アーケード黄金期を駆け抜けた伝説のハイスコアラー「RVS-GUN」
ゲーム好きなら誰もが知っている往年のゲーム雑誌『マイコンBASICマガジン(以下、ベーマガ)』(1982~2003年/電波新聞社)。マイコン(パソコン)情報雑誌から始まるも、アーケードゲームのプログラムや攻略を解説した別冊付録『スーパーソフトマガジン』(1983年11月号~1984年12月号)が大好評となり、それ以来、ゲーム雑誌として不動の地位を築きました。
1980年初頭より、全国各地でハイスコアに挑むプレイヤー「スコアラー」が登場するようになると、『ベーマガ』では1984年から全国のゲームセンター(以下、ゲーセン)でハイスコアを競う「チャレンジハイスコア!」のコーナーを開始しました。
ハイスコア争いは、やがて他のゲーム雑誌にも影響を与えます。1986年に創刊した『ゲーメスト』(新声社)でも「めざせハイスコア!!」のコーナーがスタートし、1990年代半ばにはハイスコア争いの絶頂期を迎えます。
その頃、アーケードゲームメーカーも毎月、新作タイトルを次々と発売し、ハイスコア争いは熾烈を極めるようになります。大袈裟ではなく、スコアラーの戦国時代ともいえるほど、人生を懸けてスコアアタックしているプレイヤーもたくさんいました。
ゲーム雑誌のスコアアタックコーナーに自分のスコアネームを刻むためだけに、ゲーセンの開店から閉店まで筐体に座り続け、お金が尽きるまでひたすらゲームをやり続ける。賞金など一切出ないのに、仕事に学業、いろいろなものを犠牲にしてまで…。それが当時のスコアラーでした。
そんなスコアラーの中でも、群を抜いたハイスコアラーがいました。
東京・町田を中心に活動していたスコアネーム「RVS-GUN(RVS-GUN(アールブイエス グン)」。本名、栗本武男。
仲間内では「GUN人(グンジン)」と呼ばれ、スコアラーの世界ではその名を知らない人はいないくらい有名なプレイヤーでした。
残念なことに、彼は、29才という若さで逝去しましたが、短い人生ながらも彼が成し遂げた偉業を振り返りつつ、一世を風靡したハイスコアブームとは何であったのか、考察してみたいと思います。
子供の頃からゲームの腕はピカイチ
1969年生まれの彼は、子供の頃から部類のゲームが好きで、アーケード、家庭用ゲーム、PCゲームとジャンルを問わずさまざまなゲームをプレイしていたそうです。その腕前は、クラスはおろか校内でも有名で、「栗本くん=ゲームがうまい」というイメージが確立されていたほどでした。その昔、「中学生時代は攻略方法の開発に明け暮れていた」と彼が語ってくれたことが思い出されます。
実は高校時代、私は彼と同じクラスでした。それまで「この学校に自分ほどのゲーマーはいない」と自負していましたが、彼に会い、彼のプレイを見て衝撃を受けました。あれほど緻密に計算し尽くした攻略技に、初めて敗北感を味わいました。それからというもの、私は彼といつもつるむようになり、私たちは町田のゲーセンに通うようになりました。
GUN人のホームゲーセンは、町田ゲーマーの原点であった
GUN人の主戦場は東京・町田にあったゲーセン「プレジャーキャッスル(以下、キャッスル)」。
町田というと『バーチャファイター2』(1994年/セガ)の対戦格闘の地として有名ですが、もともと町田の対戦格闘ゲーマーはスコアラー出身者が多く、町田ゲーマーの歴史はここ「キャッスル」から始まりました。
GUN人は1988年あたりからスコアラーとしての頭角を現すようになり、「キャッスル」の全盛期もその頃から始まります。仲間のスコアラーも徐々に増え、店内ではスコアアタックが盛り上がっていきました。当時、自分は「キャッスル」の店員で、毎日のようにそんなGUN人たちスコアラーの奮闘する姿を見ていました。
「キャッスル」は、タイトー直営店なのに10坪くらいの小さな店でした。最新ゲームも遅れて入荷され、しかも、1プレイ100円と比較的高い料金設定。他店から偵察にきたスコアラーが「本当にこのゲーセンでハイスコア出したの?」と言うほど、ハイスコアを狙うにはよほど向かない環境でありました。
しかし、GUN人をはじめ常連スコアラーたちはそんな逆境にもめげず、常に攻略の技を磨き、数々のハイスコア記録を打ち立てました。
誰よりも全身全霊を懸けてプレイする男!
GUN人が「キャッスル」に通うようになったのは、18才の時。その攻略の腕前はすぐにスコアラーの間で評判となり、彼がプレイする時には何十人ものギャラリーができるほどでした。
普段の彼は、物腰も柔らかい温和な性格なのですが、ゲーム雑誌のスコア締切日間近になると、誰も近寄れないくらいの凄みがありました。時々スコアアタックに失敗し、涙を流しながら、筐体をものすごい勢いで叩いて悔しがる姿も見受けられました。その姿は、まるで甲子園で負けた高校球児のようでした。誰よりも全身全霊を懸けてスコアアタックする男、それがGUN人でした。
当時、私と同じく「キャッスル」で店員をしていた中に、「闘劇」(*01)のコアメンバーとして有名な山岸勇氏(*02)がいました。山岸氏はまるでGUN人のマネージャーのような存在で、よく2人で「おい、来月はこのタイトル狙うぞ!」と作戦会議のようなことをやっていました。
そんな頃、「キャッスル」の近くにジャレコ直営の「YOU&YOU 町田店」ができました。こちらは「キャッスル」とは違って新タイトルも続々と入荷し、GUN人は「待っていました」とばかりに「YOU&YOU」にも通うようになりました。しかも、「キャッスル」と合同でハイスコア集計をすることになり、常連プレイヤーのモチベーションは一気に上昇(ハイスコアコーナーには「キャッスル&YOU2」の名で掲載)。スコアラー人口も増え、両店舗は連日連夜、盛り上がりを見せました。
やはりGUN人も、新作ゲームがあまりできなかった「キャッスル」でのうっぷんを晴らすがごとく、全国1位のハイスコアを毎月叩き出していました。
【RVS-GUNハイスコア履歴】
ゲームタイトル | 『ゲーメスト』掲載号/ハイスコア得点 | 『ベーマガ』掲載号/ハイスコア得点 |
『功里金団(くりきんとん)』(1988年/タイトー) | 1988年9月号 / 773,900 | |
『スプラッターハウス』(1988年/ナムコ) | 1989年2月号 / 842,900 | |
『忍者龍剣伝』(1989年/テクモ) | 1989年5月号/3人部門:431,200 1989年6月号/ 502,700 | 1989年5月号 / 502,700 |
『ヘルファイアー』(1989年/タイトー) | 1989年7月号 / 7,258,850 | |
『ストライダー飛竜』(1989年/カプコン) | 1989年8月号 / 492,750 他 | 1989年7月号 / 488,300他 |
『天地を喰らう』(1989年/カプコン) | 1989年10月号 / 劉備: 5,780,200 他 張飛:5,775,000 他 関羽:5,778,100 1989年11月号 / 趙雲:5,720,800 他 | 1989年10月号 / 劉備: 5,780,200 他 張飛:5,775,000 他 関羽:5,778,100 他 1989年11月号 / 趙雲:5,720,800 他 |
『Xマルチプライ』(1989年/アイレム) | 1990年1月号 / 17,819,800 | 1990年1月号 / 18,286,700 |
『ダライアスⅡ』(1989年/タイトー) | 1990年3月号 / 3画面(上Zゾーン):3,410,560 他 3画面(上Vゾーン):3,606,440 他 3画面(Wゾーン):3,763,830 他 3画面(Xゾーン):3,520,480 他 3画面(Yゾーン):3,492,570 他 | 1990年2月号 / 3画面(上Zゾーン):3,408,350 3画面(上Vゾーン):3,551,160 3画面(Yゾーン):3,477,830 1990年3月号 / 3画面(Wゾーン):3,763,830 |
『ファイナルファイト』(1989年/カプコン) | 1990年3月号 / ハガー:1,695,470 1990年4月号 / ガイ:3,069,020 他 | 1990年3月号 / ガイ:3,069,020 |
『マーベルランド』(1990年/ナムコ) | 1990年7月号 / ノーマル部門:1,716,660 他 | 1990年7月号 / ノーマル部門:1,716,660 他 |
『1941 カウンターアタック』(1990年/カプコン) | 1990年6月号 / 1P:14,181,700 2P協力部門:16,453,400 | 1990年6月号 / 2P協力部門:16,453,400 |
『チキチキ・ボーイズ』(1990年/カプコン) | 1990年9月号 / 2,075,510 | |
『マジック・ソード』(1990年/カプコン) | 1990年11月 / 13,433,332 | |
『サプライズアタック』(1990年/コナミ) | 1991年4月号 / 1,323,610 他 | 1991年4月号 / 1,323,610 他 |
『スカイスマッシャー』(1990年/タイトー) | 1991年4月号 / 10,000,000 | |
『NEMO(ニモ)』(1990年/カプコン) | 1991年4月号 / 3,222,700 | |
『クイズ 殿様の野望』(1991年/カプコン) | 1991年4月号 / 7,413,250 | |
『ストリートファイターⅡ』(1991年/カプコン) | 1991年7月号 / リュウ:1,381,900 ケン:1,355,900 1991年10月号 / ダルシム:1,561,000 他 | 1991年8月号 / リュウ:1,420,000 1991年9月号 / ダルシム:1,492,300 |
『ザ・キングオブドラゴンズ』(1991年/カプコン) | 1991年12月号 / ファイター: 3,237,800 1992年1月号 / クレリック:3,407,600 | 1991年12月号 / ドワーフ:3,407,900 1991年12月号 / ファイター: 3,237,800 1992年1月号 / クレリック:3,407,600 |
『ゼクセクス』(1991年/コナミ) | 1992年2月号/ 3,422,800 | |
『キャプテン コマンドー』(1991年/カプコン) | 1992年4月号 / フーバー: 297,840 翔: 288,2201992年6月号 / キャプテン:321,200 他 | 1992年4月号 / フーバー: 297,840 1992年6月号 / キャプテン:321,200 他 1992年7月号 / 翔:332,810 他 |
『ナイツ オブ ザ ラウンド-円卓の騎士-』(1992年/カプコン) | 1992年5月号 / アーサー:517,210 | 1992年5月号 / アーサー:554,110 |
フィグゼイト(1992年/東亜プラン) | 1992年11月号 / レムリアス・ランジェロ 5,148,490 | |
『ワールドヒーローズ2』(1993年/SNK) | 1993年8月号 / マッドマン: 8,286,600 | 1993年9月号 / マッドマン: 9,110,400 他 |
彼のすごさは、あえて競争率が高い人気ゲームを選び、多数のタイトルで全国1位のハイスコアを出すことを意識してプレイするところです。
新作や競争率が高ければ、それだけ両誌のハイスコア集計コーナー上部に掲載されます。彼の記録は両誌で通算95回(『ベーマガ』41回、『ゲーメスト』54回)も掲載され、全国にその名を轟かせました。また、「キャッスル&YOU2」もGUN人ら常連プレイヤーの活躍により、『ゲーメスト』において1992年の1年間でもっともハイスコア全国1位を獲得した店舗にもなりました。
ハイスコア文化よ永遠に!
今思い返すと、あの時代は、ゲームを部活としていたような時代でした。GUN人をはじめいろいろなゲーマーと出会い、ゲームのスコアアタックに一喜一憂した熱い思い出の日々。
在り方は異なりますが、今話題のeスポーツがあの時代にあったなら、間違いなく彼はトッププレイヤーとなっていたでしょう。
そんな彼も、25歳くらいだったか、就職をきっかけにスコアアタックとは一線を引き、ゲームセンターから足が遠のくことに。
その後、1998年5月、彼は29歳の若さで不慮の交通事故によりこの世を去りました。誰からも好かれる性格で皆から愛されていた彼をしのんで、命日の5月3日になるといまだに、その昔一緒にハイスコアを狙って切磋琢磨した仲間やライバルたちが墓参りにやってきます。
彼のお母様のはからいで、墓石にはスコアネームの「gun」と「ありがとう」という文字が刻まれています。
時代は変わり、ゲームセンターは減り続け、スコアアタックができる新作ゲームもあまり発売されなくなった昨今。それでも、GUN人が人生を懸けて挑んだアーケードゲームのハイスコア文化は、雑誌からネットに媒体を変え、日本ハイスコア協会によって現在でも受け継がれています。
本記事が、かつてハイスコアに命を懸けた人々がおり、そして今なお、その情熱の火は消えていないという事実を皆さんに知っていただくきっかけになれば幸いです。
最後に…
GUN人の偉業に重みを感じて取材を重ね、彼を主人公とした小説を執筆していたゲーム編集者の大塚ギチ氏。彼もまた、思い半ばの2019年5月1日に亡くなりました。彼の死をきっかけに、本記事を書くことを決めました(*03)。謹んでお悔やみ申し上げます。
~この記事を我が親友・栗本君と、GUN人の小説を執筆中だった大塚ギチさんに捧ぐ~
協力 : Gzブレイン
脚注
↑01 | 闘劇 : 2003~2012年までエンターブレインが主催していた全国規模の対戦格闘ゲーム大会。 |
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↑02 | 山岸勇 : 大学時代より「プレジャーキャッスル」でアルバイトながらも店長を務める。その後、「ゲームスポットアテナ町田店」に移籍し、1994年から『バーチャファイター』(1993年~/セガ)シリーズの大型イベント「アテナ杯(現 VFRビートライブカップ)」を継続的に開催。 対戦格闘ゲーム大会「闘劇」のコアメンバーとしても活躍。「東京レジャーランド秋葉原」勤務を経て、2018年に「ゲーセンミカド」に移籍。 |
↑03 | 大塚ギチ氏のきっかけに、本記事を… : 筆者は、ゲームライターにして編集者であった大塚ギチ氏の著書『THE END OF ARCADIA』(2013年/アンダーセル※2012年にネット配信)を読んでから氏のファンとなり、2012年ころに初めて氏と出会う。後に、氏の代表作で、『バーチャファイター』ブームを題材にしたノンフィクション小説『トウキョウヘッド19931995』(1995年/アスペクト)の関係から、山岸勇氏といった共通の知人がいたことを知る。同書を舞台化した「TOKYO HEAD〜トウキョウヘッド〜」(2015年)のパンフレット(P26)で町田スコアラーの世界が紹介され、大塚氏から「GUN人を主人公にした小説を執筆したい」との打診を受ける。筆者はその取材に協力していたが、小説完成の日を迎えることなく、2019年5月、大塚氏はこの世を去った。突然の訃報に、まだ信じられない思いがある。 |