『平安京エイリアン』の復刻とリメイクを手掛けた市川幹人氏に聞く 前編

  • 記事タイトル
    『平安京エイリアン』の復刻とリメイクを手掛けた市川幹人氏に聞く 前編
  • 公開日
    2018年03月05日
  • 記事番号
    261
  • ライター
    IGCCメディア編集部

1979年に東京大学理論科学グループ(TSG)が開発したゲーム『平安京エイリアン』。当初、マイコン用ゲームとして『月刊 I/O(アイオー)』に掲載されるとたちまち注目を浴び、1980年1月には電気音響からアーケードゲームとして販売を開始。当時は東大生が開発したゲームという触れ込みでマスメディアにも取り上げられ、ゲームファン、マイコンマニアの間で話題になりました。

▲石黒氏が所蔵している『平安京エイリアン』の貴重な資料

そんな懐かしの名作を今回37年ぶりに復刻させたのが、マインドウェアの代表取締役でありプロデューサーでもある市川幹人(いちかわ・みきと)氏です。2017年の10月13日よりSteam(PCゲーム・ソフトダウンロード販売プラットフォーム)にて、アーケード移植版とアレンジバージョンを収録したWindows用『平安京エイリアン』のダウンロード販売をスタートさせました。

▲貴重なオリジナル基板と家庭用ゲーム機に移植された際の販促資料(石黒氏所蔵)

この『平安京エイリアン』の復刻にあたり、ゲーム文化保存研究所は資料提供という形で協力させていただきました。今回はそれを記念して市川氏をお招きし、『平安京エイリアン』復刻の全容をお聞きしました。

前編となる本記事では、当研究所の大堀康祐所長とメンバーの石黒憲一氏とともに、『平安京エイリアン』復刻に至った経緯、そして後世に与えた影響について伺っていきます。

『平安京エイリアン』との出会い

編集部 まずは初めて『平安京エイリアン』に出会った頃のお話を伺いたいと思います。

市川 小学校低学年の頃だったと思います。その当時はゲームセンターに行けるわけもないので、(『平安京エイリアン』を)初めて遊んだのはゲームが出てから4、5年経っていたと思います。それも偶然ですが、府中に大堀さんも通っていた、ゲーム基板を売っている「タイムマシン」というゲームセンターがありました。ほとんど店主の趣味でやっていたようなところで、新作でも1カ月後には1プレイ30円になるぐらいのお店でした。そこに10円で遊べる『平安京エイリアン』があったんですよ。

▲初期の『平安京エイリアン』の思い出を語る大堀所長(左)と市川氏(右)

大堀 懐かしいですね。あそこは不思議な店でしたよね。

市川 そこで、中学1年の頃から遊んでいる同級生と、10円ずつ入れて2人同時プレイで遊んだのが最初ですね。とにかく2人同時にプレイできるというところが、とても魅力的でした。協力プレイができる初めてのゲームかもしれませんね。

大堀 協力し合って同時にゲームができるのは、本当に画期的でしたよね。

石黒 対戦したり交互にプレイをする2人プレイはあったけれど、協力プレイは初めてですね。

市川 「ギャーギャー」言いながら友達と遊びました。

大堀 「何やっているんだよー。そこ掘るなよ、逃げられないじゃん!!」なんて僕らも騒いで遊んでいましたね。

市川 子供だから2人同時に遊べるなんて「わー!」って感じですよ。盛り上がり方が、他のゲームと比べて全然違うんです。だってファミコンが出る数年も前の話ですからね。友達と一緒にゲームができるなんて「わー!」ですよ(笑)。

▲2人同時プレイによる協力プレイが可能な先を行くゲームであった(画像はオリジナルの移植版・公式サイトより引用)

編集部 なるほど、それだけ思い入れのあるゲームなんですね。

市川 ただ、そこから『平安京エイリアン』はどうでもよくなったというのも変ですが、なにしろ僕が遊んでいた頃は、ナムコの『ゼビウス』(1983年)が出ていたような時期でして、他にもいっぱい面白いゲームがあるんですよ。だからそれほど『平安京エイリアン』に執着していたわけでもないんです。

なぜ『平安京エイリアン』を復刻させることに?

市川 初めて遊んでから何年かたって、僕も1987年にMNM Software(現・マインドウェア)を起業してゲームを制作するようになりました。1988年に、当時ナムコにいらした中潟憲雄(なかがた・のりお ※1)さんと出会うんですが、中潟さんがナムコを辞めた後に勤めていた会社が国立市にあって、僕は府中市に住んでいて自転車で行ける距離にあったので、中潟さんのところによく行き来していました。同じゲームの作り手として、10歳も離れている僕のことを弟のようにかわいがっていただきましたね。

1990年頃に、中潟さんの会社がゲームボーイ版の『平安京エイリアン』を作ることになり、うちに声がかかりました。

大堀 なるほど。

市川 うちはプログラマーがたくさんいて、グラフィックをやる人はほとんどいないようなグループ(※2)だったので、プログラムだけ作ってもらえないかというオファーを中潟さんから頂いたんですよ。

ただ当時は、うちもX68000用の『Star Wars -Attack On The Death Star-(スターウォーズ アタック・オン・ザ・デス・スター)』(1991年)を作っていたり、メガドライブ用の『スラップファイトMD』(1993年)を作っていたりと、すでにいろいろ開発し始めていました。とてもじゃないけど引き受けられなくて、そのお話はお断りをしたんです。そんなふうに中潟さんと知り合って、時は流れたんですが…。


(注※1) 中潟憲雄 : ナムコ在籍時に『モトス』や『源平討魔伝』のゲームミュージックを手掛け、2002年以降はバンダイから発売された仮面ライダーシリーズのプレイステーション用ソフトでプロデューサーも務めた。現在はデジフロイド代表取締役。
(注※2) 当時、市川氏は高校生であったため法人化できなかった。

そして時代は2016年に

市川 PC-8001など昔のパソコン用ソフトで当時『月刊 I/O』に掲載されヒットした『BUG FIRE!(バグファイアー)』(1981年)というゲームがあるんですけど、それをうちのゲームシリーズで出すと決めて、2016年の年末に某ゲームニュースサイトのインタビューで「2017年の3月頃には出します」と豪語していたんですが、実はまだ出てないんです(笑)。

大堀 出てないんかい(笑)。

市川 そんな関係で、その『BUG FIRE!』の作者の方に会ってお話したんですよ。そうしたら、『BUG FIRE!』は当時『平安京エイリアン』を超えるゲームを作ろうということで開発されたと伺いました。当時の『I/O』を読んでも、確かにそう書いてあるんです。

それだったら順番としては、先に『平安京エイリアン』を作らねばなるまいという雰囲気になりました。1988年頃、中潟さんの義理のお兄さんが確か『平安京エイリアン』の原作者のお一人で、権利を持っていらっしゃるという話を聞いたのを思い出しまして、中潟さんに連絡をしたのが、ちょうど去年の今頃(2017年始め)でした。(中潟さんに)電話をしたら「いいよ」ってすぐに快諾を頂き、「企画書をちょっと書いて送ってよ」ということで企画書を書いて送りました。それで、話がまとまって開発に至ったというわけです。

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