高橋由紀夫氏インタビュー 中編

  • 記事タイトル
    高橋由紀夫氏インタビュー 中編
  • 公開日
    2021年10月15日
  • 記事番号
    6188
  • ライター
    IGCCメディア編集部

ハムスターの「アーケードアーカイブス」にて『源平討魔伝』がリリースされることを受けて掲載スタートとなった、高橋由紀夫氏のインタビュー。
前回は、ご幼少の頃から『バラデューク』までのお話をお伺いしました。
今回は『メトロクロス』、そして『源平討魔伝』について根掘り葉掘り聞いていきます。
 
【聞き手】
大堀康祐(ゲーム文化保存研究所 所長)
石黒憲一(娯楽産業研究家)

休む暇もなく

―― さて、次の作品についてですが……『メトロクロス』(1985年/ナムコ)にも関わっていらっしゃいますよね。

高橋 マップをいくつか作った……ぐらいですね。

―― どういう経緯でマップを作ることになったのでしょうか。

高橋 ゲームを作っている最中はものすごく忙しいんですね。でも一作仕上げると、ちょっと時間ができる。一か月ぐらいゆっくりしてたりするんですけど、そういうときに「暇ならマップ作ってよ」と言われて手伝う……とか、そういう感じですかね。

―― となると、高橋さんが関わったタイトルというのは、世の中に知られているもの以外にもたくさんあるかもしれないわけですね。

高橋 そうなりますね。ただ、本当にちょっとだけ手伝うという感じですよ。マップをちょっと作ったりとか。だから、どのタイトルだったのかも覚えてない(笑)。そもそも作ったものが採用されたのか、あるいはアレンジされて使われているのか、そういうこともわかりませんからね。

『メトロクロス』のインストラクションカード (石黒憲一氏提供)

―― ぼくの中では高橋さんはアーケードゲームのクリエイターというイメージが強いのですが、ナムコに在籍中、コンシューマゲームに携わらなかったのでしょうか?

高橋 そうですね。コンシューマのチームを憎んでましたから(笑)。

―― え、憎んでいたんですか!?

高橋 我々が作ってヒットしたアーケードゲームを、彼らはファミコンなどに移植して売れてボーナスをもらうんですよ?(笑) 我々のほうには回ってこないし、ひどいじゃないですか(笑)。

石黒 販売本数がアーケード基板と比べてコンシューマは桁が違いますからね。

―― じゃあ、俺もコンシューマーゲームを作るぜ! とはならなかったんですか?

高橋 それは完全に部署が違うので。それに、そういうのってまず最初に遠藤さんが文句を言うんですよ(笑)。

大堀 ここでも遠藤さん!(笑)

高橋 それでもどうにもならなかったので、これは仕方がないんだな、とあきらめました(笑)。
  

遠藤雅伸さんからのコメント
覚えてないけど、多分高橋くんが考える前に遠藤は噛みついていただろうからwwこれはこれで。
結果的に、ファミコンの『ゼビウス』も『ドルアーガ』も「遠藤さんが作ったんですよね」と後々言われるようになるので、作者としても名誉だけは作ってもいない作品で担保された感じになってる。

「源平プロ」設立

―― さて、そうしてその後、『源平討魔伝』(1986年/ナムコ)の開発に取り掛かることになると思うのですが……。「源平プロ」を結成するに至った理由というのは、自分たちが仕事をしやすいスタッフでチームを作りたいということからだと先ほどお伺いしました。同じ「源平プロ」の大久保さんも中潟さんも、そういった方向性を重視し、共有していたわけですか?

高橋 まあ、そうだったと思うんですけど……中潟くんは……野望の人なんで(笑)。それに引っ張られた部分もあったかな。

―― もっとおもしろいことをやっていこうぜ! 的な野望、ですか?

高橋 そんなかっこいいもんじゃなくて(笑)。中潟くんは将来独立して一攫千金! みたいなことを夢見ていたようで(笑)。

大堀 ほんとの野望だ!(笑)

高橋 資本はナムコに出してもらって、みたいな(笑)。

―― つまり、世間に名を売って、独立の足掛かりになるようなヒット作を作ってやる! みたいな感じだったわけですね。

高橋 まあ、そうですね。そもそもの方向性がそんな感じだったので、辞める辞めるとしょっちゅう言ってた大久保も、「それならやるか」みたいな感じで乗って来て。「じゃあ、これをやってから辞める」と(笑)。

―― そんなお二人に対して、高橋さんはどんな感じだったんですか?

高橋 私はおもしろそうだからやるか、みたいな感じだったと思いますね。

―― 正規のチームではないことから、チーム結成当初は勤務時間外に作業していた、というようなことがいろいろなところで語られていますが……。

高橋 ええ、そうですね。

―― そういう働きかたというのは、ご負担にはならなかったんですか?

高橋 今じゃあ、とてもできないですね。当時は……若かったからなぁ。というか、ゲーム会社というのは、こういうものだ、と勝手に思ってた部分はありましたね。もちろん、ナムコでも全員がそうだったわけじゃないですよ。たとえば『ドラゴンバスター』でご一緒した佐藤さんは、忙しいときは残業はしますけど、普段はきちんと仕事を終わらせて定時に帰って会社に泊まったりしない。でも、中には、もうドロドロの人たちもいて……。

大堀 ドロドロですか(笑)。

石黒 寝袋を持ってきて……といった感じですか?

高橋 そうですね。あとは……机と机の間に挟まって寝る(笑)。

『源平討魔伝』吊り下げタイプのPOP(石黒憲一氏提供)

―― あと『源平プロ』といえば、穴田さん(穴田悟氏。『源平討魔伝』で美術を担当)がいらっしゃいますが。穴田さんは別の部署にいたところを引き抜いたと聞きますが……。

高橋 そうそう、中潟くんが引っ張ってきたんですよ。まあ、穴田さんはナムコでは結構有名な人で……すごく精力的に動く人なんですよ。幕末の志士というか……「お前の言うことは日本を滅ぼす!」といって斬りかかってきそうな雰囲気で(笑)。

(一同爆笑)

高橋 顔が浅黒くてテカテカで、目がぎらぎらしてて。髪の毛はつんつん立ってるし。一目見て、この人は常人ではない、ってそんな雰囲気だったんですよ。

―― 中潟さんも、よく声をかけましたね。

高橋 当時、凄い怖いとある係長がいて、そのかたと穴田さんが些細なことで言い合いになって、「五時になったら、(会社の)門のところで待ってるから、必ず来やがれ!」と言い放ったりして。あの怖い係長に、あんなこと言える人が世の中にいるのかと、とにかくビックリですよ(笑)。

―― 結局、穴田さんや係長は会社の門のところへは行ったんですか?

高橋 いや、どちらも当然行かないでしょ(笑)。そこはお互い社会人ですし。

―― 美術の腕だけじゃなく、そういう上司に対して物怖じしないところを買って、中潟さんは穴田さんに声をかけたんでしょうか?

高橋 そういう部分もあると思いますよ。攻撃力の高い用心棒みたいな。

大堀 攻撃力(笑)。

―― そうやって仲間が集まってきたわけですが……今でこそ「源平プロ」と呼ばれていますが、『源平討魔伝』の開発が開始するまでは、どのような呼ばれかたをしていたんでしょうか?

高橋 作るゲームが決まるまでは「社長室預かり」みたいな扱われかたをしていて、当然チーム名なんかありませんでしたよ。でも、そうしているうちにとある偉いかたに、「そろそろチーム名を決めたほうがいいよ」とアドバイスをいただいて、その頃ちょうど「源平」を題材にしたゲームを作ろうという方向性が定まったので、「じゃあ源平チームって名乗ることにしようか」と。そんな感じでしたね。

―― 正式なチームとして会社にゴーサインをもらう前に、自分たちであれこれ試作してみるということは、珍しかったんですか?

高橋 いえ、割とよくある話ですね。新しいハードができると、あんなことができるんじゃないかとか、いろいろ試しているうちにゲームっぽい形になってきて、それを上司に「こんなのできたんですけど」って持って行って、おもしろくなりそうだからと正式なプロジェクトとして認可されるのは珍しいケースではありませんね。

大きなキャラを動かしたい

―― 『源平討魔伝』も、いろいろ試作をしていたとのことですが、どういった方向性からスタートした企画だったんですか?

高橋 SYSTEM 86という基板があって、これは大きなオブジェクトが出せる。だったら、これまでのビデオゲームではなかった、巨大なキャラが動きまわるものを作ってみよう、と。それでオブジェクト同士を点で結んで、いわゆるマリオネットのようなものですね、そんな感じで巨大なキャラを表現しようと。

―― それは高橋さんのデビュー作である『ドラゴンバスター』のドラゴンの表現方法をもう一歩前へ進めた感じですね。

高橋 そうですね、そういう感じです。で、じゃあこのデカいキャラで何をするのか……それで見つけてきたのが「源平」というネタだったわけです。

『源平討魔伝』

―― ここで少し話が戻ってしまうのですが……。『源平討魔伝』よりも前に、高橋さんが大久保さんや中潟さんらと一緒に集まって作ろうとしていたゲームがありましたよね。

高橋 ああ、『ステラニアン』ですね。あれは開発に配属されてすぐに新人研修でゲームを作ることになって、それで何とか形にしようとしていた作品です。普通に遊べるぐらいにはなってましたね。これは最初、7階で作ってました。

―― 遠藤さんのいる7階!

高橋 最初は『モトス』(1985年にナムコからリリースされたものとは別)ってタイトルだったのかな。五人の開発者たちのイニシャルをひとつずつ取って。

―― それを引き継ぐような形で開発に加わって『ステラニアン』になったと……。

石黒 『モトス』はファミコンで最初開発していた、なんて噂もありますが。

高橋 いや、『マッピー』(1983年/ナムコ)の基板で作ってた研修用の作品だったので、ファミコンではないと思いますね。

大堀 ぼく、昔、遠藤さんから似たようなお話を聞いたことがあって。『モトス』は最初、MSXだったかな、とにかくパソコンで似たような作品を作っていて、それをアーケードにしたって話だったような記憶があるんですよ。

高橋 ああ、MSXか。それはあるかもしれないですね。私はその開発現場に最初から最後までずっといたわけじゃないのでわからない部分もありますけど。ファミコン版が元になっていたというのは……『グロブダー』(1984年/ナムコ)じゃないかな。あれは最初、ファミコンの基板で作ってたような気がするなぁ。

―― 貴重な証言ですね。

高橋 いや、全部、私の記憶が正しいとも限らないので。あのあたりは全部7階で作ってまして、私はそんなに7階には行かなかったんですよ。遠藤さんがおっかないので(笑)。
  

遠藤雅伸さんからのコメント
『グロブダー』は『スーパーパックマン』の基板かな。
ファミコン版から先にできたゲームなど当時はなかったです。
7階で作ってたから、高橋くんはよく知らなかった、が正解かな。

石黒 『ステラニアン』は対戦をメインに据えた、いわゆる『ブロック崩し』で。着眼点が非常に新鮮ですよね。

―― ゲーム関連のショウとか、ロケテストでちょっとだけ遊んだ記憶があります。よく覚えてないのですが、操作がジョイスティックだったような……。高橋さんは、このタイトルではどのあたりをご担当なさったんですか?

高橋 私は、そんな深く関わってたわけじゃないんですよ。敵のベシーのドット絵を打ったりとか……それぐらいかな。あとはステージ構成というのかな。これはみんなでステージを作って、こういうのはどうだろうとか、そういったことはしましたね。

―― 敵の「ベシー」というのは、なかなか個性的なネーミングですが。

高橋 私の一年後輩に阿部(阿部信彦氏。のちに『アサルト』や『フェリオス』などの美術も担当)という男がいて、彼はみんなから「阿部氏(あべし)」と呼ばれていたので、それで……。

大堀 後輩から名前を取ったんですか!

高橋 阿部は私たち先輩には甘えてくるんですけど、自分より下の者には厳しくて、それでちょっと懲らしめてやろうと悪役にして(笑)。

大堀 ひどい!(笑)

―― その阿部さんというのは、のちに『源平討魔伝』で美術を担当する立派な同志になるんですよね。

高橋 そうですね(笑)。

―― なぜ『ステラニアン』は没になってしまったんですか?

高橋 うーん。どうしてでしょうね(笑)。いろいろ忘れてるなぁ。「ベシー」なんて30年ぶりに聞きましたし(笑)。
  

■『源平討魔伝』聖地巡礼 その2

光用寺
https://goo.gl/maps/aKHGRecZ9ssytwuCA

大阪市は淀川区、新大阪駅からさほど離れていない場所に光用寺という大変古いお寺がある。
珍しいサツキが咲くとのことで、江戸時代には「さつき寺」と呼ばれ、多くの参拝客で賑わったのだとか。
本堂の裏には悪七兵衛景清、すなわち『源平討魔伝』の主人公・平景清のお墓がある。
(撮影:IGCCメディア編集部)

正式に『源平討魔伝』の開発がスタート

―― では、『源平討魔伝』に話を戻させてください。巨大なキャラを動かすゲームを、というところからスタートして、なぜ「源平」という題材にたどり着いたのでしょう。

高橋 一番最初に思ったのは、敵は妖怪がいいかな、というところだったと思います。おどろおどろしいというか。そこから、敵勢力をもうちょっと具体的にしようとしたんですけど、わかりやすいのはやっぱり善と悪の戦いだろう、と。そういうときに穴田さんが……。

大堀 穴田さん出た!(笑)

高橋 穴田さんが「高橋さん! 景清っていうのがすごくカッコいいんだよ!」って言ってきて。それで話を聞くうちに、これはおもしろいということになって。

―― それはいつ頃のお話なんでしょう。開発コードをもらって、予算が下りてからそういったことが決まったんですか?

高橋 いや、タイトルそのものが決まったのは、結構前でしたよ。巨大なキャラがぐりぐり動いているだけのデモしかできてなかったんですけど、タイトルが決まってると見栄えがするよね、ということで。なので正式にプロジェクトがスタートする前には、すでに「源平」の名前はつけられていたと思います。まあ、ものすごくデカいキャラが動いているそのインパクトだけでも、きっと上からゴーサインをもらえると思ってましたけどね(笑)。

■『源平討魔伝』聖地巡礼 その3

景清社
https://goo.gl/maps/T5Z4JdAJyh9KciDSA

名古屋市は熱田区、こじんまりとした神社がある。
ここは平景清を祭神とする景清社。
景清は平家没落後、縁あってこの熱田の地に隠れ住んでいたと言われている。
この景清社を訪れた折には、ぜひ熱田神宮への参拝を勧める。
熱田神宮には、景清が所持していた癬丸(あざまる)という太刀が奉納されている。
(撮影:IGCCメディア編集部)

―― 高橋さんは主に美術でご活躍なさったわけですが、あれほどキャラが巨大になると、これまでとは作業量も段違いに多くなったんじゃないかと思いますが。

高橋 とにかく絵の量は膨大でしたね。ナムコがグラフィックのアルバイトを雇ったのは、『源平』が最初なんじゃないかな……。ちょうどその頃、社内で非常に優秀なグラフィックツールを作ってくれたかたがいて……確か長松さんだったかな。開発室にPCを並べて、それでアルバイトの人たちにドット絵を描きまくってもらったんです。

―― あの頃、使っていたPCは確かソニーのSMC-777ですよね?

高橋 そうですそうです。

大堀 だとすると、黒須さん(黒須一雄氏。『ボスコニアン』や『リブルラブル』のプログラマー)が作ったツールの改造版かな。

高橋 ああ、そうかもしれませんね。いろんな人の要望を聞いて、いくつも機能を加えてもらったものだと思います。

―― 『源平』について続けますが……『源平』といえば、やはり3つの異なるゲームモードがあることが特徴のひとつとして挙げられると思います。この辺のアイデアは、いつぐらいに採用されたのでしょうか。

高橋 やっぱりね、キャラがデカいと見栄えはするんですけど、プレイヤーの作戦性が薄いというんですかね、そればっかりだと大味な感じになってしまうんですよ。なので、他のモードもあったほうがいいんじゃないか、と。

―― ゲームのモードが違うとグラフィックも流用ができず、作業量が膨大になってしまうと思うのですが……。

高橋 だからドット絵のアルバイトを雇ったんですよ(笑)。

―― 外部からグラフィッカーを連れてきて、いきなり要求されるクオリティのデータを上げてくれるものなんでしょうか?

高橋 これがね……全然ダメでね(笑)。

大堀 それじゃあダメじゃないですか!(笑)

高橋 上がってきたデータの半分ぐらいはまったくダメで……。さっき言った阿部くんが……。

―― ベシーの阿部さんですか!

高橋 可愛い女の子のグラフィックのアルバイトがいて、阿部くんが付きっきりで指導したんだけど、一か月の成果が鳥居の絵ひとつだけだった(笑)。

(一同爆笑)

―― 阿部さん、いい味出してますね。

高橋 阿部くんは最初はナムコの社員じゃなかったんですよ。どこかの銀行員だったのかな。その銀行を辞めてナムコに来て、バイト頭を経て社員に昇格した。

―― 苦労人なんですね。

高橋 よく「源平の祟り」なんて言うじゃないですか。それを一番受けたのが阿部くんだったんじゃないかな(笑)。

―― 高橋さんは大丈夫だったんですか?

高橋 私は……墓場の前でタクシーに幅寄せされてバイクでこけた。中潟くんは車で交差点で横っ腹に突っ込まれ、大久保さんはバイクで前方のトラックに急停車されてスライディングとか。そんなのが一ヶ月くらいの間に。

―― 阿部さんは、もっとすごかったんですか?

高橋 阿部氏は、鎌倉の磯で景清と頼朝が戦うビデオを撮ったときに、足の小指をちょっと怪我したらしいんですね。それを放っておいたら、ものすごく腫れ上がって、医者に行ったら「もう少し悪化したら足の指を何本か切断しなくちゃならなかったですよ」とまで言われたほどで。それだけじゃなく、走行中にタイヤがはずれたり、高熱で寝込んだりは日常茶飯事で……。でも、今、考えてみるとあれは「源平」の呪いじゃなくて、彼に冷たくされた後輩たちの呪いなんじゃないかとも思えてくるんですよね(笑)。

国芳, 古賀屋勝五郎 『「壇浦戦之図」』(MFA_Boston所蔵)
「ARC浮世絵ポータルデータベース」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/arc_nishikie-MFA_11_27031)

開発後期の修羅場

―― 物量が多いこともあって、スケジュール的にはかなり厳しかったと想像できるのですが、当初想定していたものには仕上がったという感じでしょうか。

高橋 正直に言えば、もうこれ以上は無理というか。これ以上続いたらヤバイという感じでしたよね。当時は一年かけてダメなら、これ以上やったところでダメだろう、という考えかたが主流だったのに、『源平』は一年半以上、かかってしまった。

―― 早く発売するように、と上司から言われるようなことは……。

高橋 ずっと言われ続けていましたよ。それでリリースを急いだからなのか、出したばかりのロムにバグが発見されて、全部ロムを焼き直すことになってしまったんですね。でも工場の人たちに「残業なんかできない!」とストライキを起こされてしまって。結局、私たち3人で手作業でロムを焼くことになって徹夜しましたね……。

石黒 『源平』は初期と後期ではマップのつながりなどが変わっていたんですけど、これはバグを修正したということなんでしょうか?

高橋 バグは確かにあって、それを直しました。ただ……その対応したのは、当然プログラマーの大久保なんですけど、彼はバグを直すだけじゃなく、どうせならもうちょっとマップのつながりを変えようとか、マップを変えてみようとか、いろいろやってましたね。

石黒 じゃあ、よりいいものにしようとした結果なんですね。

高橋 そうですね。阿部くんの作ったステージが難しすぎるから、もうちょっと簡単にしようとか(笑)。

石黒 ロケテストのバージョンでは、一番最初の「地獄」に穴があって、いきなり頼朝が出てきて……(笑)。船から落ちないようにして渡っていかないとクリアできなくて、何でこんな難しいんだって思いましたね。

高橋 あれはデバッグ用のワープゾーンがそのまま残されていたんじゃないかな。

―― ロケテストも大変だったんですね。

高橋 ロケテストは乗り気じゃなかった……というか、それに対応している時間が惜しかった、というのが正直なところですね。

―― それはゲーム開発だけじゃなく、たとえばプロモーションビデオを撮影するなど、他にもやらなければならないことがあったからでしょうか。

高橋 そうですね。

―― 当時、ゲームのプロモーションビデオというのは非常に珍しかったと思うのですが、なぜああいったものを作ることになったのですか?

高橋 あれも中潟くんの野望の一環。会社のお金で映像もやりたい、と(笑)。

―― プロモーションビデオを撮影していた時期というのは、いつ頃なんでしょう。ゲームはほぼ完成していたとか……。

高橋 いや、まだ半分ぐらいできたかどうか、ぐらいかな。

―― では、かなりお忙しい時期ですね。

高橋 というか、中潟くんは音楽担当だから、そんなにゲーム作りのほうには深く関係はしていないんですよ。だからチャンスとばかりに、やりたいことをいろいろやっていたんじゃないかと思います(笑)。

「ナムコ・ゲーム・ミュージック VOL.1」のLPジャケット(石黒憲一氏提供)

石黒 ナムコは『リブルラブル』ぐらいの頃から、ゲームセンターで放映するためのゲームの解説ビデオを作っていました。そういったものを集めてビクターからビデオを発売したりしたんですけど、『源平』はちゃんとコスプレしてプロモーションという部分を強く押し出している点で異色だったと思います。

―― 『源平』の特徴的な部分というと他にもあって、ネームレジスト、いわゆる名前入力で、プレイヤーの入力したひらがなの名前が漢字に変換されるとか、あるいはゲーム中でも様々なところで漢字が使われていて、それだけで雰囲気が高まっていると思います。あの漢字のフォントというのは、独自で制作されたものなんでしょうか。

高橋 あれは、どうしたんだったかな。たぶん、アルバイトのグラフィッカーの誰かに漢字一覧表を渡して、このフォントを作って、といって頼んだんだと思います。その元になる漢字表を作るのは、私も手伝ったような記憶があります。五十音をどの漢字に当てはめたらいいのか、何人かからアイデアを募って最後にそれを取捨選択したのは、たぶん私だったんじゃないかな。あ、そうそう。「なむこ」が「名無子」となるのは、最初から念頭にありましたね。

―― いろいろご苦労があった割に、名前を入力する時間が非常に短い印象があります。

高橋 ああ、確かにかなり短いですよね。すみません(笑)。

―― ネームレジストについて、もうひとつ気になっている点があって。名前入力が終わるときらりと光るんですけど、特定の名前を入れると、そのときの輝きが大きくなるんです。

高橋 ああ、そういうのはあるかもしれませんね。たとえば、どんな名前だと?

―― まりこ、とか……。

高橋 ああああっ!(笑)

大堀 何か心当たりがあるんですか?

高橋 それは中潟くんの奥さんの名前ですね(笑)。

石黒 いい話だ(笑)。

『源平討魔伝』のネームレジスト。「まりこ」と入力すると通常よりも大きな輝きが表示される。

―― だとすると、他にもそういった女性の名前が設定されている可能性も……。

高橋 当時、阿部氏が密かに想いを寄せていた女性の名前も、きっと入ってると思いますよ(笑)。

業界の健全化も兼ねて、当時、愛媛県は松山三越の屋上で行われたゲーム大会の告知ちらし。現在は屋上にプレイランドはなく、フットサルパークとなっている (石黒憲一氏提供)

  

中編は、ここまで。
次回の後編は『源平討魔伝』のお話のつづきと、それ以降のご活躍について語っていただきます。
ご期待ください。

高橋由紀夫氏 プロフィール

1958年8月18日生まれ。
ナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)にて『バラデューク』や『源平討魔伝』などの開発に携わったのちに独立。
『いただきストリート』(SFC)、『THE推理』シリーズ(PS~PS2)、『THE鑑識官』シリーズ(PS~PS2)などの他、推理ものゲームのシナリオやパズルなど多数の作品を手がける。
アオキゲームスでシナリオ執筆に従事(ただし、現在はコロナで休止中)。
お仕事のご依頼はアオキゲームスまで。

ⒸBANDAI NAMCO Entertainment Inc.

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