アーケードゲームマニア必携のコントロールボックスを生み出した男! 鈴木康史氏インタビュー後編
アーケードゲームを家庭で手軽に楽しめるコントロールボックス「COMBOシリーズ」で知られるキョーワインターナショナルの代表、鈴木康史氏をお迎えして送るインタビューの後編です。
前回はコントロールボックス誕生までの道のりを聞かせていただきましたが、ビデオゲーム黎明期の話は大変興味深いものがありました。
後編となる今回は、『マイコンBASICマガジン』(以下『ベーマガ』(*01))を発行していた電波新聞社との関係や、鈴木氏がコントロールボックスに込める思いなど、キョーワインターナショナルの知られざる部分へさらに深く迫っていきます。当研究所の大堀所長が高校時代にコントロールボックスを買いに行った話も必見です。ぜひ最後までお楽しみください!
当時は電波新聞社とご近所同士のような関係
──ゲームライターの山下章さん(*02)たちとは親交が深いようですが、コントロールボックスの第1号機からの縁なんですか?
鈴木 そうですね。初めて会ったときの山下さんはまだ学生じゃなかったかな。「ライター」と書いてある名刺をもらいましたね。最初のうちは常連のお客さんの一人という感じでしたが、その後しばらくして、彼らがベントスタッフという編集プロダクションを設立してからは、かなり親しくなりました。
『ベーマガ』では、「アーケード・ゲーム・グラフィティ」という連載記事用に、うちの基板を使って撮影したようです。あとは、ベントスタッフでライターをやっていた女性に、コントロールボックスとセットにして新品の『キャプテンコマンドー』(1991年/カプコン)を買ってもらうこともありました。
──鈴木さんは当時『ベーマガ』に記事を寄稿されていましたが、電波新聞社とはかなり親しくされていたのでしょうか。
鈴木 『ラジオの製作』(*03)にも特集記事を書いてもらっていましたね。うちで販売していた組み立てキットの記事とかを書いてもらって、それから急激に電波新聞社と親しくなったんです。
──『ラジオの製作』からの付き合いで『ベーマガ』にもつながっていった感じなんですね。
鈴木 あとはうちの会社と近かったというのが一番大きな理由かもしれません。当初は東京下目黒三丁目の羅漢寺にうちの会社があったし、そこが手狭になって引っ越した先が電波新聞社のすぐ近くの塚本ビルだったんですよ。
大堀 当時は手塚一郎さん(*04)や見城こうじさん(*05)と一緒に取材させていただいた記憶がありますよ。
実は、その頃にキョーワさんへ基板を買いに行っているんです。山下さんたちがキョーワさんのコントロールボックスを使って遊んでいて、僕も欲しくなったんですね。確かその時に『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)の基板も一緒に買ったのですが、鈴木さんに「これもセットであげるよ」って『スペースインベーダー』の基板に挿すロムをごそっともらったのを覚えています(笑)
鈴木 当時はそのセットが人気ありましたからね。
大堀 インベーダーセットみたいな感じですか?
鈴木 『スペースインベーダー』が最初のシステムボードみたいなものですから。
大堀 3枚基板になっているやつですよね。
鈴木 羅漢寺の頃は、山手通りにあった駐車場の角を入ったところに(電波新聞社が)あったじゃないですか。あの道の突き当りにあったマンションに、ベニー松山さん(*06)が住んでいたんですよ。
大堀 業界内の人間の行動範囲が狭すぎる(笑) ちょうどお伺いした頃は僕が10代で、電波新聞社のライターをやっていた時期になるので36年前くらいでしょうか。懐かしいなあ。
業界一番手のコントロールボックス
──コントロールボックスは現在の「COMBO AV EX++」に至るまで、さまざまなモデルが登場しました。
鈴木 1988年に「KIC-045」を発売しました。これは完成品よりも組み立てキットの方がだいぶ売れましたね。1991年には「COMBO AV」が登場しました。これは『ストリートファイターⅡ(以下ストⅡ)』(1991年/カプコン)のブームと重なったおかげですごく売れたんですよ。もうびっくりするくらい売れましたね。これ(当時の広告を指差す)です。『ベーマガ』編集部がCOMBO AVを2台購入し、当時表紙にも掲載してもらいました。
大堀 ベージュ色っぽいモデルでしたね。
──『ストⅡ』のヒットはコントロールボックスにも影響を与えたんですね。
鈴木 そうですね。この頃は本当に人気がすごかったですよ。
大堀 僕はこの頃のコントロールボックスの印象が強く残っています。
鈴木 やはり、この頃のモデルはベストセラーでしたから。組み立てキットになっているのを大勢のお客さんが買ってくれたんですよね。当時、こういうアイテムはほかになかったですから。しばらくしてからコピー商品というか、真似したようなものが出始めましたけど。
大堀 キョーワさんのコントロールボックスが業界一番手でしたよね。
鈴木 そうです。「G・BOX」を作ったところから始まって、ベアボーンキット(*07)みたいな製品もうちが初めて出しました。昔は「シグマ」という名前のモデルもあったのですが、現在は「COMBO」シリーズだけを作っています。今、買ってくれるお客さんは昔から使ってくれている人ばかりですよ。新規で使い始めるお客さんは少ないです。そもそもアーケードゲームで遊ぼうとする人が少なくなりました。
──リピーターメインになってしまったんですね。今の若い人はアーケードゲームで遊ばないんでしょうか?
鈴木 スマートフォンの影響でしょうか。無料なら遊ぶんだけど…という人ばかりですよ。コントロールボックスのような専用品に高いお金を払ってまでアーケードの雰囲気を楽しもうとする人は少ないです。コントロールボックスにむき出しの基板を挿すのも、敬遠される理由みたいですね。基板むき出しでゲームをしていると女の子に嫌われるらしいですよ(笑)
一同 (笑)
鈴木 ファミコンのようにカセットにポン、じゃないとダメみたいですね。
脚注
↑01 | マイコンBASICマガジン : 1982年~2003年に刊行されていたパソコン雑誌。当初は読者投稿の自作ゲームプログラムをメイン記事にしていたが、市販ゲームやアーケードゲームの紹介、攻略記事の人気が高まるごとに総合ゲーム誌の色合いが強くなっていった。ここから巣立っていったプログラム投稿者やライターの中には、現在業界の中心人物となっている者も多い。 |
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↑02 | 山下章 : 編集プロダクションのスタジオベントスタッフ代表取締役、ゲームライター。『マイコンBASICマガジン』(1982年~2003年/電波新聞社)で連載していた「チャレンジ! アドベンチャー・ゲーム」で一躍人気ライターとなる |
↑03 | ラジオの製作 : 電波新聞社が1955年~1999年に発行していた月刊誌。アマチュア無線やパソコン、オーディオなど、エレクトロニクス関連の記事を総合的に扱って人気を集めていた。 |
↑04 | 手塚一郎 : ゲーム・シナリオライター。現・スタジオベントスタッフ取締役。『マイコンBASICマガジン』では、簡易ゲームブックとして遊べる「ペーパー・アドベンチャー・コーナー」などを企画し、人気を得る。 |
↑05 | 見城こうじ : ゲームディレクター。ナムコでディレクターを務めた後、ノイズ社で任天堂のカスタムロボシリーズにかかわる。若い頃はゲームライターとして『マイコンBASICマガジン』などで活躍していた。 |
↑06 | ベニー松山 : 編集プロダクションであるスタジオベントスタッフ取締役。『ウィザードリィ』(1981年/サーテック)マニアで、同作の普及に尽力する。代表作は『ウィザードリィ』をベースにした小説『隣り合わせの灰と青春』(1988年/JICC出版局)。 |
↑07 | ベアボーンキット : 一通りの部品がセットになっている組み立てキット。個別に部品を集める必要がなく、自作が初めての人でも安心して組み立てることができる |