元「ベーマガ」スタッフが大集結!
「ALL ABOUT マイコンBASICマガジンIII」会場レポート

  • 記事タイトル
    元「ベーマガ」スタッフが大集結!
    「ALL ABOUT マイコンBASICマガジンIII」会場レポート
  • 公開日
    2024年06月07日
  • 記事番号
    11347
  • ライター
    鴫原盛之

かつて、電波新聞社が1982~2003年に発行していたマイコン専門誌「ベーマガ」こと「マイコンBASICマガジン」の元編集長、大橋太郎氏をはじめ、元編集者やライターが一堂に会し、当時の思い出を語るトークイベント「ALL ABOUT マイコンBASICマガジンIII」が、5月18日に大田区民ホール・アプリコ(東京都大田区)で開催されました。

会場には1300人を超える元読者が駆け付け、開場直後から物販コーナーには長蛇の列ができ、閉演後も出演者たちにサインを求めるファンが次々とステージ付近に押し寄せ、終日大盛況となりました。

以下、本稿では「実録マイコンソフト」「令和に復活! 人気連載リバイバル」「編集部×ベーマガライターズメモリアルトーク」の3部に分けて開催された本イベントの内容と、当日に初めて公開されたサプライズ情報も含めて、一挙まとめてお伝えします!
   

   

   

第1部:元開発スタッフから驚きの証言が飛び出した「実録マイコンソフト」

第1部は、マイコンソフトウェア開発室課長でもあった大橋太郎氏のほか、電波新聞社で販売していたPC用ゲームソフトの元開発スタッフである藤岡忠(なにわ)、土田康司(X68000版『ファンタジーゾーン』ディレクター)、古代祐三(YK-2)、永田英哉(Yu-You)の4氏が登壇。MCは本誌のカリスマライター、山下章氏が担当しました。

今となっては驚きですが、大橋氏は当初、ゲームのことはまったく知らなかったので、当時の副社長から「ゲームを作れ」と言われても、しばらくの間は「とぼけていた」そうです。やがて開発室課長となった大橋氏が、いざPC用に『ゼビウス』を移植するにあたり、最初に困ったのは、社内に全16エリアをクリアできる人がいなかったことでした。

そこで、当時まだ高校生だった、IGCCの所長でもある大堀康祐(うる星あんず)氏をスカウトしたうえで開発を進めたほか、当時は中学生だった松島徹氏が投稿したPC-6001版『ゼビウス』のプログラムに衝撃を受けたこと、および後に『タイニーゼビウス』として商品化したところ、あっという間に売り切れた思い出などを語っていました(※大堀氏のくわしいエピソードは後述します)。

また藤岡氏は『ゼビウス』の移植、開発にあたり、権利元のナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)からなかなか発売オーケーの返事がもらえず必死になって作り直したこと、X68000版には複数の隠しメッセージが表示される裏技を入れたと証言。同じく、X68000版の『ドラゴンスピリット』では、縦画面表示ができる機能を入れたところ「縦置きしたら、ディスプレイが壊れる」と、シャープから怒られてしまったエピソードなどを披露しました。

※なお余談ですが、筆者も学生時代にX68000で『ドラゴンスピリット』などをプレイ中に、ディスプレイをよく縦置きで使っていたため壊してしまった苦い思い出があります……。
   

土田氏は、主にアーケードゲームを移植したX68000用ソフトの開発中のエピソードを語りました。X68000版の『源平討魔伝』では、キャラクターボイスをマスターテープから収録したことで元祖アーケード版よりも高音質になりましたが、唯一、源義経の「殺してしんぜよう」のボイスだけはクリアな音質のあまり違和感があったため、アーケード版と同じボイスを使用したことを初めて明かしました。

X68000版の『ボスコニアン』は、元々ラインナップには入っていなかったのに、プログラマーの松島氏が、同じくX68000版『アフターバーナーII』を開発している真っ最中に独断で作ったとの驚きの証言が。『ボスコニアン』は、発売決定後に「このまま売るわけにはいかないから」と思った土田氏が、グラフィックをパワーアップさせるとともに、BGMを入れようと考えて古代、永田両氏にサウンド制作を依頼したそうです。

古代氏は、高校時代にPC-8801mkIISRで作成したミュージックテープを編集部に持ち込んでデモンストレーションを行い、あまりのクオリティの高さに編集スタッフを驚愕させたエピソードの持ち主。

同氏はX68000版『ボスコニアン』のBGM「FLASH FLASH FLASH」は、自身が当時得意としていたタイプの曲で、わずか5、6時間ほどで作り上げたそうで、同じく「BLAST POWER」と名付けたBGMは、チョッパーベースをFM音源で鳴らしたいためだけに作ったもので、ナムコの有名コンポーザー、細江慎治氏や中潟憲雄氏にインスパイアされてもいたと証言しました。

永田氏は、X68000用ソフトで最初にサウンド制作を手掛けた『スペースハリアー』で、当初はPCMでドラムを鳴らしたかったが却下されたものの、『ボスコニアン』で初めて実装できたとのこと。PCMでドラムを鳴らすためのドライバーは、当時親しくしていた日本ファルコムの倉田佳彦氏に制作してもらったという、こちらも驚きの証言が飛び出しました。
   

第2部:「令和に復活! 人気連載リバイバル」

第2部は、「移植テクニックマスター大作戦」と「うる星あんずが全16エリアを実演! ゼビウス大解析~1000万点を目ざして」の2コーナーに分けて行われました。

「移植テクニックマスター大作戦」では、本誌のプロフラム記事を当時担当していた断空我氏がMCを務め、同じく「移植テクニックマスター大作戦」の記事を執筆した経験を持つプログラマーの森巧尚氏と谷裕紀彦(Bug太郎)両氏も出演しました。

森氏は、かつて本誌にプログラムリストが掲載された、自身で開発したPC-8001用アクションゲーム『BREAK FAST』を壇上に用意された実機でプレイするとともに、BASICで大きなキャラクターを高速で動かすためのテクニックなどを解説。さらに、本作をMSXに移植する際に、文字で描かれたキャラクターをスプライトに変換する方法を説明する、まさに「リアル移植テクニックマスター大作戦」を実演しました。

断空我氏は、自ら持ち込んだThe C64を壇上で起動し、BASICで文字列を簡単に変換、処理ができるプログラムテクニックを、実際に打ち込みながら解説しました。

谷裕紀彦(Bug太郎)氏は、本誌に掲載された自作のPC-8001用シューティングゲーム『GIVERS』を紹介するとともに、この日のために何と約35年ぶり(!)に作った本作の続編『GIVERS2』も披露しました。

実機で『GIVERS2』のプログラムを走らせたうえで谷氏がプレイすると、自機がレーザー状の派手なショットを放ったり、巨大なボスキャラが動いたりするなど、古いPC上で動いているとはにわかに信じがたい光景が映し出され、場内から大きな歓声が沸き上がりました。

筆者も、かつては本コーナーなどの記事を読んでプログラムの勉強をしていましたが、その記事を書いていた先輩方の、いまだ衰え知らずのプログラミング技術にはたいへん感激しました。

現在のゲーム制作ではUnityやUnreal Engineなど、異なるメーカーのPC上でも動作するゲームエンジンが使われていますが、当時は同じBASICでも機種によって仕様が異なるため、ただ同じプログラムリストを打ち込んだだけでは動作しないのは、ごく当たり前のこと。そんな懐かしい思い出がよみがえる、実に楽しい企画でした。
   

「うる星あんずが全16エリアを実演! ゼビウス大解析~1000万点を目ざして」のステージには、まさにゲームライターの「第一世代」にあたる、IGCCの所長でもある大堀康祐(うる星あんず)をはじめ、鈴木宏治(見城こうじ)、池田雅行(響あきら)、手塚一郎の4氏が出演しました。

大堀氏は、高校時代に往年の名作アーケードゲーム『ゼビウス』の攻略法が詳細に書かれた同人誌「ゼビウス1000万点への解法」を制作して一躍有名になり、それを知った大橋氏が、大堀氏を学校の近くで何度も待ち伏せしては説得を繰り返し、本誌ライターとなった経緯があります。

池田氏は、本誌のライター募集に応募したことで、鈴木、手塚両氏は「スーパーソフトマガジン」(※「マイコンBASICマガジン」の別冊付録)に大堀氏の同人誌が紹介されているのを見て、自分たちが書いた同人誌も紹介してほしいからと、それぞれ編集部に足を運んだことがきっかけで、電波新聞社でのライターの仕事が始まったそうです。

大堀氏は、ステージ上に用意された『ゼビウス』をプレイし、見事に全16エリアをクリアする腕を披露しました。プレイ中は、本コーナーでMCを担当した池田氏や手塚氏も本作の1000万点達成者ということもあり、3名で攻略のポイントや当時のプレイヤー間でのエピソードなどを的確に解説していました。
   

第3部:「編集部×ベーマガライターズメモリアルトーク」

第3部では、大橋氏をはじめとする歴代の編集者、ライター陣が一堂に会し、それぞれの担当コーナーについての思い出話などが披露されました。

最初に登場したのは大橋氏、及川健(編さん)氏、増田克善(影さん)氏、南雲津久美(つぐ美さん)の4氏。

大橋氏は「『ラジオの製作』の部数が、『I/O』や『アスキー』などの他誌に抜かれて悔しいなあと思っていました。今、マイコンがはやっているし、小・中学生も読めるマイコン雑誌は、まだどこにも存在しないし、ゲームをテーマにした投稿雑誌にしたらどうかと、薄い付録を作ってテスト販売したらあっという間に売れました」と、本誌が創刊されたきっかけを証言しました。

及川氏は創刊当時、読者から送られてきた封筒を開封するのが日々の仕事だったそうです。カセットテープにプログラムをセーブして送った読者の中には、「北酒場」などのカラオケテープを利用して送ってきた人もいたのだとか。また、本誌に掲載するプログラムリストの切り貼り作業を間違えたことに気付かないまま発行される失敗が何度かあったとも明かしました。

増田氏は、本誌に掲載されたプログラムを打ち込んだ読者から「動かない」との電話が掛かってきても、口頭ではなかなか解決しなかったこと、電話が多いと仕事に手が回らなくなるなどの苦労があったことを振り返っていました。また「影さん」として原稿を書く際は、 オチを考えるのが毎回すごく難しく、下ネタを書いては後々の校正で直され続けた裏話も披露しました。

誌面では「影さん」などのギャグに「ばこーん。」とツッコミを入れる役としておなじみだった「つぐ美」のモデルとなった南雲氏は、入社当時は読者のプログラム投稿の封筒を開封し、機種別に分ける仕事を担当していたそうです。なお南雲氏によると「『つぐ美』はキャラクターなので、さまざまなおもしろいことをしています」と、あくまで本誌の中にだけ存在するキャラクターであるとのことでした。
   

読者投稿プログラムに対するコメントを掲載していた「チェッカー・フラグ」を振り返るコーナーに登場したのは、本コーナーを担当していた断空我、くりひろし、中村伸彦(PANDA)の3氏。

断空我氏によると、掲載するゲームプログラムを選ぶ基準としては、まず実行させてみておもしろいことを挙げ、たとえバグがあっても「チェッカー・フラグ」でその旨を補足しつつ、アイデア重視で採用するかどうかを決めていたそうです。

ポケコンのプログラムをチェックしていた中村氏は、ポケコンの投稿数がそもそも少なく、掲載するには内容的に微妙なものであってもストックしておき、後々ネタが少なくなったときに掲載していたとの苦労があったとのこと。

くり氏は原稿執筆時に、文中に登場する各スタッフのセリフを書く際には、それぞれのキャラクター色が出るようにしたところ、後々マンガを書く際にも役立ったと証言しました。ちなみに、くり氏が描いていた「パソコン・レクチャー」のコーナーは、現在も「電子工作マガジン」で連載が続いています。

続けて登壇した斉藤久典氏が本誌で仕事を始めたきっかけは、編集部に電話を掛けた後に手紙でスカウトされ、イラストを持参して出掛けたところ、くり氏の後継者を探していた大橋編集長が、その絵を見て採用を即決したことだったそうです。

斉藤氏は、ある時に本誌の表紙イラストの制作が遅れ、年末年始で本社ビルに入れず困った際に大橋氏に相談したところ、近所のマイコンショップでPCを数日間使わせてもらうアイデアを提案され、何と店内で描いたという驚きのエピソードを語っていました。また大橋氏によると、本誌の表紙などに描かれていた「ベーマガ坊や」の作者は、くり氏でも斉藤氏でもなく、かつて著名な漫画家が多数いたことで有名な「トキワ荘」に住んでいた経験を持つ、同社のデザイン部にいた社員が描いたそうです。
   

「スーパーソフトマガジン」のコーナーでは、大堀氏はデビュー当時、執筆に必要な時間が足りなかったときに、同氏が話した内容を大橋氏が聞き取ったうえで、口述筆記で原稿を仕上げてもらった思い出話を語りました。

大堀氏は、最初に執筆を依頼された『ゼビウス』の掲載を遅らせたのは、当時「ゼビウス1000万点への解法」の販売を田尻智氏に委託していたこともあり、その義理を果たすとともに、「先に最新作である『マッピー』の記事を書いたほうが読者も喜ぶと思います」と、大橋氏を説得したからであると説明しました。

「スーパーソフトマガジン」が登場したのと同じ頃、電波新聞社に原稿を持ち込んだ山下氏は、「チャレンジ・アドベンチャーゲーム」の連載をスタート。なるべく多くの画面写真を載せるのがコンセプトのコーナーでしたが、一部のメーカーからは重要な画面写真をシールで隠すように指示されたケースがあったことを証言していました。

また、本誌の連載記事「山下章のレスキュー! アドベンチャーゲーム」は大橋編集長の発案によって生まれたもので、最初の頃は「デゼニランド」の質問が書かれたハガキが大量に送られてきたとの証言もありました。
   

続けて登壇した見城氏、山下信行(やんま)氏、宮崎良太氏は、いずれも全国各地のゲームセンターを介して、各種アーケードゲームの全国ナンバーワンプレイヤーを発表する「チャレンジ! ハイスコア」コーナーを担当していました。

大堀氏によると、本コーナーを作ったきっかけは、当時はゲームを遊んだだけで不良と言われる時代にあって、雑誌を通じてゲームが好きな人がたくさんいることを世の中に伝えたい、ゲームを通じて友だちがほしかったからとのこと。

大堀氏の「全47都道府県にハイスコア集計をするゲーセンが1軒でもあれば、そこにゲーム好き同士が集まって友だち、ひいてはコミュニティができるのではないか」との構想を大橋氏が販売部に相談したところ、社内であっという間にハイスコア掲載用の大きなホワイトボードが制作され、各地の集計店に送付したことで本コーナーが誕生したそうです。

見城氏は、大堀氏が抜けた後に本コーナーを担当するライターが久しく不在だったことから、その仕事を引き継いだそうです。執筆にあたり見城氏は、誌面に備考欄を設けたり、全国1位スコアの獲得者に「★マーク」を付与したりするなど、より読者が楽しめるようにいろいろと工夫していたことを説明しました。

やんま氏は、PC新宿店にほぼ毎日通ってスコアラーとの交流があった経験を生かし、本コーナーでのバトルを通じ「みんなを褒めたい、称えてあげたい」との思いから、最初のページで全国1位の名前を大きく掲載するようレイアウトを変えたことを証言しました。

宮崎氏によると、同氏が本コーナーを担当していた当時は対戦格闘ゲームの大ブーム期で、タイトルによってはキャラクター別にハイスコアを集計していたこともあり、掲載枠も参加プレイヤーの数も増えたのだそうです。ちなみに同氏によると、このブームによってスコアラーが減るのかと思いきや、実は対戦プレイを経てスコアラーになった人もかなりいたというのですから驚きですね。
   

歴代のナムコ作品の紹介、および攻略記事を載せた本として、あまりにも有名な「ALL ABOUT namco」のコーナーには手塚氏、池田氏、見城氏が登場しました。

池田氏によると、本書ではタイトルごとの担当ライターは「早い者勝ちで決めた」そうです。なお同氏が執筆を任された『ジービー』と『キューティーQ』については、その構成上、攻略のネタがなかったことから、ゲーム内に登場する各種フィーチャーを解説する形で記事を書いたとのことでした。

見城氏は『トイポップ』を執筆するにあたり、当初は何と60ページを希望したところ「多過ぎる」と編集者から言われたため、大好きなゲームだったのに泣く泣く36ページにまとめて書いた思い出話を語りました。

加えて見城氏は、後に入社したナムコで、自身が企画した『エメラルディア』では、ネームレジスト画面でいくつかのとある言葉を入力すると、自動で特定の言葉に変換され、中にはベーマガ関連のネタが表示される裏技を仕込んでいたことも明かしました。

『ドルアーガの塔』や『ドラゴンバスター』などの記事を担当した手塚氏は、本書が「ナムコさんでも公式な資料として使っていただけるようになり、とても良い思い出になった」そうです。
   

「ゲームミュージックプログラム」のコーナーでは、古代氏は大好きだった『スペースハリアー』のBGMをPC-8801mkIISRでプログラムするにあたり、当初は自分でゲーセンに通いながら耳コピーで作っていたそうです。ところが後日、セガに出掛けた際に作曲者のHiro師匠に聞かせたところ「全然違うよ」と言われたため、ゲーセンで録音したBGMをきちんと採譜したうえでプログラムを作り直し、誌面に掲載した思い出を語りました。

また古代氏は、壇上に用意された2台のPC-8801mkIISRに打ち込んだ、かつて自身が組んで本誌に掲載した『沙羅曼蛇』のBGMプログラムを、実機で実行するパフォーマンスを披露しました。

このプログラムは、何と演奏チャンネルを2台に振り分けることで、BGMの全チャンネルが演奏できるようにした大作ですが、実際に試すことができた読者はほとんどいないと思われます。
   

「読者の闘技場」コーナーを担当していたベニー松山(TOMMY)氏は、自分の考え付かないネタを次々と投稿してくる読者たちのおかげで自身が鍛えられたことで、『ウィザードリィ』を題材にした小説「隣り合わせの灰と青春」の執筆時に大いに役立ったのだとか。なお、同書の執筆が決まったきっかけは、「チャレンジ! AVG&RPG III」に「いつか小説を書いてみたい」と書いたところ、編集者の目に留まったことだったと明かしていました。

ベーマガ後期にライターをしていた、まかべひろし氏は、当時の本誌ではプログラムと教育に注力しており、プログラムコーナーの執筆とともに、及川氏と各地の小中学校に訪問していたとのこと。そのおかげで、現在の専門学校でのプログラミング講師の仕事につながったのだそうです。

イベント当日はカメラマンも務めていた倉元一浩氏は、ベーマガ時代は取材先で突然声を掛けられ、声優と一緒にいきなりCDデビューを果たしたのが一番の思い出とのこと。また南泰人氏は『スカイキッド』の(紙焼きの)マップ写真をつなぐ仕事をしていたら途中で曲がっていたり、編集部内でヌンチャクを振り回したりして怒られた思い出を語りました。
   

予定を約1時間も延長し、大いに盛り上がった本イベント。エンディングの場面では、各出演者が大橋氏に感謝の言葉を述べて花束を贈呈し、続けて山下氏の音頭で、来場者全員で「大橋編集長、ありがとうございました!」とお礼の言葉を唱和しました。

本イベントのサブタイトルには「大橋編集長 電波新聞社勇退記念SP」とあるように、大橋氏はすでに同社を勇退されていますが、御年75歳となった今でも「遊態好奇高励者」と名乗り、電波新聞のコラムなどで引き続き健筆を振るっています。

大橋氏は「1等賞になる雑誌を作ろうと思って、今まで頑張ってきました。電波新聞社の基本方針は、日本のデジタル産業を世界一にすることと、次の世代を育てること。まだまだやりたいことがいっぱいありますし、皆さんが頑張れば私も頑張れます。日本の科学、電子立国の再生が私の目標です。どうぞ応援してください」と挨拶し、本イベントを締めくくりました。
   

「マイコン世代」大歓喜! サプライズ発表3連発

本イベントでは上記のトークに加え、本邦初公開となる驚きの情報が明かされました。
   

(1:「PasocomMini PC-8801mkIISR」発売決定!)

往年の名ホビーパソコン、PC-8801mkIISRを復刻した「PasocomMini PC-8801mkIISR」が、電波新聞社から発売されることが決定しました。

本機は当初、ハル研究所の前社長である三津原敏氏が開発を手掛け、同社から発売が予定されていましたが、三津原氏が退社したことを受け、電波新聞社に引き継ぐ形で発売が実現しました。

本機のくわしい続報は「88」にちなんで、今年の8月8日に発表されるとのこと。当日が今から待ち遠しいですね。
   

   
(2:「チャレンジ!! AVG&RPG」シリーズが復刻!)

ベーマガの名物コーナー「チャレンジ・アドベンチャーゲーム」から生まれた、名著の復刻が決定しました。

発売時期や価格など、詳細は明かされませんでしたが、山下氏によると復刻版も当時と同じ版型で制作されることがすでに決定しているとのこと。果たして、1985年発行の「チャレンジ!! パソコン・アドベンチャー・ゲーム」から、1990年発行の「チャレンジ!! パソコンAVG&RPG V」にいたるまで、すべてのシリーズが復刻されるかどうか、こちらも要注目です。

名著の復刻がついに実現! 写真右は、1986年に発行された「チャレンジ!! パソコンAVG&RPG」(出典:スタジオベントスタッフのホームページ「山下章Works」)

   
(3:「クラシックゲーム ワールドミュージアム」サイトを開設!)

山下氏のコレクションをベースに構築した、黎明期に登場した家庭用ゲーム機の情報サイト「クラシックゲーム ワールドミュージアム」が公開されました。

本サイトは「ワールドミュージアム」の名を冠していることもあり、海外版のゲーム機の写真や解説も豊富に掲載されています。特に、ゲームメディアがまだ一般的ではなかった時代に、各社から発売されたゲーム機の情報が豊富に掲載されているのが素晴らしいですね。

・参考リンク:「クラシックゲーム ワールドミュージアム」
https://classicgameworldmuseum.com/

   

(参考リンク)
・「ALL ABOUT マイコンBASICマガジンIII」
https://basicmagazine.wixsite.com/aabm2024

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