アーケードゲームが輝いていた時代を駆け抜けた男! 坂本慎一氏インタビュー 後編
『モンスターランド』のヒットで歪み始めたこと
――『モンスターランド』は記録的大ヒットとなりますが、周囲からはどんな反響がありました?
坂本 『モンスターランド』のヒットのおかげでウエストンの評価は上がり、まず(ウエストンの)メンバーを増やしました。人を増やして、僕らが一軍だとすると二軍、三軍を作るわけですよ。新卒を入れて、その人たちを働かせればいいやって。
大堀 考え方が若い!(笑)
坂本 僕らはその当時、ほとんど(PCゲームの)『現代大戦略(*01)』(1985年/システムソフト)か『ウィザードリィ(*02)』(1981年/サーテック)しかやってなかったですね。ゲームは作らなかったですよ。会社へ行ったら1日中ゲームしていたか、もしくはゲーセンに行っていました。
大堀 すごくうらやましい話ですね。『モンスターランド』を作っている最中は僕もプレイさせてもらいました。最後の調整をしている時にこれでは難しすぎると思い、「最初に薬1個あげましょうよ」ってアドバイスしました。だから、初期のバージョンでは薬がもらえなかったでしょ。復活の薬(*03)。
坂本 それでああなったのか! すごいところに貢献している!
大堀 僕も陰ながら貢献したんですよ。それで(『モンスターランド』の開発者に)寿司を1回おごってもらいましたからね(笑)。本当に『モンスターランド』は売れましたからね。
坂本 売れたみたいですね!
大堀 だってあれって、アーケード版だけじゃなくてPCエンジン版も出たくらいでしたから。
――PCエンジンの『ビックリマンワールド』(1987年/ハドソン)ですね。
大堀 当時人気だった「ビックリマン」にキャラクターを替えて移植したやつですよね。それも売れましたよね。
坂本 売れちゃったから働くのもバカバカしくなってしまうほどだったんですよ。インセンティブ的なところで不労収入も増えたし。
だから、当時はゲーム開発のことを正直財布だと思っていたんですよ。何を作っても売れる時代だったから、パブリッシャーも「次は何を作りましょうか?」って言うんです。でも、今になって考えると、1本作っても当時2,000万や3,000万円ぐらいの売上なんですよね。今の売れているスマートフォンのゲームと比べたら、それほどじゃなかったですよね。
大堀 でもロイヤリティがすごかったでしょ。
坂本 ロイヤリティは多かったですね。しかも、当時のゲームは3人とか4人、へたしたら2人くらいで作っていたから、それなりに儲かりましたよね。
だから、ラインをいっぱい増やせば、その分儲かるんじゃないかと思っちゃったんですよ。マネージメント力とか全然気にしてなかったんですね。単純にゲームを作れば儲かると思っていたから。マネージメントができてないのに、ゲームだけはどんどんと出していった時代でしたね。
ウエストン時代にサウンドで携わったゲームタイトル
大堀 それでウエストンにはいつまでいたの?
坂本 ウエストンは長いですよ。2010年くらいまでかな。
大堀 サウンドとしてはタイトルは何にかかわっていたの?
坂本 アーケードで言えば『ワンダーボーイⅢ モンスター・レアー』(1988年/セガ)とセガSYSTEM16基版の『Aurail(オーライル)』(1990年/セガ)。あとは没になったタイトルをやって。それらは全部サウンドですね。一応プログラムも少しやっていましたけど、主にサウンドドライバですね。
コンシューマーはハドソンさんとの付き合いが多かったから、さっき言ったNESの『ジョーズ』もそうだし、(PCエンジンの)『あっぱれ! ゲートボール』(1988年/ハドソン)とか『パワーイレブン』(1991年/ハドソン)とか、何でもやっていたんですよ。
あとは上田和敏さん(*04)との仕事もあって『時空戦記ムー』(1991年/ハドソン)というRPGをゲームボーイで作りました。また、ハドソンさんからのご依頼でバーチャルボーイの『とびだせ! ぱにボン』(1995年/ハドソン)をサウンドだけローンチでやりましたね。
まだバーチャルボーイ本体ができていなくて、ダンボール製のものなんですよ。製品になる前だからすごく赤い光がきつくて、目が焼けるかと思うくらい。労災になりそうみたいな感じ(笑)。でも、普通の画面に出力できなかったから、のぞくしかないんだよね。それを見ながらデバッグしたりサウンドを組んだりしていました。
やがて作曲者からディレクターへと歩み始める
坂本 20代後半くらいかな。ウエストン創業者の西澤龍一さん(*05)に「坂本はいつまでサウンドやるの?」って言われたんですね。
ようするにサウンドで対価として僕が稼げる部分って決まっちゃっているわけですよ。外注でサウンドだけ受けるっていう仕事もやっていたんですけど、「それをしていてもこれ以上給料は上がらないよ」って。それが西澤さんの優しさだったと思うんですよね。
それで、「ディレクターとかプランナーみたいなことをしたらいいんじゃない?」と西澤さんに言われて、それと同時に(ウエストンの)役員になったのかな。それまでは役員じゃなくて社員だったんで。
大堀 そもそも、ウエストンは西澤さんと石塚さんが会社をハンドリングしていたから、そこに坂本さんがもう1人入ったみたいな感じ?
坂本 そうですね。それが27歳か28歳の頃かな。経営にもコミットしなくてはならなくなって。といってもやることはあまり変わらないんですけどね。自分の意識としては、初期の少ない人数の頃から会社にいるから何も変わらないんだけど、ただ数字はちゃんと見るようになりました。
それで現場の方は企画がメインで、ディレクターをやっていく感じです。だから、その辺からはサウンドはあまりやらなくなっちゃって。それが1995年頃の話かな。誰かの代わりに簡単な曲をちょっと書くくらいで、僕は作曲に時間がかかるのでサウンドをメインにしちゃうと稼げないというのが分かっていたので、仕事のメインストリームはディレクションに移っていきました。
大堀 西澤さんの温かい言葉があったから、サウンドマンからディレクターにジョブチェンジできたわけですね。
坂本 やっぱり好きだからといって1つの仕事だけしていられないのがその時の現実ですよね。会社は大きくなるし、業界に長くいて、立場も上がっていけばなおさらですよ。だから、最近気になっているのは、今の若い開発の人たち。
プログラマーなら自分のプログラムをレベルアップさせることしか眼中にない感じ。それも大事なんだけど、それだけでは行き詰まる時が来るんですよ。デザイナーはもっと深刻かな。特に、「アーティスト」と呼ばれている職種の若い子なんかはゲームに興味があまりないように見える。自分が作ったモデルがどう動くしか興味がないんだよね。それでおもしろいゲームを作れるのかなって。
でも、最近のゲーム制作は規模が巨大化してしまったんで、一人ひとりがゲーム全体を把握できなくなっているのも分かっています。だからこれからは、全体を見られるディレクターやプロデューサーを目指せるような人をもっと育てなければと考えたりしています。
インタビューを終えて
坂本さん曰く、この後に起きた業界各社の組織再編により、メインクライアントであったセガやハドソンの会社体制が変わってしまい、そのあおりを受けてウエストンも規模を縮小していくことになったそうだ。そして、坂本氏はそれまででもっとも長く勤めたウエストンを離れることとなる。
坂本氏は現在、あまた株式会社に所属して精力的に活動している。インタビュー中は終始和やかに進み、楽しく取材を終えることができた。ゲーム業界の盛衰を知る一人としてこれからも活躍されることを祈り、ここで筆を置きたいと思う。
脚注
↑01 | 現代大戦略 : 1985年にシステムソフトから発売されたPC向けウォー・シミュレーションゲーム。その後も『大戦略』シリーズとして多くの続編が発売される。 |
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↑02 | ウィザードリィ : 米サーテック社の3DダンジョンRPG。1981年にAppleⅡゲームソフトとしてシリーズ第1作が発売された。日本版は1985年にアスキーが発売。コンピューターRPGに大きな影響を与えた。 |
↑03 | 復活の薬 : スタート地点にある建物に入ると剣と一緒に入手できる。大堀所長が当時アドバイスしなければ剣だけしかもらえない仕様になるところだった。結果として遊びやすいゲームとなりヒット作になったわけで、レベルデザインの大切さがよく分かるエピソードだ。 |
↑04 | 上田和敏 : ユニバーサル時代の『Ladybug(レディバグ)』(1981年/ユニバーサル)や『Mr.Do!(ミスタードゥ)』(1982年/タイトー)、テーカンの『スターフォース』(1984年)、『ボンジャック』のほか、さまざまなメジャータイトルを手掛けてきた業界の重鎮的存在。現在はサウザンドゲームズの取締役を務める。 |
↑05 | 西澤龍一 : テーカンやユニバーサルプレイランド(UPL)などでプログラマー兼ゲームデザイナーとして活躍した後、1985年に石塚路志人氏とともにエスケープ(後のウエストン・ビット・エンタテインメント)を創立。代表作は『忍者くん 魔城の冒険』(1984年/タイトー、開発UPL)、『NOVA2001』(1983年/UPL)など。 |