餅月あんこのゲーセンに行きたい!
第62回 ゲヱセン上野さんにゲームの話を聞きたい!(前編)
プログラマーだったり編集者だったりゲームライターだったり作曲家だったり、でおなじみのゲヱセン上野さんですが、今回はゲーム雑誌編集者時代のお話を中心に、主にゲームのお話を聞かせていただきました!
プログラマーさんから、ライター&編集者と作曲の3足のわらじ!
―― ゲーム文化保存研究所では、市原雄亮さんのコラムで、もう音楽のお話はいろいろすごくうかがってるのですが……!
参考URL:イチハラ指揮者の“カレー”なる日々 ゲヱセン上野さんに「オホーツクに消ゆ」のインタビューをするんダーッ!!!
前編、中編、後編
ゲヱセン上野さん(以下『ゲ』) そうそう、根掘り葉掘り、いい感じにほじくり返されました(笑)。「今回の市原さんのインタビューが、生涯最初で最後のインタビューになるのでは!?」と思って、かなり細かくお答えしましたな。
―― やっぱり市原さんが音楽家でいらっしゃるから、ゲヱセンさんの音楽の話をすごく詳しく聞いて書かれてたので、さすが、という感じだったんですけど、今日のインタビューはですね、そもそも私は子どものファミ通読者だったので、ゲヱセンさんはファミ通の編集者さんだと思ってまして。なので、編集者さんとかゲームライターさんとしての面をお聞きできればうれしいです。
ゲ 了解です。市原さんの記事にも書かれていますが、アスキー(当時)の雑誌「ログイン」のプログラマー募集に応募してアルバイトで入ったんですけど、気づいたらライターになってた……みたいな感じなんですよ。
―― そうだったんですねえ。そもそも読者的には『オホーツクに消ゆ』とか、いつも読んでる雑誌の編集者さんたちがゲームを作ってる? しかも音楽も作ってる? というのも謎だったんですよ。
ゲ あんこちゃんが私を誌面で見た頃(ファミ通が1986年に創刊して間もない頃)は、プログラマーというよりもライターのほうがメインになっていたかもですね。
―― ログインから、ファミ通が創刊するときに異動になったんですか?
ゲ 元々ファミ通って、ログインの中にあったファミコンソフト紹介のページで、塩崎さん(東府屋ファミ坊こと塩崎剛三さん)と店長(水野店長こと水野震治さん)と私の3人で細々とやってた記事だったんですよ。
―― そうだったんですか! へ~!
ゲ で、その連載ページが独立して、ファミコン通信(現在の「週刊ファミ通」)というひとつの雑誌になったんですね。
―― なるほど~。じゃあ、その頃には、もうけっこう編集・ライター業がメインだったんですね。ゲヱセンさんがプログラマーさんだったりとか、作曲家さんだったりとか、編集者さんとか、ライターさんとか……昔から何かいろいろなことをされてるイメージで、その割合とかも謎なんですよね、ずっと(笑)。プロジェクトごとに……っていう感じでしょうか。
ゲ それはねえ、自分でも謎なんですよねー。依頼を受けたら断れないというか、お金のためなら何でもしましたな、犯罪以外は。
―― 最初は編集さん、ライターさんのイメージが強かったんですが、けっこうゲーム制作にも参加されてますよね。
ゲ そうですね。『オホーツクに消ゆ』を作って(PC-6001版、MSX版ではメインプログラマー、1987年発売のおなじみのファミコン版では音楽を担当)、その後『いただきストリート ~私のお店によってって~』(ファミコン・1991年発売)でも音楽を作ったりしていますね。塩崎さんがディレクションをしていたので、そのつながりで参加した感じですな。
―― なるほど~。
ゲ その時期はライターもやりつつ、曲もやりつつ、みたいに、同時進行でやっていました。
―― いつも読んでるファミ通の人たちが作ってる! って感じで、読者的には不思議でうれしい感じでした。どちらも「べーしっ君」の荒井清和先生の絵で、「何かファミ通の人たちがゲーム作ってて、しかもおもしろい!」みたいな感じで。
ゲ なるほど~。読者さんから見るとどんな感じなのか、あまり意識してなかったんですけど、そんなふうに思われていたのですな。
―― 知ってる人が作ってるみたいなうれしさはありましたよ!
「ゲヱセン」さんという名前!
―― そもそも編集部の中でもゲーセンにすごく行ってる人だからゲヱセンさんって名前になったのかと思ったんですけど、塩崎さんにつけられたんですね!(市原さんのインタビュー前編より)
ゲ ゲヱセンって名前は、たぶんね、自分からつける人はあまりいないと思うんですよねー。頭悪そうだし(笑)。
―― そんなことないですよ!(笑) でも、たしかにファミ通編集部に入ったばっかりの人って、先輩に勝手に名前をつけられたりしてる人多いなと。
ゲ そう、勝手につけられちゃう(笑)。ログインの初期の編集・ライターの人は自分でつけてたかもしれないけど、その後は、つけられた人が多いんじゃないかなあ……。
―― 何かいろんな人の話を聞いてると、最初けっこう軽い感じで適当につけられて、そのままずっと活動してる人もすごくいますよね。
ゲ ネーミングの由来は何かあるんだけど、わりとその場のノリで適当なペンネームつけられてましたよね(笑)。苗字が鈴木さんだから、スズキのクルマの名前つけられたりとかね。
―― アルトさん! そういうことだったんですか! ゲヱセンさんの「ヱ」の字が旧字体なのはご自分でされたと。
ゲ そうです、「ゲーセン」だと普通すぎるので、「ヱ」だけ変えました。
―― なるほど、すごくゲーセン通いをされてたとか、他の編集者さんより特にアーケードゲームが好きだったとか。
ゲ 人並にゲーセンは行ってましたけど、「すごく」というほどでもないかも。ログイン編集部で仕事を始める少し前、ナムコから『ディグダグ』や『ゼビウス』『マッピー』などのユニークなゲームがたくさん出てきた時期だったので、よくやってました。ナムコのゲームの曲や音色が好きだったんですよ。
―― ナムコで音楽を作られていた大野木宜幸さんのこと、最近ツイートされてましたね。
ゲ そう! 大野木さんの曲、いいよねー。とくに『リブルラブル』『メトロクロス』あたりは大好きなんですよ。当時のナムコのゲームはグラフィックもきれいでかわいいし、サウンドも華やかだし、ポップで垢抜けてる感じがあったんですよねー。
―― そうだったんですね。ではゲーセンでは主にナムコのゲームをよくプレイされてたんですね……いやそれにしてもゲヱセンってすごい名前ですね!
ゲ そうそう、つけないですよね、普通。というか逆に、ログイン編集者に普通の人がいなかったのかもしれませんけどね(笑)。ちなみに、ナムコ大好きっ子だったんですけど、それ以外のゲームももちろん遊んでましたよ。
―― なるほど! Wikiの何かの項目に、ゲヱセンさんが名乗ったことにより「ゲーセン」っていう略称が定着したみたいな記述を見かけたんですが、その頃は「ゲーセン」っていう略称って使ってる人はいたんですか?
ゲ 全国的に山ほどいましたよ。というか、ゲームセンターが「ゲーセン」と呼ばれていなければ、ゲヱセンというペンネームをつけられることもなかったと思います。ビートルズがいなければ、ずうとるびもいなかった……みたいな。
―― (爆笑)
ゲ 佐藤栄作がいなければ佐藤B作もいないし、舘ひろしがいなければ猫ひろしもいないんですよ、わかってくださいよ。
―― 腹筋痛いんで、たたみかけるのやめてください!
子どもの頃に触れたゲーム
―― 初めて遊んだビデオゲームは何歳ぐらいで、何だったんでしょうか?
ゲ 初めてのビデオゲームは、そうですねえ……。ファミコンが登場するよりも前に、家庭用のテレビにつなげて遊べるゲーム機があったんです。エポック社の『テレビテニス』(1975年発売)とか、任天堂の『カラーテレビゲーム15』(1977年発売)とか。ファミコンのようにROMカセットが替えられないんですよね。
―― へ~、こんなゲーム機があったんですね。
ゲ そうそう。あと、『テレビゲーム15』の下位機種の『テレビゲーム6』っていうのもありましたな。
―― それって6種類とか15種類のゲームが入ってるっていうことですよね。
ゲ 15種類のゲームは入ってるんですけど、どれもだいたい一緒(笑)。
―― あ、ゲームの内容が似てるんですね。
ゲ 基本的にはテニスゲームで左右にラケットが出るんだけど、その間に邪魔な杭みたいなのがあったりなかったりとか、ラケットの数や大きさが違うとか、そういうバージョン違いの合計が15種類みたいな感じ(笑)。それでも、『カラーテレビゲーム15』って、定価で15,000円したんですよ。子どもにとってはけっこうなお値段で買えないので、お店に行って店頭で遊んでましたね。昔、東武東上線の成増駅の近くに緑屋っていう大きめの量販店があって、プレイアブルな状態で展示されていたので、そこで遊んでたような気がしますな。ただ、2人いないと遊べないんですよ。
―― え、1人用モードはないんですか。
ゲ 左右のパドルを回して操作するので、2人いないと遊べないの。だから、友だちや弟と一緒に行くか、1人でパドルを2個操作して2人分がんぱるか……。でも、2人分がんばっても全然おもしろくないです(笑)。
―― へええ、その頃はゲヱセンさんは小学生とか中学生くらいですか?
ゲ そのくらいですね。まだ、ゲームセンターはそんなにたくさんなかったんじゃないかな。『スペースインベーダー』や『バックマン』などのブームでゲームセンターが爆発的に増える前の話ですからね。喫茶店なんかにもゲーム機が置かれていたけど、小中学生だと入りにくいし。なので、初めてビデオゲームで遊んだのは緑屋でウッボー(きまり)。
―― ウッドボール!!
ゲ 『スペースインベーダー』が流行っても、中学生には1プレイ100円って高価だからバンバン投入できないし、そもそも当時の中学校では「ゲームセンターは不良のたまり場だから行っちゃダメ」みたいな決まりもあったので、行けなかったっていうのもありましたね。それに、吹奏楽部の部活も忙しかったし。
―― あぁ~、そうなんですね。
ゲ 駄菓子屋の店頭や、学校の前の文房具屋さんに50円で遊べる『ブロック崩し』とか『テレビテニス』が置いてあったので、たまに遊んだかな。堂々とゲームセンターに行くようになったのは高校生になってからですね。そういえばその頃、やんちゃな人たちが電子ライターの火花をゲーム機のコイン投入口に当てて、タダでゲームする技を編み出してましたけど、見つかると店の人にすんげえ怒られてましたな(笑)。ちなみにゲーム機が改良されたので、その技はすぐに封じられました。
―― そんな技が…! ダメな生活の知恵、スゴイですね。何でそんなこと思いつくんだ……。ゲヱセンさんの高校は、もう校則でゲームセンター禁止とかはなかったんですね。
ゲ 大丈夫でしたね。大泉学園にでかいゲーセンがあって、学校が終わったあと友だちとよく遊びに行ってました。で、高校時代の1981年~83年頃に、さっき話したようなナムコのゲームが出てきたわけです。『ニューラリーX』『ディグダグ』『ゼビウス』『マッピー』『リブルラブル』といった、今までなかったような新感覚のゲームが続々と。
次回、後編に続きます!