大堀所長に聞く!ゲーム文化保存研究所のすべて
日々成長・拡大する「ゲーム文化」を研究し、その保存のための取り組みを行う組織として2016年10月に設立された「ゲーム文化保存研究所」。
今年の10月に、ゲーム文化保存研究所は設立1周年を迎えることができました。
この一年という区切りの年に、ゲーム文化保存研究所の設立趣旨そして「ゲーム文化保存」という活動について、大堀康祐所長に改めて伺いました。
ゲーム文化保存研究所設立のきっかけ
コンピューターもビデオゲームもアメリカの発明である
「ゲーム文化保存研究所」について語る前に、「ゲーム文化」とは何かについて話したい、そんな大堀所長の一言からインタビューは始まりました。
「ゲーム文化」と一言にいっても、そこにどんなものがあるのか、ピンとこない人も多いことでしょう。ゲームが世界に根付いてからまだ数十年の月日しか流れていません。まだ生まれて間もない「ゲーム文化」がどのように生まれたのかについて、大堀所長はこう語ります。
「『ゲームと言えば日本』というイメージは今だからこそ言えますが、実は、コンピューターもビデオゲームもアメリカの発明です。アメリカで誕生したコンピューターで作られるようになったビデオゲームは革新的で、発明以来、アメリカを中心に様々な国へと広まり、やがては世界的なブームとなって、産業として全世界に根付いていきました。
しかしながら、初期の頃のビデオゲームをより普及させ、多くのゲームファンを取り込みながら、そこからビジネスをグローバルなものへと進化させていき、最終的にビデオゲームを文化へと昇華させた一翼を担っていたのはまぎれもなく日本なんです。」と大堀所長。
アメリカで生まれながらも、その後日本で独自の潮流を生んでいったゲーム産業。『スペースインベーダー』や『パックマン』、『スーパーマリオブラザーズ』といった名作は、かつて日本の名クリエイターたちが生んだヒット作であり、世界中を魅了しました。
そんな日本のゲーム産業の原動力は、「何もゲームメーカーだけの力ではないと」と大堀所長は言います。
「日本のゲーム産業の原動力は、メーカーとともに、オペレーターやクリエイター、そしてゲームプレーヤー自身にもあります。その全てが三位一体となることで、ゲーム産業に多様な流れを生み出し、新しい”ゲーム文化”を形成していったのです」
大堀所長は、この「ゲーム文化」になぜ注目し、ゲーム文化保存活動という取り組みを行うようになったのか。
その経緯を紐解くため、次の章では大堀所長の人となりについて探っていきたいと思います。
いつか貢献したいという思い
1966年生まれの大堀所長は、中学時代に『スペースインベーダー』の大ブームを経験します。何でも没頭してしまう多感な中学生時代に、その後『ギャラクシアン』や『パックマン』といったアーケードゲームの名作が続々と登場する中、大堀所長はアーケードゲームの世界にどっぷりとはまっていきました。
そのうち遊ぶだけでは物足りず、高校生となった大堀所長は、まだ攻略本が定着していない時代に、自作で攻略本を作るという行動に出ました。それがファンの間で伝説となった同人誌『ゼビウス1000万点の解法』です。
一面ずつ手書きでイラストが描かれ、詳しく解説がされています。現在のゲーム攻略本の走り的な内容で、同人誌として話題となり、ミニコミ誌としては異例の1万部以上の売り上げを記録しました。大堀所長は当時のことをこう振り返ります。
「私は攻略本を作るにあたって、直接ゲームメーカーに作っていいかと問い合わせに行ったんです。意外にメーカー側はすんなりと許諾してくれました。高校生に対して版権だとかそんな細かいこと言わないで、門戸を広げてくれたことに今でも感謝していますし、先輩たちにとにかく良くしてもらったことを忘れません。」
この同人誌の大ヒットがきっかけとなり、大堀所長は本格的にゲーム業界のライターへと活動の場を広げていきます。
電波新聞社発刊の『マイコンBASICマガジン』の創刊に携わり、『マル勝ファミコン』『ファミコン必勝本』などのゲーム雑誌にてライターとして活躍する中、自分を育ててくれたゲーム業界に何らかの形で貢献していきたいという思いが膨らむようになっていったそうです。
「人生も半分折り返した時、いつかそのゲーム業界に対して、次の世代の人々に向けて、しっかりと恩返しをしていきたい、そんな風に思うようになりました」と大堀所長。そんな思いがゲーム文化保存研究所設立の一つのきっかけとなったようです。
「ゲーム文化」とは何なのか
昨今、デバイスやパソコンが進化したことによって、ゲームもそれに合わせて、プログラムを保存しエミュレーター等で動かすということが盛んに行われるようになりました。そんな時代の流れに、大堀所長は、「ゲームは単なるプログラムの再現だけで良いなのか」という疑問を持つようになりました。
「今は技術が発達し、(エミュレーターでレトロゲームを動かす)現在の手段が良いか悪いかは別にしても、ゲームプログラム自身は保存し残せるようになりました。しかし、ゲームの保存って単純にプログラムを残すことだけではないんですよね。
ゲームが登場した時代背景、ゲーム制作者がどういう意図でそれを作ったのか、その制作手法など、物事を全体でつかみ、しっかりと残していくことが大切なんです。」と大堀所長。
その思いが、「ゲーム文化をしっかりと残すべきである」というゲーム文化保存研究所の理念へとつながっていきます。
「時代の流れ」もゲーム文化の一つ
「僕がアーケードゲームにはまりだした当時は、ゲームはゲームセンターに行かないと遊べない時代でした。そんな時代のゲームセンターは、子供たちにとって社交場であり、ゲームについての情報交換の場でもありました。
一方でゲームセンターは不良のたまり場だから行くなと親に禁止された世代でもありました。僕ら「ゲーム小僧」は、駄菓子屋の前に置いてあった一世代前のゲームで遊ぶしかなかったんですよね。
しかし、今のゲームセンターのイメージと言ったら 『プリクラ』や『クレーンゲーム』を遊びに行く場であり、女の子同士も家族同士でも行けるオープンな場所となりました。
ゲームも家庭用ゲーム機が出ることで、家で遊ぶようになり、どんどんゲーム市場も進化をしてきました。そういった時代的背景も、残さなきゃいけない「ゲーム文化」だと思うんですよ。」
今でこそ、ファミコン等の登場で家庭にゲームが入り込むようになり、ゲーム市場はゲームセンターから家庭へと市場を広げ、ゲームの形態も様変わりしてきました。そんな時代の潮流は、ゲームの売り手や買い手、そして遊び手にも大きな影響を与えます。
「たとえば初期の頃のゲームセンターのゲームで言えば、当時の買い手はゲームセンターの経営者でした。そのため、ゲームメーカーは自社のゲームを売り込むために、ゲームを解説するインストラクションカードやチラシ等を作っていました。こういうゲームに付帯するもの全てが、ゲーム文化を形成するために必要なものだったと考えています。
昨今はインフラの進化のおかげでゲームもダウンロードできるようになり、その入手方法も大きく変わりました。前述の通り、プログラムは残せるようになってきていますが、初期の頃のゲームセンターの時代やその後のファミコンゲームの頃の流通に関する話はどんどん風化し始めています。
現在のゲームメーカーの買い手もゲームセンターの経営者から我々のようなエンドユーザーに取って代わりました。そこからしてゲームの売り方も大きく変化しているわけです。このような買い手の変化もゲーム文化に影響を与えた要因の一つであり、ゲーム文化を考える上でなくてはならないものととらえています。」
ゲームをとりまく時代の流れ、そして、過去のゲームは実際にどのように売られていたのか、ディストリビューターがどういう環境でどういう営業をしていたのかということも「ゲーム文化」の一つであり、それらの情報をしっかりと残していかなければならないと大堀所長。そのような思いがゲーム文化保存活動の根源となっているようです。
ゲーム文化保存最初活動である「ゲーム博物館」
大堀所長は、日に日にゲーム文化を残していきたいという思いが膨らんでいく中、ひとつの解として「ゲーム博物館」の開設に参画しました。
「ゲーム博物館」は1992年に初めて浅草で開設されました。ファミコン通信編集部のライターであり、アーケードゲーム基板のコレクターでもあった渋谷洋一氏を中心に、他の方からもゲームの協力を経て、『パックマン』『スパースインベーダー』などの80年台のアーケードゲームの基板から近年の基板まで800枚・筐体60台で展開。子供時代のなつかしさと相まって、たくさんの30~50代のゲーマーたちが訪れたということです。
のちに「ゲーム博物館」は移転することになるのですが、その折には大堀所長とゲーム文化保存研究所設立メンバーの一人である「キバンゲリオン」こと石黒憲一氏が開店と運営に参画いたしました。
残念ながら1993年に閉館しましたが、ゲーム文化保存活動は、この「ゲーム博物館」開設によってより具現化していくことになります。