本の街を見守ってきた老舗ゲーセンが残したもの~神保町ゲーセン「ミッキー」~前編
ゲームはリースせずすべて購入
――ゲーム機はどのように入手していましたか?
三木社長 出るゲーム機は基本的にリースせずに、全部購入しました。私は23歳ぐらいからゲームのリースをやっていたから、どれだけリースが儲かるかよく分かっていました。借りて運営なんてこれっぽっちも考えませんでした。
――新作の購入基準はどのように決めていたのでしょうか?
三木社長 最低1台は新作を買うと決めていました。私はゲームにそれほど詳しくはないので、複数台買うかどうかはスタッフに任せていました。
三木(健) キラータイトルは当然、複数入れますけどね。
――AMショー(*01)、AOUショー(*02)で出た新作は必ず1台は稼働させていたわけですね。ある意味すごいです! それだけの品揃えだったのですから、お客さんの入りも良かったのでは?
三木社長 1980年代後半から1990年代の最盛期は、床がお客さんで見えなかった。木造の床が抜けないかと従業員が心配していましたよ。ゲームができなくて、皆さん立って待っているものですから。
独立を夢見ていた20代の三木社長
大堀 23歳でリース屋さんを始めたとのことですが、その頃のお話を聞かせていただけますか?
三木社長 まず、私が大学生4年生の頃、親父のコネで日本石油にすでに就職が決まっていて、サラリーマンをやっていたんですよ。単位は全部取っていて、学校には1週間で3時間ぐらい行っていました。でも、サラリーマンは私の性格には合わないと入社してすぐに分かってしまった。出世もしないだろうと。それで入社した1969年の10月頃に親に内緒で退職願いを出してしまった。当然、親のところに連絡がいって、私は勘当されたんです。
自分は独立したい気持ちがありました。ちょうどその頃(1969年)、銀座でクラブを営んでいた兄の友人から「大森の店舗(スナック兼喫茶店)経営をやってみないか?」と誘われましてね。360万円でそこの店舗を買ったんです。サラリーマンの月収が4~5万円の時代で、私はその時40万円しか持っていませんでした。
――大学卒業したばかりの若者がいきなり店舗経営するには、それなりの覚悟もあったのではないでしょうか?
三木社長 学生時代にアルバイトは何十とやってきたし、店長の経験もありました。ダイヤモンドホテル直営の、とても有名な中華飯店が有楽町にあったんですけど、そこでアルバイトをしていた大学生の時に、その能力が認められて同ホテルのイタリアンレストランに来てくれないか、なんて言われたり。ほかの店からもひっきりなしに声をかけられていて、休みなしで働いていました。ほかの人とは行動力が違っていたんでしょうね。もちろん、仕事も大好きだった。そんなふうにいろんな場所で経験を身に付けていったんで、店舗を経営できる自信はあって、大森の店の件も二つ返事で受けましたね。
1970年頃、当時コーヒー1杯は90円。仕入れたお金で買い出しに行って、開店して半年ぐらいは儲けも出ず、トントンといった状態でした。
ある時ジューク屋さんというのが来て「ジュークボックスを入れてくれないか」と。「ついでにこんなのもあるから置かせてくれないか」と持ってきたのがゲーム機でした。これがかなり儲かりました。
それなら、自分でゲームのリースをやった方がいいんじゃないかと思ったのが、ゲーム業界に進んだ最初のきっかけでした。
『インベーダー』ブームが残した爪痕
――喫茶店創業当時は1970年代ということですが、1978年には『インベーダー』ブームが来た年ですよね。世に言うすさまじい人気は体感されたんでしょうか?
三木社長 当時喫茶店を6軒経営していたけど、(『インベーダー』)1台で1日3万円入ったかな。鍵が回らなくて、コインを収納している箱が開けられなかったね。
三木(健) そんなインカムのゲームは、その後のミッキーでも見たことはありませんでした。
三木社長 そういう良い時代もあれば悪い時代もあるんですよ。『インベーダー』ブームが来ると、それに伴って世間に(ゲームの)悪いイメージが広がっていきました。世の中が「インベーダーは不良がやるものだ」とレッテルを張ったんです。(青年たちは)毎日のように喫茶店に集まり、家に帰らず深夜になってもプレイしている。そのゲーム代は恐喝で得たものだと。(『インベーダー』は)子供の教育に良くないと、新聞やテレビで連日叩かれました。そして、発売の翌年の1979年8月に、ピタッと(『インベーダー』)機械の売り上げが止まった。
――酸いも甘いもあった時代だったんですね。
三木社長 だからゲーム業界ってのは怖いんですよ。政治的な圧力がかかると、一発で終わる。世の中には逆らえなかった。今みたいにゲームが世間で認められていなかったからね。当時、それが原因で倒産した会社もたくさんありました。
『ジャトレスペクター』を作ったとある会社は、最盛期には新宿の住友ビルのワンフロア借り切っていましたが、『ザ・野球拳』シリーズ(1986年~)を出した後は、社長が下げたくない頭を下げなくてはならないほど経営に苦しんでいました。それを見て、私も人間負けちゃダメだと思ったよ。
インベーダーハウスの経営からミッキー開店へ
大堀 喫茶店からリース経営を始めて、その後、インベーダーハウス(*03)に形態を移していったと思うんですが、お店はどの辺にあったんですか?
三木社長 大森近辺だよ。どれも20坪程度の小さい店舗で、6軒やっていました。喫茶店は「有限会社シャロン」の名前で経営し、それから何年かして「有限会社三木商事」から「株式会社三木商事」となりました。ミッキーの開店はインベーダーブームのちょっと後ぐらいになるのかな。
――ミッキーは1982年にオープンしているようですね。
三木(健) 創業初期は『カンガルー』(1982年/サン電子)とかを置いていた記憶があります。一番記憶に残っているタイトルは『グラディウス』で、あの頃はお客さんも盛んに来店してましたね。
三木社長 ミッキーの経営と並行して、カラオケボックスもやっていたんですよ。カラオケボックスの原型を作ったのも私です。カラオケボックスは最初、駐車場完備で土地の広い田舎に「コンテナボックス」という形で置いたのが始まりです。
当時、都会ではボウリング場の中にコンテナ(箱)を置いていました。これはおもしろいと目を付けまして、自社専属の内装屋に、防音なども含めてどのような造りをしているのか、視察に行かせました。そして、大森界隈に持っていた物件に個室を完備したカラオケ専門店を作ったのが、今のカラオケボックスの形となりました。
――カラオケボックスの基盤を作られたわけですね。
三木社長 私の考えでは、料金は1部屋に何人いても10分100円。ただし、3~4人程度の小さなスペースで大きな部屋は作らない。1曲100円。1日10時間ぐらいの稼働率で考えて、大体の売り上げを計算しました。すると1年足らずで元が取れる勘定になるわけです。
1店舗目は6部屋ぐらいしかなかった小さいお店でしたが、オープンしてみたら長打の列ができました。当初、10時間稼働の予定が24時間稼働になっちゃった。ということは、回収率がメチャクチャ良かったわけです。だけど、私のやり方では長く続かないのは分かっていました。
カラオケの機械は30~40万円のソニー製CDカラオケ。LDだと100万円以上していましたからね。CDだと歌詞だけで動画が一切出ないので、打開策としてカウンターで一元管理していた動画をバックに流していました。つまり、どの部屋でも流れるのは同じ動画で、曲と絵も合ってなかった(笑)。そんな安価な作りなものだから、半年でペイできてしまったのはいいけれど、部屋は小さいし、ゆったりできない。競合他社の豪華な内装や低料金に負けてしまうだろうという私の想定通り、3年で売り上げが下がりました。
次回予告
後編では、ミッキー経営に当たっての具体的な施策や、閉店のきっかけとなった地震の影響、さらには業界の裏事情を可能な限りお伝えしていく。もっともインカムの高かったタイトルとは? 閉店にあたっての社長の思いは? ゲーセン経営者も必見の後編をお楽しみに。
※記事内の店舗画像は全てITmedia「ねとらぼ」2013年03月27日公開記事より許諾を受けた上で引用したものです。画像の二次利用はお控えください。
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脚注
↑01 | AMショー : 新作アーケードゲームの展示会「アミューズメントマシンショー」の略。主催はJAMMA(日本アミューズメントマシン協会)で、JAMMAショーとも呼ばれる。毎年9月に行われており、後述のAOUショーに比べ、その年の一番力の入った新作が発表されていた。2013年にAOUショーと統合。以降、ジャパンアミューズメントエキスポとして毎年2月に千葉県の幕張メッセで開催されている。 |
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↑02 | AOUショー : 2012年まで、毎年春に開催されていたAOU(全日本アミューズメント施設営業者協会連合会)主催のアーケードゲーム展示イベント。現在は前述のジャパンアミューズメントエキスポに統合。 |
↑03 | インベーダーハウス : 『スペースインベーダー』のみを設置したゲームセンターで、1970年代後半から1980年初頭にかけて全国各地に出現した。 |