『ナイトストライカー』を作った男たち 前編
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- 記事タイトル
- 『ナイトストライカー』を作った男たち 前編
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- 公開日
- 2019年09月27日
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- 記事番号
- 1759
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- ライター
- IGCCメディア編集部
海道賢仁×津森康男 ダブルインタビュー
今からちょうど30年前の1989年、タイトーからリリースされた名作シューティングゲームが『ナイトストライカー』である。セガの体感ゲームの数々が人気を博していた当時、タイトーの起死回生の一作となるはずであった同作だが一筋縄ではいかず、様々な紆余曲折ののちに生み出されたという。
ディレクターを務めた「ぱぱら快刀」こと海道賢仁氏、そしてプログラマーの一人である津森康男氏のお二人に、特徴的な大型筐体や、奥深いシステムなどは、いかにして創り出されたのか、お話を伺った。
【聞き手】
大堀康祐(ゲーム文化保存研究所 所長)
【聞き手・資料提供】
石黒憲一(ゲームセンター研究家)
これはもう、プロになるしかない
津森 これ、ぼくは見たことないですね。
海道 ぼくはあります。というか、これを書くための元の資料……最終仕様書みたいなのは、ぼくが用意しましたから。
海道 こっちの資料はヤバいですね。
津森 どこから、こんなもんが出てきたんですか(笑)。
海道 ハードの設計とかは中央研究所でやるんですけど、それを量産するための設計というのもあって、それは最終的に海老名工場でやっていたんです。なので、こういった資料は海老名で管理してたと思います。で、これを元にして拡張サービスや修理部門と情報共有していたんでしょうね。
津森 タイトーは全国にたくさんの営業所を持っていましたからね。
海道 簡単な修理とかはそれぞれの営業所が受け持って、そこで手に負えないようなものは海老名工場に運び込まれる感じでした。
――というわけで、場も暖まりましたし(笑)、さっそくインタビューのほうをはじめさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。さてお二人とも、タイトーさんへは1987年のご入社ということで間違いないでしょうか。
海道 はい、そうです。
津森 間違いないですね。
――はじめに、お二人がタイトーに入るまでのお話を伺いたいと思います。まず、海道さんからお願いできますでしょうか。
海道 ぼくはビデオゲーム自体にハマったのって、じつは結構遅いんですよ。まあ中学生ぐらいから、ちょこちょこは遊んでいたんですけど。本格的にはじめたのは高校生になってからですね。
――それは、なぜですか?
海道 うーん。すごい理由があるわけじゃなくて、他にも楽しいことがたくさんあったから……ですかね。ゲームセンターには小学生のころから、かなり入り浸ってはいたんです。でも、そのころってお金がないじゃないですか。なので、人が遊んでいるのをひたすら見て覚えて、自分では一切プレイしないのに、攻略法だけはわかってる状態で(笑)。
――すごくよくわかります(笑)。
海道 それで、ときどきサラリーマンのおっちゃんとかに「そこ、つぎミサイル来るで」とか教えてあげて、それでちょっとお小遣いもらったりとか、1クレジット譲ってもらったりとか(笑)。そういうことはやってましたね。
――中学生になってからは?
海道 中学時代は、パソコン……というか、当時はマイコンですね。それをいじるのに夢中になっていました。
――機種で言うと?
海道 NECのPC-8001が中心でしたね。あ、でも実際に自分で持っていたのはHC-20です。
――エプソンのハンドヘルドコンピュータじゃないですか!
海道 おお、わかりますか。
――あれ、めちゃいいですよね。
海道 それでプログラムを組んでは、ベーマガ(マイコンBASICマガジン)に投稿して。
――採用は?
海道 ええ、されましたよ。それでお小遣いを稼いでいましたから(笑)。『パックマン』みたいなゲームとか作ってたなぁ。ペンネームはひらがなで「きゃーろー」だったかな。HC-20自体が掲載される作品が少なかったでしたね。
――そのころ、アーケードゲームでぐっと来たタイトルはありますか?
海道 そのころだと、『Mr.Do!』(1982年/ユニバーサル)とか『エレベーターアクション』(1983年/タイトー)とか。でも、まあ相変わらずお金がないので、ゲームセンターでゲームを観察して、それをマイコンで自分なりに作る、というのをくり返していた感じですかね。
――では、もうゲームメーカーに入るのは必然だったと。
海道 そうですね。高校生のころはマイコン部に所属していて、ゲームセンターにあるようなタイプのゲームを自作して文化祭で展示して、それをみんなに遊んでもらったり。そういうことは当たり前のようにやっていましたから。純粋なビデオゲームだけじゃなくて、ロボットアームが部室にあったので、それをマイコンで制御して、コンパネも自作して、飴をすくうタイプのゲームを作ったりもしましたね。
――ご自身で作りたいものだけじゃなく、遊ぶ人に合わせたものも……。
海道 そうですね。やっぱり、何も知らずにふらっと来た人にも楽しんでほしいですし。だから、クイズゲームも作ったかな。誰でもルールを理解しなくても遊べるのはいいですよね。
――文化祭、大盛況でしたか。
海道 ええ。俺って天才だな、と(笑)。これはもうプロになるしかない(笑)。
――なぜ、ここでタイトーを選んだんですか?
海道 高校に来ていた求人が、タイトーとセガしかなかったんです。で、両方に願書を出したら、タイトーから「面接に来てください」と返事が来て。
――セガからは?
海道 何も来なかった(笑)。
――セガさんは、それで天才を逃してしまったわけですね(笑)。
海道 逃した魚は大きかった(笑)。
――そのとき、タイトーというメーカーにどういうイメージを持っていました?
海道 『ちゃっくんぽっぷ』(1984年/タイトー)とか……。ああ、そうだ。高校のとき『フェアリーランドストーリー』(1985年/タイトー)がめちゃ好きだったんですよ。すごいやり込んだなぁ。そういうこともあって、タイトーって可愛い感じのゲームを結構作っているイメージでしたね。
将来はプログラムを作るしかないだろう、と
――なるほど。では、今度は津森さんに。同じ質問になってしまうのですが、ビデオゲームとの出会いからお聞きしてもよろしいですか。
津森 自分は、もともとパソコンゲームが好きで、RPGをよく遊んでいたんですね。たとえば『ザ・ブラックオニキス』(1984年/BPS)とか『ウィザードリィ』(1981年/サーテック)とか。でもアーケードゲームは、遊ぶ機会がなかったんですよ。学校で禁止されていましたし。
――なるほど。
津森 でも中学のときの修学旅行で、たまたま遊園地に立ち寄ることがあったんです。で、そこにあったゲームコーナーで、はじめてアーケードゲームに出会って……。
――どんなゲームで遊んだんですか?
津森 コナミさんの『タイムパイロット』(1983年)ですね。それで、これはおもしろいな、と感激したんです。それで、高校生になってからは、こっそりとゲームセンターにも足を運ぶようになりました。地元にはナムコさんのお店が多かったので……デパートの屋上のナムコランドとか、それでアーケードゲームもよく遊ぶようになった感じですかね。なので、当時はナムコのゲームでばかり遊んでいたような気がします。
――その中でお気に入りは?
津森 『マッピー』(1983年/ナムコ)ですね。一番遊んでいました。おかげで、そのお店のハイスコアの一位をずっとキープしていたぐらいです(笑)。
――アーケードゲームに魅了されたあと、パソコンのゲームは……?
津森 変わらず遊んでいましたね。『ハイドライド』(1984年/T&Eソフト)とか名作が次々と発売されていましたし。これはタイトーに就職してからも同じで、特にどちらかだけ、というようなことはなかったです。
――プログラマーの津森さんですが、そのころからゲームを自分で作ろうと思っていましたか?
津森 いや、最初はそういうことは考えていなかったですね。ただRPGで遊ぶのに時間がかかるじゃないですか。で、何かいい方法はないかと。
――改造ですか!
津森 はい(笑)。で、データを見て、この辺は体力だな、とか。それで試しにいじってみて、おっ、強くなってるとか(笑)。そういうところからプログラムに興味を持ちはじめた感じですね。あとは、雑誌に掲載されているダンプのコードをひたすら入力してとか。ちょうど、持っていたのがシャープのX-1でして、20ページぐらいあるプログラムを入力して、いざスタートしてみると、なぜかカセットが回りはじめて、いやこれは絶対に違うな、と。どこが間違っているのか一生懸命探して……。という感じで、たった一ヶ所、間違っただけでゲームじゃなくなるのが何だか不思議で、それでプログラムに興味を持ちだしたというのはありましたね。
――それでご自身でゲームを作るようになった……?
津森 いや、そこまで行きませんでしたね。雑誌に載っているコードを打ち込むだけで満足しちゃってましたから。
――では、どの辺でプログラマー志望に?
津森 工業高校だったんですよ。そこでプログラミングの授業がありまして。FORTRAN(フォートラン:プログラミング言語の一つ)がメインでしたが、アセンブラも勉強していて。で、プログラムを組むこと自体は好きでしたね。学部が電子課だったのに、半田ごてとか苦手で、だからひたすらプログラムのほうを頑張ってたのかもしれないですね。そういったこともあって、将来はプログラムの道に進むべきかな、とは思っていました。
――ゲームメーカーに就職しようと考えたのは?
津森 どうせプログラムを作るなら、おもしろいほうがいいだろうということで。
――不安はありませんでしたか? これまでゲームを作ったことがないのに、いきなりゲームメーカーに就職するなんて……。
津森 あんまり深く考えていなかったですね(笑)。どのみち、将来はプログラムを作るしかないだろうと思ってましたから。どこでも一緒かな、と。
――では、そこでタイトーさんを選んだ理由は?
津森 これは、海道とまったく一緒なんですよ。セガとタイトーの二社だけが、うちの高校に求人を出していて。個人的にはずっと好きだったナムコが……なんて思ってたんですけどね。
――セガからは返事が来なかった?
津森 いえ、セガさんは工場と営業所の求人で、開発職の募集がなかったんですよ。一方、タイトーは開発もある、と書かれていたので、これはもうタイトーしかない、と(笑)。
――そのころ、タイトーさんにはどういったイメージをお持ちでしたか?
津森 タイトーはですね……うちの地元の直営のゲーセンが、どこもすごく暗くて怖くて。なので、全然いいイメージがなかった(笑)。あ、最初は、ですよ! 自分が内定をいただいた直後に出たのが、ファミコンの『たけしの挑戦状』(1986年/タイトー)で、何じゃこりゃ、と(笑)。これはヤバいところに入ってしまったかも、なんて思ったりして。でも、高校を卒業する直前に出た『ダライアス』(1986年/ダライアス)を見て、そのときの衝撃がすごくて。これはすごい会社だぞ、と思い直しました。これは間違いないと(笑)。
自由にやれたデビュー作
――さて、めでたくお二人ともタイトーさんにご就職されたわけですが。次にデビュー作について、お聞きします。海道さんは『地獄めぐり』(1988年/タイトー)ですよね。
海道 そうです。あれは、ぼくが中央研究所に勤務になったときには、すでにスタートしていたプロジェクトだったんです。作りかけのゲームがあって、どうしてもおもしろくならないから、「海道、お前これやってみろ」と、いきなり振られてゲームデザインすることになりました。すでに絵素材は結構あったので、これはなるべく使ってくれと言われたんですけど、あとはかなり自由にやらせてもらいましたね。
――いきなりで戸惑いはありませんでしたか?
海道 いえ、いいチャンスかなと思っただけですね。そのとき、すでに『冥府魔道伝』というタイトルや、坊さんが主人公で数珠をしゅしゅっと投げて敵を倒すとか、地獄をめぐるアクションゲームといった骨組みはあって。『影の伝説』(1985年/タイトー)を坊さんにしたようなゲームでしたけど、それをどう活かすのかを考えるのは結構楽しかったです。
――やっぱりおもしろくなかったんですか?
海道 はい(笑)。いろいろ考えてみたんですけど、おもしろくない理由の一つが、ただ単に数珠を投げるだけという部分にもあると思い当たったので、まずは数珠をバウンドして飛んでいく感じにしたらいけるんじゃないかと。
――結構、自由なプロジェクトだったと?
海道 完全にお任せでしたね(笑)。元の担当は藤原さんという、『ルナーク』(1990年/タイトー)とか『中華大仙』(1988年/タイトー)とかを担当した人なんですけど、わりと適当な人で(笑)。いえ、誤解があるといけないので言いますけど、藤原さんは本当にすごい人なんですよ。でも、たまに、そういった適当な部分がある(笑)。それで完全なお任せになったという。でも、そのおかげで好きにやらせてもらえましたし、よかったと思います。
――苦労なさった点はありますか?
海道 やりたいことを思いつくたびに、容量不足の壁が立ち塞がることですね。特にキャラクターまわりですね。なので、BG(背景)のここは手前の障害物に隠れてプレイヤーからは絶対に見えないという領域を見つけ出して、そこのキャラを抜いていくとか。あとはBGの一部を同じタイルを使い回して、でもそういう風に見えないように工夫したりとか。そういうことをくり返して、ちょっとずつ容量を稼いでいったりしましたね。
――『地獄めぐり』って結構むずかしかったですよね。
海道 そうですね、むずかしかったと思います。当時、あれを作っているときは、ぼくも超若くて、インカムのこともあるから「むずかしくていいんだ」と。ただそれでも理不尽なむずかしさではなく、手強いという感じを出そうとはしましたね。それに最低限、自分でプレイしてクリアできるように、と。とはいっても、やっぱり今、振り返ってみるとむずかしいですよね。
――キャラのネーミングも海道さんが?
海道 中二感、丸出しですよね(笑)。主人公の覚蓮坊(かくれんぼう)とか東仙坊(とうせんぼう)とか。そういうダジャレ、好きなんですよ。
――『地獄めぐり』のラストで、主人公が龍になりますが……。
海道 あれは、最後、本当に容量がなくて大したラスボスとの戦いができないなぁと困っていたんですね。でも、ラストでプレイヤーを驚かせたいと。閻魔大王に負けた!と思ったら、プレイヤーキャラが龍神に化けて「最後はシューティングだ!」みたいな(笑)。そんな、最終的には神々の戦いになるといった、まあ、プレイヤーをビックリさせたくて、ああいう感じになったんですね。
大堀 主人公の撃つ弾がきれいで、おおっと思ったんですけど、ゲームがかなりむずかしくてね……(笑)。
海道 反省しています(笑)。
大堀 結構、固定ファンがついていましたよね。ぼくがやろうとしたときには、すでに楽々クリアしている人たちが何人もいて、それでゲームセンターで遊びにくかった(笑)。
――PCエンジン版もありましたね。
海道 PCエンジン版は、すごくいい移植だったと思います。ぼくは関わっていなくて、いつの間にか作られていたという(笑)。
――アーケードとコンシューマの部署は完全に分かれているんですか。
海道 当時は、そうでしたね。ほぼ接点のない状態でした。『地獄めぐり』の場合もコンシューマに移植されたことを知らなかったので、出来上がったものを見て、おおっ、すげえよくできてるって結構感動しましたね。
次回予告
ゲームへの深い愛情から、ともにタイトーへとご就職なさったお二人。そこで早くも才能を開花された海道氏だが、一方の津森氏は……。次回は津森氏のデビュー作である『トップランディング』の制作秘話、そしてついに同じプロジェクトに所属し、『ナイトストライカー』の制作にとりかかることになるまでを伺っていきたい。
お知らせ
『ナイトストライカー』は、当記事でも紹介したゲームセンター「Hey」(秋葉原)で絶賛稼働中です。
秋葉原Heyについては、こちらをご覧ください。
公式Twitterでも、随時情報を発信中!
また『ナイトストライカー』の楽曲を収録したアルバム「タイトーデジタルサウンドアーカイブ ~ARCADE~ Vol.2」も発売中です。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00QSSXHVM/
そのほか、iTunesストアやSpotifyでも配信中!
特報! ナイトストライカー30周年記念商品
「インターグレイXsi ポスターver.」
「インターグレイ」カラーレジンキャストキットが、数量限定で再登場。
今回は30周年を記念した特別モデルで、ポスターをイメージカラーとしたパールブラック。特典としてパイロットフィギュアと柳瀬敬之氏描きおろしポストカードが付属。
■発売元:有限会社RCベルグ
公式Webサイト
■価格:26,000円(税抜)
■予約期間:2019年10月25日(金)~11月25日(月)
海道賢仁 氏
1969年、石川県出身。幼少のころからビデオゲームで遊ぶだけにとどまらず、ゲーム制作に没頭。高校卒業後にタイトーに入社。『地獄めぐり』でデビューしたのち、『ナイトストライカー』や『チャンピオンレスラー』、『キャメルトライ』、『ソニックブラストマン』などを開発後に退社。『ドラゴンクエスト モンスターパレード』などを手がけて今に至る。株式会社ツェナワークスに所属。
津森康男 氏
1968年、島根県出身。パソコンゲームに熱中し、RPGなどを改造するようになってプログラミングに目覚める。高校卒業後、タイトーに入社。デビュー作である『トップランディング』でプログラマーを務めたのちに『ナイトストライカー』を手がける。その後も『パズルボブル』や『プリルラ』などを経て、株式会社マトリックスへ移籍。現在はパチスロの映像制御や『ωラビリンス ライフ』にプログラマーとして参加しつつ、趣味で始めたダンスが高じてCMやショートフィルム、プロスポーツの決勝戦のオープニングアクトに出演。
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