー)に出てくるさかえ通りかあ(ゲーム内での表記は栄通り)」と感動した記憶があります。「キャバレー・ルブランはないのかな?」と思ったり(笑)。
一同 (笑)。
見城 ほかにもさかえ通りには、「ブティック」の対面にタイトーのゲーセンがありましたね。
―― 調べたところ、それは「TiLT 高田馬場店(のちの『タイトーステーション 高田馬場店』)」だったようですね。
大堀 あと、少し奥にシグマの店があって、さらにもう少し行くと50円ゲーセンがあったんです。
見城 当時、『ギャプラス』(1984年/ナムコ)での1億点到達にチャレンジしたゲームサークルがあったんですが、そのときの店舗が、さかえ通りにあったタイトーの店だったと思うんです。1億点に到達するには3日くらいかかるだろうから、まさに耐久…。
―― それは、人が代わる代わるプレイするということでしょうか?
見城 そうですね。24時間営業なんでお店も閉まらないから、人が交代で延々とプレイする…。
大堀 ファミコンブームのころは、そのタイトーの店に服部名人(*04)のコーナーがあったよ。さかえ通りは、「ブティック」がなくなったあと、足が遠のいちゃったんだよな。
ゲームセンター聖地巡礼(第一回)を終えてみて
―― 今回で、「ゲームセンター聖地巡礼」企画第1弾の「新宿編」と「高田馬場編」が終了となりますが、最後に聖地を周り終えてみての感想をお願いします。
見城 当時、都内の繁華街のゲームセンターはかなり巡りましたが、なかでも新宿繁華街の密集度はすごかったですね。ちょっと大げさに言うと、数メートル歩くごとにお店があるぐらいの感覚でした。そして各店舗に入ると、それぞれに特長があって…。
あの『スペースインベーダー』ブーム後の拡大期の雰囲気は忘れられないですね。突貫工事的に広がったせいか、わい雑でどこかアングラ(アンダーグラウンド)感の漂う世界というか…。
当時の自分の年齢的なものもあって、本当に強烈な体験でした。今回、(本記事を)読んでくださった皆さんにその感覚がうまく伝わったかは分かりませんが、少なくとも自分はとても楽しかったです(笑)。
大堀 インベーダーゲームでブレイクしたビデオゲーム、1970~1980年代当時はビデオゲームのまさに黄金期でした。遊び手の僕たちからすれば、出るゲーム出るゲームが新鮮で、新作と出会うために、休日のたびにゲームセンターを巡っていましたね。
今回の企画は、コンソールやスマートフォンなどでゲームができる今と違い、ゲームをするためにはゲームセンターに行かなければならない時代があったことを、改めて見つめ返すよい機会となりました。
ゲーム文化保存研究所として、ビデオゲームの誕生・成長期に時間を共有できたことに感謝し、今後もゲーム文化の発展に大きく寄与したゲームセンター自体の歴史を残す取り組みをしていきますので、引き続き応援お願いいたします。
―― 今回は本当に貴重なお話が聞けました。ありがとうございました。
不定期でお届けする「聖地巡礼」シリーズ。第1弾では、大堀所長と見城氏の「庭」ともいえる新宿と高田馬場を訪ねました。次回はどこへ行くのやら…。第2弾もお楽しみに!
【懐かしのゲームセンター住所一覧】
BET,50(現在:すき家 高田馬場店) | 新宿区高田馬場1-28-4 工新別館ビル |
ゲームブティック 高田馬場店(現在:熱烈中華食堂 日高屋 高田馬場店) | 新宿区高田馬場3-2-15 第26東京ビル1F |
ゲームファンタジア 高田馬場店(現在:一軒め酒場 高田馬場さかえ通り店) | 新宿区高田馬場3-1-4 菱田ビル1F・2F |
TiLT 高田馬場店(現在:大阪屋台居酒屋 満マル 高田馬場店) | 新宿区高田馬場3-1-4 東栄ビル1F |
高田馬場ゲーセン ミカド | 新宿区高田馬場4-5-10 オアシスプラザビル1F・2F |
※こちらのデータは本記事に登場する各ゲームセンターのあった現在の所在地です。
大堀 康祐
1966年、東京都生まれ。高校生の時に“うる星あんず”のペンネームでミニコミ誌『ゼビウス1000万点の解法』を制作。その後『マイコンBASICマガジン』の別冊『スーパーソフトマガジン』の創刊に携わり、『マル勝ファミコン』などのゲーム雑誌にてライターとして活躍。ゲームプランナーなどを経て、仲間3人とともに1994年にゲーム開発会社マトリックスを設立。2016年にゲーム文化保存研究所を設立。当研究所所長。
見城こうじ
1965年、東京都生まれ。株式会社ナムコでディレクターとしてさまざまなアーケードゲームの開発に携わった後、ノイズ社を立ち上げ、任天堂と共同でカスタムロボシリーズ5作を手掛ける。その他の代表作『コズモギャング・ザ・ビデオ』、『コズモギャング・ザ・パズル』、『ゼビウスアレンジメント』、か『TWIN GATES』、『PENDULUM FEVER』など。元『マイコンBASICマガジン』のゲームライターという顔も持つ。現在はフリーランスのゲームディレクターとして活動。ゲーム文化保存研究所の電子書籍制作にも協力中。
脚注
↑01 | マイコンBASICマガジン : 電波新聞社が刊行していたパソコン雑誌。読者が制作したさまざまなPCゲームのプログラムが掲載されていた。愛称は「ベーマガ」。大堀氏と見城氏は、かつて同誌でライターの仕事をしていた。 |
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↑02 | 長岡秀星(ながおかしゅうせい) : 画家、イラストレーター。宇宙やSFを彷彿させるデザインで国際的に活躍。アメリカを拠点に、数多くのレコードジャケットなどを手掛けたことで知られる。2015年死去。 |
↑03 | オホーツクに消ゆ : 堀井雄二氏がシナリオを手掛けたアスキーのアドベンチャーゲーム。オリジナルはPC版で、のちにファミコンにも移植された。正式タイトルは『北海道連続殺人 オホーツクに消ゆ』。同ゲームの栄通りに登場するキャバレー・ルブランは実際には存在しない。 |
↑04 | 服部名人 : 当時、タイトーに所属していたゲーム名人。 |