北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー

  • 記事タイトル
    北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー
  • 公開日
    2023年07月14日
  • 記事番号
    9864
  • ライター
    藤井昌樹

第一回・荒木聡さん(元ゲーム同人誌作家)Vol.3

北海道在住のゲーマーの皆さんにお話を伺う新企画「北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー」。
第1回は、1984年から87年にかけて「札幌南無児村青年団」、「HAM」というサークルの代表としてビデオゲーム同人誌を発行されていた荒木聡さんへのインタビューをお届けしています。
今回のVol.3では、1985年から86年初頭にかけて制作された同人誌について、お話を伺いました。
なお、荒木さんはインタビュー(2022年11月)の終了後、2022年12月にご病気のため急逝されました。ご冥福をお祈りすると共に、本記事が荒木さんの貴重なオーラル・ヒストリーを後世に残す一助となればと思います。

1984~87年にかけて「札幌南無児村青年団」「HAM」の代表として同人誌を制作されていた荒木聡氏

「NG」に掲載された「おーるらうんど」1号

――  『ドルアーガの塔』(ナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)/1984年)の攻略同人誌「THE WAY TO SAVE KI」制作のあと、年が明けて1985年3月に「おーるらうんど」2号が発行されます。

荒木 2号の頃は『ドラゴンバスター』(ナムコ/1985年)が稼働していたので、もうドルアーガを掘り下げるのはいいかみたいな状況でしたね。

――  注目すべきは『ドラゴンバスター』という感じだったと。2号についての大きなトピックとしては、「おーるらうんど」1号がナムコ発行の情報誌「NG」8号に掲載されて、その後に出された本という位置付けになります。その影響について伺う前に、そもそも「NG」に掲載された経緯をお聞きしたいのですが、当時の「NG」は全国で発行されているゲーム同人誌をピックアップして紹介することを毎号行なっていたのでしょうか?

荒木 そうですね。そういった流れがあって、「おーるらうんど」も掲載されました。

――  南無児村青年団の側から掲載を依頼したわけではなく?

荒木 まずナムコ札幌事業所の側から、頑張って作った本だし、読むとおもしろい内容だから「NG」に掲載してもらったらどうだいと提案があったと思います。わたしたちの方から「NG」に載せてもらおうとは思っていなかったです。

――  それで実際に送ってみたら、見事に表紙の写真付きで掲載されたと。

荒木 そうです。「NG」での同人誌紹介コーナーを担当されていたのが北野卓郎さんという方でした。

――  「NG」への掲載は、やはり嬉しかったですか?

荒木 そうですね。自分たちが攻略と違うことを楽しんでいることを広く印象付けることになりました。だから、これはやったぞというのが率直な思いでした。

――  1号から評価されたみたいなことですものね。

荒木 このスタイルで自分たちは続けていけるという自信になりました。

――  「NG」に載ったことによる反響というのはありましたか?

荒木 直後に大きな反響はありませんでしたが、後々少しずつ増えていきました。号数を重ねるごとにバックナンバーも読みたいという要望があったりもしましたね。

――  それは日本各地から?

荒木 ありました。

――  当時だと、そういった要望が手紙で来るわけですか?

荒木 手紙です。その対応を一緒に「おーるらうんど」を作っていた雑識童子が一生懸命やっていたんです。

――  反響は九州からもありましたか?

荒木 九州からも「NG」に掲載された記事を読んで連絡がありました。九州から要望があったときは、飛び上がって喜びましたね。「NG」掲載直後ではなくて「NG」8号をバックナンバーで読んでの連絡だったので、少し時間が経ってからの話です。いちばん注目を集めたのは大阪でした。それは「キャロット・ネットワーク」による繋がりがあったからですね。元々、南無児村青年団と交流がありました。

――  「キャロット・ネットワーク」は大阪でのナムコ情報誌ですが、そこを経由して「おーるらうんど」を知る人がいたわけですね。

荒木 大阪の方でも、攻略を主眼に置かないところが新しくて、他の同人誌では見られない内容であることに注目してくれました。そういう意味では「変わった本を作る変わった人たち」という捉えられ方をしていたかもしれません。

バラエティ度が増した「おーるらうんど」2号

1985年3月25日に発行された「おーるらうんど」2号

――  「おーるらうんど」2号の中身について、お聞きしていきます。いきなり「食生活」特集というのに驚かされます。

荒木 これはもう、ただただやりたかった特集です。当時は、メンバーがみんな食いしん坊でしたからね。ゲーマーも人間なので、飯は食うよなと。「NG」でも各地の街についての特集があって、それぞれの地域の名物を紹介していたんですよ。それと同じことをやりたいなというのはあったと思います。

「おーるらうんど」2号の巻頭特集はゲーマーの食生活について。当時の札幌市内にあったゲーセン内や近隣で食事できる飲食物のレポートも書かれている

――  当時はゲーセンに行って小腹が空いたら、自分も軽食を食べたりジュースを飲んだりしながらゲームを遊んでいました。「おーるらうんど」2号でも書かれていますが、「ゲームスタジオDo」というゲーセンの下のフロアにロッテリアがあったので、バーガーセットを食べながらゲームをプレイするということはよくありましたね。わたしが今、運営しているWiki「札幌・小樽・苫小牧のゲーセンリスト」でも、ゲーセンの思い出についての投稿の中で、ゲーセン内での飲食について語る人が多い。

荒木 そうなんですね。

※ゲームスタジオDo
https://seesaawiki.jp/satsuotagacen/d/%a5%b2%a1%bc%a5%e0%a5%b9%a5%bf%a5%b8%a5%aaDo

――  そういう認識があったから、2022年9月に小樽文学館で開催した「小樽・札幌ゲーセン物語展ミニ」では、荒木さんにもご協力いただいて、小樽市内のゲーセンの近隣にあったいろいろなお店の紹介を展示の中で行ないました。

荒木 はい。ゲーセンと飲食業は近しい関係だと思うんです。カラオケ屋でも飲食をしながら歌を歌うわけですが、それに近い。当時はそこをはっきり認識していませんでしたが、感覚的に気付いていたところはあります。

2022年9月、市立小樽文学館にて開催された「小樽・札幌ゲーセン物語展ミニ」で展示された「ゲーマーAの寄り道ルート」。80年代当時、荒木さんが小樽のゲーセンに行くついでに立ち寄った市内の店舗・施設について荒木さんご自身にまとめていただいた

――  それから2号では荒木さんが書かれたミニ小説「快傑キャロット」の連載がスタートします。これが休刊になる6号まで続きます。

荒木 バカな連載ですね。これは当時の「邪道ゲーマー」、ここでいう邪道は実際に存在した不正をはたらくゲーマーのことです。それを主人公が粛清するという内容です。前代表のやまざき拓が同様の「JADO憲兵隊」という作品を個人的に制作していました。

――  邪道ゲーマーというのは、マナーがよろしくないゲーマーといった人たちのことですか?

荒木 そうです。そのほかに不正なやり方でハイスコアを出すようなゲーマーも指します。当時は定規を使って連射するということもありましたが、僕らはそれも邪道と定義していました。

――  定規で連射は『ハイパーオリンピック』(コナミ/1983年)などでよく見られましたね。

荒木 多かったですね。そういう不正を正す小説として作りました。当時、「快傑ズバット」のパロディである「快傑のうてんき」というDAICON FILM制作の作品がありました。それをさらにパロディにしたという感じです。主人公はやまざき拓をモチーフに「早川拓」という名前にしました。相棒の名前も則巻猫兵衛の本名をモチーフにしています。

――  最初に「札幌南無児村青年団」を立ち上げたお二人ですね。

荒木 そうです。そういった基本設定で作り始めました。書き出しはアニメ雑誌「アニメック」に載っていた「快傑のうてんき」の紹介文を引用してパロディにしています。
  

――  スタートの時点で結末は考えられていたのですか?

荒木 いや、考えていません。そのときそのときでストーリーを考えていました。ただ、次回どこを舞台にするかだけは、ある程度イメージしていました。それでも基本はアドリブですね。

――  作中に出てくるキャラクター「岸井多喜子」は、『バラデューク』(ナムコ/1985年)の「KISSY」と「TAKKY」から来ていると以前に荒木さんからお聞きしました。

荒木 そうです。そういったパロディ小説ではありますが、ビデオゲームは文化として発展していくはずだというメッセージを込めていました。前面に押し出すのではなく、隠したテーマではありましたが。

――  「快傑キャロット」の読者からの反響はどうでしたか?

荒木 好評でした。先ほど言った隠しテーマの部分に気付いてくれた人もいて。

――  そうでしたか。やはり読者の評価があると、次のストーリーを考えるモチベーションになりますね。

荒木 それはなりますね。また自分自身、小説を書くのが好きなんだという発見もありました。それがオリジナル小説を執筆するという自分の後の活動に繋がっていったというのはあります。

サークル名「HAM」への改名と「おーるらうんど」3号

1985年8月10日に発行された「おーるらうんど」3号

――  続いて「おーるらうんど」3号について、お聞きします。まず注目したいのが、「札幌南無児村青年団」から「HAM」(Hokkaido Amusement Members)という団体名に変わっています。これはどういった理由からなんですか?

荒木 このタイミングで「NAMUSEMENT北海道」を担当されていたナムコ札幌事業所の女子社員さんがいなくなったと記憶しています。その兼ね合いだったのかもしれませんがナムコ札幌事業所が制作していた「NAMUSEMENT北海道」の発行も終わります。そういったことがきっかけで団体名を変えました。

――  ナムコとの密接さみたいなものが少なくなったから、南無児(ナムコ)を名乗らなくてもいいかということなんでしょうか?

荒木 そうですね。その上で改めて自分たちの団体がどういうものなのかを雑識童子が考えてくれた。

――  サークルの活動がナムコに特化したものではなくなってきたというのもありますかね。「おーるらうんど」1号の時点でナムコ以外のメーカーが制作したゲームも大きく取り上げています。

荒木 そういうことですね。ファンロードやパズル通信ニコリの影響を受けているという部分での基本コンセプトは変わっていないのですが。ちなみに、このタイミングで「月刊AMUSER(アミューザー)」というHAM制作の冊子を毎月発行するようになります。「NAMUSEMENT北海道」の代わりみたいな位置付けでした。

メンバーの中には雑誌「パズル通信ニコリ」の愛読者が数名おり、彼らが担当したパズルコーナーが「おーるらうんど」に毎号掲載されていた

――  それと3号からページ数が増えていきますよね。

荒木 そうなんです。書きたいことがどんどん増えていくようになって。それから書いてくれる人も増えてきました。その中のひとりに音海澪(MIO.OTOMI)がいます。とてもボリュームのある文章を書ける人でした。元々、他ジャンルの同人誌を作っていましたので。彼はメカも好きで、航空機関連にくわしい。

――  ああ、後の号でソルバルウのオリジナルデザインが掲載されていますが、こちらを手がけられているのですね。

荒木 はい、元々ミリタリー系のイラストを描いていました。『ゼビウス』(ナムコ/1983年)でソルバルウなどしっかりした設定を持つメカニックがゲーム内に出てくるようになり、それらを本の中で扱うにあたって、そういった経験を誌面に反映してもらいました。

――  2号までの南無児村時代と比べると、メンバーが増えた影響が大きく出ているのですね。

荒木 そうですね。確認すると3号で6人も関わっていますね。後の号では9人くらい関わるようになります。

「おーるらうんど」3号から加わった新メンバー音海澪(MIO.OTOMI)氏が描いた「ソルバルウMk-II」(「おーるらうんど」4号に掲載されたもの)

――  3号の内容面での大きな特徴として、「ビデオゲーム完全否定宣言」というインパクトのある特集が巻頭にあります。

荒木 いつかやりたかったんです。

――  ということは、案としては1号の時点からあったのですか?

荒木 ありました。その上でいつやるかと考えたときに、3号くらいでやるのがタイミングとしていいんじゃないかと判断しました。1~2号で「おーるらうんど」の基本を知ってもらった上での3号というタイミングですね。風営法との関わりや、「快傑キャロット」でも触れているとおり自分はゲームにおける不正について言いたいことがありましたから、そういったところを全部吐き出しましょうよと。他のメンバーもゲームに対して批判・批評の思いがありましたから、それを全部出そうということになりました。

――  基本、ゲームは好きだということを前提にした上での批判ということですね。

荒木 好きだからこそ、ということです。

――  建設的批判。

荒木 そうです。だからこそゲームが遊ばれている現場で出来ていないことを徹底的に批判して、もっと改善していかなければならないということを言いたかったのです。

――  3号では、前代表のやまざき拓さんが久々にゲストという形で寄稿されています。

荒木 2号の発行から3号発行までの間に僕らは東京のプレイシティキャロット巣鴨店に行ってやまざきに会っているのですが、そのときに久々に書いてよという話になりました。

――  そのときのレポートも3号に載っています。東京行きはやまざきさんからのお誘いなんですか?

荒木 はい。一度、巣鴨に来ないかとやまざきに言われたのです。

「おーるらうんど」3号に掲載された東京遠征レポート。巣鴨キャロットでのプレイヤーどうしの交流についても書かれている

――  このとき東京に行かれたのは荒木さんだけですか?

荒木 他に雑識童子ですね。2人で行きました。

――  当時、巣鴨キャロットは聖地みたいに言われていたと聞きます。

荒木 聖地です。今でいうとミカドみたいな感じですよね。

――  3号のレポートを読むと、巣鴨で見城こうじさんとお話されているようです。

荒木 いちばん波長が合った気がします。ゲームに対して攻略一辺倒ではない考え方もしていましたし。

――  北海道に戻られてから、見城さんを含めて巣鴨で出会った人たちとのやり取りはあったのですか?

荒木 見城さんとはありましたね。わたしと見城さんと、さらにやまざきも含めた数人が関わる形で、ゲームキャラ萌え本を作ることになります。

――  それは巣鴨での出会いがきっかけで。

荒木 そうです。それが「ビデオゲーム・ギャルズ・グラフィティ」になります。

――  その本は、いつ発行されたのですか?

荒木 いつだったかな。巣鴨で会ってから1年半後くらいだったでしょうかね。「ビデオゲーム・ギャルズ・グラフィティ」は、わたしの方ではもう持っていなくて。ゲームキャラ萌え本の元祖になるんじゃないでしょうかね。

――  これはゲームに登場する女性キャラについての本になる?

荒木 イラスト集といった内容です。「おーるらうんど」で行なわれていたキャラの考察や分析は少なめで、絵がメインですね。

――  そういう意味だと、今ではスタンダードになっているゲームキャライラスト本の源流になるわけですね。「ビデオゲーム・ギャルズ・グラフィティ」が発行された86年当時だと、ゲームに登場する女性キャラはけっこう増えていますよね。

荒木 そのときは『タイムギャル』(タイトー/1985年)のレイカが人気でした。やまざき拓もレイカを描いていたのだったかな。他には『ドラゴンバスター』のセリアもいましたね。
※筆者注:「ビデオゲーム・ギャルズ・グラフィティ」は、荒木さん追悼展で展示されることが決定した。やまざき拓氏はレイカではなく『カルテット』(セガ/1986年)のマリが登場するマンガを描いている。

――  「ビデオゲーム・ギャルズ・グラフィティ」は、とても興味ありますね。可能なら今読んでみたいです。このときの東京での出会いは後の「おーるらうんど」制作に何か影響がありましたか?

荒木 異端と捉えられつつも本の内容を理解してくれた人がいたのは心強かったですね。攻略メインの人たちにも、これはこれで有りじゃないと言ってもらえた。だから東京に行って本当に良かったと思いました。もちろんすべてのゲーマーが理解してくれたわけではないのですが、わかってくれる人が何人かいることを知ることができたのは大きかったです。

――  あと3号に関して。これは厳密には4号に書かれていたことになるのですけど、3号を目にしたタイトーから手紙が来たとあります。

荒木 4号制作時は「おーるらうんど」1周年でもあったので、3号までを振り返る文章を書きました。そこで書かれていたものですね。それまではナムコとの繋がりはありましたが、タイトーから連絡があったのは驚きました。

――  手紙の内容はどういったものだったのですか?

荒木 僕は読んでいなくて、雑識童子だけが読んでいました。彼から聞いたところによると、とにかく「応援している」、「本としての質も良い」と書いてあったそうです。複数のメーカーから注目されるようになったのは嬉しかったですね。商業誌で書けないことを書くというのが同人誌の本分のひとつだと思いますが、そこを評価していただけたのも良かったです。4号に書かれたタイトーさんによる文章を読むと「非常に優秀なファンジン」とまで言ってくださっていて、本当に嬉しかった。

「闘技芸術」と名付けられた『グロブダー』攻略本

――  これも4号に書かれていることなんですけど、3号を作られた後にコミックマーケット(コミケ)に参加されていますね。

荒木 はい、ようやくコミケに行けるようになりました。

――  この時期だと、まだ晴海で開催されていた頃ですね。

荒木 そうですね。

――  コミケでは「おーるらうんど」の1~3号を販売したのですか?

荒木 いや、このときの最新号である3号だけですね。攻略主体ではないゲーム同人誌がどれくらい売れるのかを試したいという気持ちがありました。当時のコミケではゲーム同人誌はほとんど攻略本しかなかったような時代でしたからね。

――  実際、売上はどうだったのでしょう?

荒木 芳しくなかったです。ゲームファンが今ほど多くなかったですから、得体の知れない同人誌と認識されていたのかな。ゲームをネタにして文章を書くというのが、まだ早かった時代だったんでしょうね。だから仕方のないことだとは思いました。

――  それでもコミケに行ったというだけで得た物もあったのではないでしょうか?

荒木 僕はアニメも好きでしたから、コミケ自体をきちんと知りたかった、肌で感じたかった。後学のために行ったというのはありますね。

――  4号以降の「おーるらうんど」もコミケで販売したのですか?

荒木 「おーるらうんど」ではコミケには行っていません。「おーるらうんど」のあと、ゲーム以外の同人誌を作るのですが、そちらでは参加しています。

――  発行年月を見ると、3号から4号まで半年かかっていますね。ただ、この間に『グロブダー』(ナムコ/1984年)の攻略同人誌が発行されています。こちらには荒木さんは関わっていないのですね?

荒木 わたしはタッチしていないですね。雑識童子と、猫豆(NEKOZU)くんが書いています。猫豆くんが『グロブダー』を好きだったんです。

1985年9月1日に発行された『グロブダー』の攻略同人誌「The Art of Battling 闘技芸術」。雑識童子氏と、猫豆(NEKOZU)氏が執筆を担当

――  『グロブダー』については、荒木さんが巣鴨キャロットでプレイしている様子が3号の東京レポートでも書かれています。当時、メンバー内で流行っていたのですか?

荒木 ものすごく流行っていました。メンバー内でいちばん上手かったのが猫豆くんです。

――  やまざきさん時代の南無児村青年団から数えて、『リブルラブル』(ナムコ/1983年)、『ドルアーガの塔』、そして『グロブダー』と3冊目の個別タイトルの同人誌になります。それだけメンバー内で魅力のあるタイトルだったということなんですね。どういった辺りが魅力的だったのでしょう?

荒木 ゲームそのものがおもしろくて遊び易かったというのが、まずあります。その上でマップに星座をモチーフにした配置がありました。メンバーには天体好きが多かったので、そこから掘り下げをしていくのが楽しかったというのもあります。

――  たしかに本の中では各マップのブロック配置から星座を連想している文章が目立ちますね。

荒木 それと各面の難易度を漢字一文字で表しているのですが、これも評判が良かったです。「困」、「鬼」、「激」とか「難しい」を表すにもいくつかバリエーションがあって。これは雑識童子のアイデアですね。ちなみにグロブダー本の24面の説明で「シールドなしで突破した人、約1名」とありますが、これは僕のことですね。巣鴨キャロットに行ったときに実演をしました。周りにギャラリーがいて盛り上がりましたね。あれは楽しかった。
  

――  グロブダー本のタイトルは「The Art of Battling 闘技芸術」となっています。「Art」や「芸術」という言葉はあえて使っている感じがあります。

荒木 はい。名付けたのは雑識童子ですが、彼のセンスによるものですね。雑識童子は美術関連も好きで、よく美術館にも行っていました。僕も連れて行かれたことがあります。彼は文房具も好きでしたが、工業デザインという観点でも興味を持っていました。そういう関心が同人誌に反映されていたのだと思います。

「おーるらうんど」本誌でも度々記事が掲載された『グロブダー』(※PS4版を使用)
GROBDA™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

クリエイター遠藤雅伸氏を特集した「おーるらうんど」4号

1986年2月10日に発行された「おーるらうんど」4号

――  続いて「おーるらうんど」4号について、お聞きします。まず『ゼビウス』や『ドルアーガの塔』などの制作を手がけた遠藤雅伸さんの特集を5号と合わせて前後編で掲載しています。このように遠藤さんを取り上げた理由は?

荒木 遠藤さんは当時からカリスマ性のあるゲームクリエイターでした。そういったカリスマ性のある人に対等に切り込むというのが、「おーるらうんど」のコンセプトのひとつでもあるので、やってみようということになりました。4号では、『ゼビウス』と『グロブダー』を取り上げています。

――  4号を見ると、遠藤さんが手がけられたタイトルの評論がありつつ、量産型ソルバルウなどゲームの世界観を独自の解釈を元に広げていくという試みがされています。後の号では『バラデューク』でも同じことをされていて。この辺りは極めて二次創作的なものと言えますね。

荒木 特に『ゼビウス』が紡いだストーリーというのは、当時のテクノロジーとの関わりについての危機感をテーマにしていました。僕は竹宮惠子さんの「地球へ…」や、新井素子さんの「大きな壁の中と外」という小説が好きでした。管理社会を描いた作品ですね。『ゼビウス』も同じ文脈の中にあるストーリーです。そういったところから『ゼビウス』のバックストーリーが好きだったというのがあります。それでストーリーの観点から『ゼビウス』を掘り下げたかったのですね。

『ゼビウス』には開発者である遠藤雅伸氏によるバックストーリー(ファードラウトサーガ)が設定されている。このストーリーはゲーム中で直接語られないが、それを示唆する描写は多い。(※PS4版を使用)
XEVIOUS™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

――  4号の発行が86年2月ですから、この時点で『ゼビウスの』稼働開始から3年くらい経っています。荒木さんが今、言われたような以前から関心のあった考察を満を持して誌面に盛り込んだということなんですね。

荒木 人間と機械文明との関わり合いというのは、僕が小さいときからずっと言われてきた重要なテーマで、それをゲームのバックストーリーの中にはじめて取り入れたのが『ゼビウス』でした。これはそれまで小説やアニメがやってきたことと同じであり、だからゲームも小説やアニメと同列に語ることが出来るものなんだという思いはありましたね。SFファンとしての視点があったというのもあります。SFファンは年代が古い作品でも強い興味があれば研究していきますからね。最新のものかどうかは関係ない。だから『ゼビウス』はSF作品と認識していたんですね。
  

――  「おーるらうんど」4号の総ページ数が3号からさらに増えています。ひとつの特集にそれだけボリュームを割いているということの現れですよね。

荒木 SF雑誌の記事も時間をかけて書かれた文章が多いです。序説があって本文があって最後に結論がある。そういう雑誌に触れてきたので、自分が書く文章も自然と同じようになっていきますね。

――  続いて『グロブダー』の記事についてお聞きします。『グロブダー』に対して独自の解釈で作り出した世界設定について書かれています。

荒木 雑識童子渾身の力作です。バトリングチームがどこでツアーをやるかということを、考えるのが楽しかったです。

――  ワールドカップという設定で、世界中を巡業する形になっています。

荒木 それぞれの開催場所をどこにするかを選定するのが楽しかったです。僕と雑識童子と音海の3人で考えました。音海はF1グランプリが好きだったので、F1の世界の巡り方を参考にしています。北半球と南半球の季節の違いも考慮して現実的な視点で考えましたね。

――  そういった独自の考えを、実際の『グロブダー』の世界観と破綻がないように考えてもいるわけですよね。

荒木 元々の『グロブダー』の世界観は「NG」に掲載されていたので、そこを僕らの独自性で膨らませていくという感じでした。
  

――  今、4号を見返していて、マスコットキャラクターの女の子「アルちゃん」の存在に気付きました。こちらは4号が初登場ではなく、その前から誌面に登場しています。

荒木 そうです。こういうキャラも登場させてみようという流れがあったのと、僕が絵に少し自信が付いてきてもいたので登場させてみました。それなりにファンもいたので、びっくりしました。

――  「快傑キャロット」と同じく良いリアクションがあったので、モチベーションを維持しながら続けて掲載できたのですね。

荒木 そうですね。リアクションがあったのは良かったです。「おーるらうんど」でクラシック音楽についての文章を載せたことがあって、そこでは僕とアルちゃんとの会話形式の文章にしました。現実のメンバー内でクラシック音楽の話ができる人がいなかったので、彼女に担当してもらったという形です。

荒木さんがデザインしたマスコットキャラ「アルちゃん」

――  アルちゃんとJOSCAさんこと荒木さんとの対話形式で文章が書かれているものは4号にもあります。対話形式だと読みやすいというのはありますね。

荒木 ラジオでのパーソナリティどうしのやり取りのリズムというものも知っていました。そのリズムによる話の内容が伝わりやすかったということもあって、それを取り入れたということでもあります。

――  クラシックにくわしくなくても、対話形式のおかげでひとまず文章は読めるということですね。

荒木 そうです、そうです。ハードルは下がりますね。

(Vol.4に続く)

最終回となる次回は、1987年のゲーム同人活動休止までについて。そして2021~22年に小樽文学館で開催された一連のゲーム展での同人誌の展示について、お話を伺います。

本インタビューは、インタビュー時から約40年前のお話を荒木さんにお聞きしました。そのため荒木さんご自身の記憶にどうしても曖昧なところが一部あるうえでのお話となっています。その曖昧な部分を可能な範囲で補完するための事実確認にあたって、下記の皆様にご協力をいただきました。こちらにお名前を紹介させていただき、お礼を申し上げます。(氏名五十音順、敬称略)
 荒木 純子
 見城 こうじ
 雑識童子
 中川 剛
 ヒパイスト
 本野 善次郎

YouTube・ゲーメストチャンネルで配信されております『アンドキュメンテッド・ゲーメスト / ステージ013ゾーン1~6』の中で、荒木さんが手掛けられた同人誌について取り上げられています。

動画内で雑識童子様、瑞原螢様が発言されている内容をインタビュー内に一部反映させていただいております。

荒木 聡 追悼展 ゲームとアニメの間に
-JOSCA THE CREATOR-

小樽出身の荒木聡さんは80年代から札幌を拠点にアニメやビデオゲームをテーマにした同人活動を始めました。その後、パソコン通信を使ったコミュニティを軸に、様々なサブカル活動に仲間たちと共に携わります。並行してオリジナル小説の執筆やDTMを使った音楽制作も行なってきました。
それらの活動のひとつである「ゲーム同人誌」は小樽文学館で開催した一連のビデオゲーム展の中で紹介しました。
2022年末の荒木さんの急逝を受けて、追悼の意味を込めた荒木さんのサブカル活動の一部についての展示を行ないます。荒木さんの活動の記録を通して、昭和後期から平成にかけての同人文化の一端をひもときます。

会場:市立小樽文学館(入場無料)
   〒047-0031 小樽市色内1-9-5
   電話 0134-32-2388

会期:2023年8月26日(土)~10月1日(日)

開館時間:9時30分~17時(入館は16時30分まで)

休館日:毎週月曜日(9/18は除く)、9/19(火)・20(水)・26(火)

企画構成:藤井 昌樹、本野 善次郎

協力:荒木 純子、天津 冴子、小熊 一寿、小藤 卓、雑識童子、辻 和彦、ヒパイスト、Fatima-Z、瑞原 螢、吉岡 光生

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