『スペースインベーダー』誕生40周年記念 ~『スペースインベーダー』が生まれた日~「PLAY!スペースインベーダー展」内覧会より
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- 記事タイトル
- 『スペースインベーダー』誕生40周年記念 ~『スペースインベーダー』が生まれた日~「PLAY!スペースインベーダー展」内覧会より
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- 公開日
- 2018年02月23日
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- 記事番号
- 238
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- ライター
- IGCCメディア編集部
目次
1978年に発売されるや否や、ブームを超えて社会現象ともなった『スペースインベーダー』。2018年は、『スペースインベーダー』が誕生して40周年を迎える記念すべき年であり、1年を通して関連イベントも開催されます。
その第1弾として、2018年1月12日から31日まで、東京六本木ヒルズ展望台 東京シティビューで「PLAY!スペースインベーダー展」が開催され、当編集部もその内覧会に参加してきました。
『スペースインベーダー』の生みの親である開発者・西角友宏氏、『ゲームセンターあらし』の作者のすがやみつる氏によるスピーチも行われ、『スペースインベーダー』が生まれた背景、そして一躍人気漫画となった『ゲームセンターあらし』との関係性、当時のゲームセンター事情など、貴重なお話を伺いました。
ゲーム文化保存活動の一貫として、スピーチの一部をこちらで掲載させていただきます。
アタリ社の『ブレイクアウト』がヒントに
司会者 西角さん、40周年おめでとうございます。
西角 40周年ということで、当たり前ですけど、その当時生まれた子供は40歳ということで、それを考えるとすごい時間がたったんだなぁと思っております。こんな長い間、皆さんに遊んでいただいて、非常に幸せです。
『スペースインベーダー』ですが、今さら『スペースインベーダー』もないだろうと疎まれた時代もありましたが、40周年、皆さまにかわいがっていただいて嬉しく思っています。
40年前ということですが、開発したのはそのちょっと前ですけれども、当時はマイクロコンピューターなんて日本では全然知られていなくて、私は独自で研究しました。
アイデアもそうですし、キャラクターもそうですし、全部自分で開発しました。客観的に振り返っても、非常にすごいなと感心しています。感心するとうよりは驚いています。よくできたなと。最近では特にそう思っています。
まあ、それは若かったということもありまして、情熱とパワーでできたんじゃないかなと思っています。今でも情熱は多少あるんですけれども、パワーの方は全くないですが、まだまだ、これからもいろいろと考えていきたいと思っています。
この『スペースインベーダー』ですけれども、ニューヨーク近代美術館に収蔵されております。私も2年半ぐらい前に見に行きまして、フロアは違うんですが、別のフロアにセザンヌとかゴッホとか、そういう名画と同じような建物の中に展示してあり、すごく感動しました。アメリカとか外国ではゲームは文化だとかアートだとか言われていて、それは非常に嬉しく思いました。
司会者 そうなんですね。今回はせっかくなので、当時のお話を少しお聞きしたいと思います。そもそも『スペースインベーダー』はどのように発案されたのでしようか?
西角 そうですね。皆さんもご存じだとは思いますが、『スペースインベーダー』の前にアタリ社から『ブレイクアウト』というブロック崩しが発売されました。
私もそれを遊んで、非常におもしろいゲームだと思いましたね。「敵ながらあっぱれだなぁ」と悔しい思いを持ちながら、それに負けないようなゲームを作ろうと考えました。
このおもしろいゲーム性を入れようと思いまして、ブロックゲームで並んでいるターゲットは何かの形にしようということで、まず、先ほどのマイクロコンピューターを使って、シューティングゲームを作ってみました。加えて、これまでなかった、相手からも打ってくるというシューティングゲームを開発しました。
司会者 『スペースインベーダー』はその後、ブームになっていきますよね。ブームになった時、印象とか反響とかで心に残っていらっしゃることはありますか?
西角 印象というか、実のところ、私はゲームセンターにあまり行ったことがないんです。当時の『スペースインベーダー』のハード能力が低いものですから、もっと良いものを作ろうと、そちらの方に気が向いていました。
『スペースインベーダー』も過去のブームということで、ほとんど関心がなかった、そんな感じでした。今から思うと不思議なんですが…。やはり(自分は)つくづくエンジニアなんだなぁと思います。
司会者 当時、『スペースインベーダー』をプレイされたりはしなかったんですか?
西角 ゲームセンターに行ってですか? いや、見に行ったこともなかったですね。
司会者 それでは西角さんが知らないところで、いつの間にか大ヒットしていたということなんですね。
西角 そうですよ。『スペースインベーダー』に故障が出たっていうんで、(現場に)1回だけ行きましたね(笑)。
『スペースインベーダー』とは切っても切れない『ゲームセンターあらし』
西角氏のスピーチ後、ここで『スペースインベーダー』が大ブームとなった当時にゲームセンターをテーマにし、人気を博した『ゲームセンターあらし』の作者であるすがやみつる氏が登壇します。『ゲームセンターあらし』と『スペースインベーダー』の関係について、話が展開していきます。
すがや 皆さま、こんにちは。京都からやってまいりました。『スペースインベーダー』40周年、おめでとうございます。
実はですね、『ゲームセンターあらし』も40周年なんです。第1回は1978年に『コロコロコミック』の読み切り漫画に載ったんですが、その時には西角さんからお話のあったブロック崩しがテーマでして、それで1回目の漫画を描いて、これで調子が良ければ連載にしようね、ということだったんです。しかし、やってみたところ、人気が全然なくて、1回で打ち切りになりました。
それで、F1レースの漫画を連載していたんですけど、翌年になりまして79年の初め頃、「『スペースインベーダー』が大分盛り上がっているらしいから、もう1回だけ『スペースインベーダー』で読み切りを描いてみないか」と言われまして。『コロコロコミック』の増刊号、これはウルトラマンの総集編の特集号で大半がウルトラマンの漫画が載っていて、そのおまけにオリジナル漫画が2本だけ載りまして、そのうちの1本が『ゲームセンターあらし』でした。
そこで、『スペースインベーダー』をテーマに、今は東京ドームになってしまった当時の後楽園球場、こちらのスコアボードが電光表示板付きになったんですね。これを描きたいと思って、後楽園球場で『スペースインベーダー』をやるというお話を描いたところ、非常に人気が出まして、アンケートで80%ぐらいとりまして。「宇宙からの侵略者がウルトラマンを蹴散らしてしまった」、こんなこと言ったら、怒られるかもしれませんが、アンケートで1位をとりました。そして、『コロコロコミック』の本誌で連載することが決まりました。
そうすると、こちらは結構楽しんで描いていたF1漫画が打ち切りになりまして、そこで『ゲームセンターあらし』の連載が始まりました。おかげさまで、それから長いこと連載を続けることができました。
司会者 そうなんですね。ちなみに、すがや先生は『スペースインベーダー』を当時プレイされましたか?
すがや やりましたよ。当時は「名古屋撃ち」っていう技が出てきて、自分で練習したところうまくできない。それで、友人である年下の大学生に頼んでプレイしてもらいました。
銀行に行って5,000~6,000円分を百円硬貨に全部両替えしてもらって、それを、喫茶店に置いてある『スペースインベーダー』の台に積み上げて、プレイしてもらいましたね。攻略技は、全部大学ノートにメモし、それを漫画で紹介しました。
『ゲームセンターあらし』がゲームセンターのイメージを変えた?
司会者 40年前に『スペースインベーダー』と同じく『ゲームセンターあらし』も流行りましたが、当時の反響は覚えていらっしゃいますか?
すがや こちらで一番印象に残っていることは、やはり『スペースインベーダー』ということで、タイトーさんの本社が当時永田町にあったんですけど、そちらに取材に行きました。その時にゲームセンターの営業をされている方が出てきて、いきなり両手を握られて、握手されました。
なぜかというと、当時、ゲームセンターというのは、薄暗い印象というか、不良のたまり場とか、そういうイメージがありました。それが、学年誌を出している小学館の雑誌にゲームセンターが取り上げられたということで、(その方は)嬉しかったようです。
その方には小学生のお子さんがいらっしゃって、自分のやっている仕事を後ろめたく感じていたようです。なかなか、子供に自分がどんな仕事をやっているかが言えなかった。そんな時に(ゲームセンターが)『コロコロコミック』に載ったので、『コロコロコミック』を持って帰って、子供にこういう仕事をしていると説明したと語っておられました。
そんな話をしながら、私の両手を握って「ありがとうございました」と言われたのが、印象的でした。本来ならば、こちらの方が何倍も「ありがとうございました」と言いたい気持ちだったんですが…。そのことが一番印象に残っています。
当時、ゲームセンターには小学生だけでは入れず、本の中でも「ゲームセンターに行く時にはお父さんやお母さんと行こうね」みたいなことを書かなければいけない時代でした。
それでも、やはり、『スペースインベーダー』が一つのきっかけで、ゲームセンターは子供たちや女性などファミリーで行くところに変わっていったんじゃないかと思います。
司会者 ちなみに『ゲームセンターあらし』がヒットしたという段階で、その時に思っていたことなんかは何かありますか?
すがや 西角さんと同じくヒットしたという実感はなくて、雑誌では確かに1位になったことはあったんです。ただ、その頃は『ドラえもん』というお化けコンテンツが『コロコロコミック』にあったものですから、「『ドラえもん』と同じく人気ですよ」とは言われたんですが、実感はなかったです。
翌年の1980年の1月25日だったかな。今でも覚えていますけど、小学館の『コロコロコミック』の編集部から『ゲームセンターあらし』のコミックス1巻が出たんですね。当時は2万5,000部が最初の初版を出して、全国であっという間に売り切れ続出となりました。その日のうちに小学館で緊急会議が開かれて4万部の増刷が決まって、10日後には第2版が出てというかたちで。それで、あれよあれよで、単行本が売れるらしいということで、小学館様から『ゲームセンターあらし』のために増刊号とか、100ページ読み切りとかで1年のうちに5冊ぐらい出して、1年で100万部を超えるような部数を出しましたね。
※敬称略
©TAITO CORPORATION 1978,2018 ALL RIGHTS RESERVED.
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一時代を築いた西角氏とすがや氏の貴重なお話から、ゲーム文化の黎明期を垣間見ることができました。今後とも、ゲーム文化保存研究所では、このような歴史的クリエーターによる貴重な発言も、一つの文化財として保存していく活動を続けていきます。
※一部構成を変えさせていただいております。あらかじめご了承ください。
西角 友宏 氏
1944年大阪府生まれ。1968年に当時タイトーの子会社であったパシフィック工業に入社後、『スカイファイター』など初期のアーケードゲームを開発する。1978年に『スペースインベーダー』を世に送り出し、一大旋風を巻き起こす。現・株式会社タイトー アドバイザー。
すがや みつる氏
1950年静岡県生まれ。1972年に『仮面ライダー』(石ノ森章太郎原作)で漫画家デビュー。1978年に『ゲームセンターあらし』の連載を開始し、たちまちヒットを記録する。現・京都精華大学マンガ学部キャラクターデザインコース教授。
『スペースインベーダー』
1978年にタイトーから発売されたシューティングゲーム。双方向からの攻撃という当時としては斬新なゲーム性でプレイヤーの心理をとらえ、それまでゲームに関心がなかった人達も惹きつけ、世界中でブームを呼ぶ。
あちこちに「インベーダーハウス」と呼ばれるゲームセンターが登場し、「銀行に百円硬貨がなくなるのでは?」という予想がでる規模の社会現象をも巻き起こした。このブームでコピー商品が氾濫する中、日本で初めてゲームプログラムに著作権が認められた事例となり、その後の著作権保護に大きく貢献した。
IGCCメディア編集部