本の街を見守ってきた老舗ゲーセンが残したもの~神保町ゲーセン「ミッキー」~前編

  • 記事タイトル
    本の街を見守ってきた老舗ゲーセンが残したもの~神保町ゲーセン「ミッキー」~前編
  • 公開日
    2019年08月16日
  • 記事番号
    1268
  • ライター
    八木 貴弘

あまたあるゲームセンター(以下、ゲーセン)の中には、異彩を放ち、プレイヤーの記憶に残るロケーションも多い。当メディアではそんなゲーセンを度々紹介してきたが、今回紹介する店舗も、東京のゲーマーたちにとって伝説にもなっている名店の1つである。

東京の中心、神保町に1982年から2013年まで店を構えていた「ミッキー」。神保町といえば、一般的に「本の街」のイメージがあるが、ゲーマーにとっては「学生のためのゲーセン街」というもう一つの顔も持つ。

6年前に惜しむらくも閉店してしまった同店であったが、今回その創設者である三木修二氏とご子息の健太郎氏にお話を伺える貴重な機会を得た。学生時代から「ミッキー」にお世話になってきた筆者と、創生期の常連だった当研究所の大堀所長が、あの店内の特殊な内装のワケや、DX大型筐体も入荷した同店の経営コンセプトなど、営業当時の素朴な疑問を解き明かしつつ、ゲーセン文化を振り返りたい。

三木商事
三木修二氏(以下、三木社長)
三木健太郎氏(以下、三木(健))

【聞き手】
ゲーム文化保存研究所
所長:大堀 康祐
ライター:八木 貴弘

照明は提灯!? 店内のベースとなったのは和風喫茶店

▲中二階の不思議な瓦の装飾

――まずお聞きしたいのが、店内に入ってすぐ目に付く瓦です。最初はどんなお店だったのか非常に興味があるのですが…。

三木社長 もともとは、江戸時代の雰囲気を出したおもしろい作りの喫茶店だったんです。照明も情緒ある行灯(あんどん)みたいなものだったんですよ。ゲーム場にするに当たっては、それらをアピールポイントにする意図はなかったんですけど…。「喫茶店をやめるから三木さん買ってくれないかな」と(前オーナーに)持ちかけられ、単純に、テーブル筐体を使った喫茶店の延長みたいな形で営業できればいいかなと考えていました。

前の店舗はいくつかの個室があったので、それをぶち抜いて、最終的に一周どこからでも回れるように改装しました。

1982年のオープン当初は店が広すぎてゲーム機体が足りませんでした。1階、中2階、2階合わせると延べ125坪ぐらいあって、その半分ぐらいは倉庫でした。当時はそんなに(多くの)ゲームも発売されていませんでしたしね。

――神保町の駅近くでそれは、贅沢な悩みでしたね。

三木社長 スペースは余っていたけど、それだけの機械を導入するのも大変だったんだよ。

――最初はどんなゲームが置かれていたのですか。

三木社長 テーブル版の『スペースインベーダー(以下、インベーダー)』(1978年/タイトー)ほぼ一色でした。ブームの後もそんなに種類があったわけではなくて、(初代の)『ストリートファイター』(1987年/カプコン)の頃にようやくいろんな種類のタイトルを置けるようになっていました。

特に覚えているのは赤いVS筐体。営業マンが「対戦ゲームをどんどんリリースしますよ!」と言ったのでたくさん購入したら、ある日突然「コンシューマーを主流にするのでアーケードは作りません!」と言い出して、専用ソフトが出なくなった。こちらは期待して2階フロアすべてに赤いVS筐体を置いたのに…。

――ちなみに何台くらい置いたのでしょうか?

三木社長 20~30台ぐらいだったかなぁ。それだけお金かけて筐体を置いていたのは、あの辺じゃウチぐらいでした。

――それは驚きです!

オープン当初から1プレイ50円へのこだわり

▲1プレイ「50円」をうたった昔の看板

――1980年代はどのようなタイトルが人気だったのでしょうか?

三木社長 1980年代当時、筐体は1台何百万の機械だったけど、オープンからプレイ料金は50円で通しました。お店の外にもお客さんの行列ができましてね。一番すごかったのは『アフターバーナーⅡ』(1987年/セガ)のダブルクレイドル筐体(*01)を入荷した時。これも1プレイ50円だから、かなりの行列でした。

このマシンは大きくて、そのままではお店に入らないので機械をバラしてから再度店内で組み立てました。ミッキーはスロープじゃなくて階段なので、重い機械もすべて手で持ち上げて入れなければならなかったんですよ。稼働に至るまで丸2日かかりました。だから新品のはずなのに、プレイできる状態のときには傷だらけで既に中古品(笑)。

▲『アフターバーナーⅡ』のダブルクレイドルタイプ(画像:セガ公式サイトより引用)ⒸSEGA

――当時は大型筐体ブームで『アフターバーナーⅡ』のほかにもすごいタイトルが入荷されていた記憶がありますが…。

三木(健) 『WECル・マン24』(1986年/コナミ)、『ギャラクシーフォースⅡ』(1988年/セガ)、『タイムクライシス』(1996年/ナムコ)とか…。

――当時私はゲーム雑誌『ゲーメスト』(1986~1999年/新声社)のライターでしたが、編集部内でも「『ギャラクシーフォースⅡ』のスーパーデラックス筐体が入荷!? しかも1プレイ50円!!」とかなり話題になりました。

三木(健) あの頃、入口の階段は木造で筺体の荷重に耐えられませんでした。大型筐体で一体化して切り離せないパーツは、バッサリ切りました。可能な限り軽くして通路ギリギリで搬入したものです。

――私は若い時に秋葉原に以前あったゲーセン「トライアミューズメントタワー」で働いていましたが、『ダライアス』(1986年/タイトー)筐体を輪切りにして入れた記憶があります。どこも同じ苦労をしていたんですね。

三木(健) 『ダライアス』は階段で入れたんですか?

――エレベーターには乗らなかったので、階段を使ってスタッフ総出で運び込みましたね。

三木(健) 今どきのゲーセンはスロープもあって、搬入が楽なところも多いでしょうけどね。

――大型筐体の話になったので伺いたいのですが、最新ゲームにもかかわらず、それでも「1プレイ50円」を貫き通したのはなぜなんでしょうか?

三木社長 1ゲーム単位で元を取ろう、ではなく、店舗全体で1日トータル、1カ月トータルでどれだけの売り上げがあれば良い、というのが私の考え方でした。いろんなオーナーさんがいると思うんですけど、この機械でどれだけ稼がなくてはいけない、ではなくて、ミッキーは人件費や家賃、光熱費などを差し引いて、1カ月で100万ぐらい残ればいいかなと。そういう勘定だったら、じゃあ「高い新作を入れられるか? 入れられないか?」となる。

でもね、「入れられない」という結果が出ても、お客さんを呼ぶには新作も入れなきゃいけない。本当はそれじゃいけないのかもしれないけど、ちゃんと計算はした上で相乗効果を狙っていました。新作はプレイするのに待ち時間がかかるから、その間に古いゲームをやってみよう、という流れですね。

三木(健) 高いゲーム機『機動戦士ガンダム エクストリームバーサス フルブースト』(2012年/バンダイナムコ)辺りまでは一貫して50円でやってきました。

「1プレイ50円」が及ぼした周囲への影響

三木社長 1プレイ50円を通していたら、周りの同業者から苦情が来ました(笑)。「こっちは100円でやっているからお客が全部ミッキーに流れる」ってね。ネットでも誹謗中傷の嵐。果てはメーカーに対して「ミッキーには新作を売らないでくれ」とまで言われる始末。2010年頃にメーカーからも「なるべく100円で営業してください」と電話が来ました。そこで初めて、超例外的に1週間ぐらい1プレイ100円で営業したことがあります

三木(健) 3日ぐらいじゃなかったっけ?

一同 (笑)

三木社長 機械を入れてもらえなくなったら困るし、メーカーとの取引もありますしね

三木(健) もう一つ例外がありました。『スパイクアウト』(1998年/セガ)。1プレイ50円でやっていたんだけど、みんな上手くなりすぎちゃって。1プレイが長いんですよ。4台連結させて稼働したんだけど、ずっと同じ人が座っちゃっていてね(笑)。

三木社長 機械の値段が高いから、安いからという理由で、プレイ料金を変えるようなことはしませんでした。

――1プレイ50円で頑張って経営しているのに、そうやってクレームが来てしまうのはやりきれないものがありますね。

三木社長 毎日のように他店舗のオーナーが偵察に来て、ウチにお客さんが列を成しているのを悔しがって見ていました。

脚注

脚注
01 ダブルクレイドル筐体 :『アフターバーナー』の筐体にはいくつか種類があり、その中でもプレイヤーが乗り込む形で、振り子のように前後左右に可動するデラックスタイプの筺体を指す。

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