北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー

  • 記事タイトル
    北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー
  • 公開日
    2024年04月12日
  • 記事番号
    11042
  • ライター
    藤井昌樹

第二回・中川 剛さん(元ハイスコアラー)Vol.2

「小樽・札幌ゲーセン物語展」、「雑誌・攻略本・同人誌ゲームの本展」の企画を通して知り合った北海道在住のゲーマーの皆さんにお話を伺う企画、その第二回目をお送りします。
ゲームはプレイヤーがいてこそ成立するものであり、そしてゲームの遊ばれかたが時代によって大きく変化しているのなら「プレイヤーの記録」も重要なのではないかという視点からインタビューを行います。
今回は、1983年の開店間もない頃からプレイシティキャロット琴似店の常連プレイヤーであり、最初期の頃からゲーム雑誌にハイスコアが何度も掲載されたことがある中川 剛さんにお話を伺いました。
ビデオゲーム黎明期におけるゲーム攻略、ゲームセンターのコミュニティ、ゲームイベントなど、どれも今となっては貴重となる話題ばかりとなっています。

第二回・中川 剛さん(元ハイスコアラー)Vol.1は、こちら

1980年代から90年代初頭にかけてハイスコアラーとして何度もゲーム雑誌に名前が掲載された中川 剛氏

すべての謎が解かれる前の『ドルアーガの塔』

―― 続いて当時のゲーセンを語るうえでは外せない『ドルアーガの塔』(ナムコ/1984年)についてお聞きします。ドルアーガに関して中川さんは雑誌「AMUSEMENT LIFE」(以下、AM LIFE)(*01)の84年9月号にハイスコアが初掲載された後、「マイコンBASICマガジン」(以下ベーマガ)の84年10月号から85年1月号まで連続してハイスコアが掲載されていて、それくらいやり込んでいました。

中川 わたしの中でドルアーガを越えるゲームというのはあまりないんですよ。それくらい、わたしにとって衝撃的な作品です。

―― 中川さんが今までやってきたゲームの中で、強烈に印象に残っているゲームとしてかなり上位に来るのですね。

中川 ドルアーガは特殊なゲームで、わたしの中ではクリアする過程までがおもしろいゲームだったんですよ。クリアをしてすべての謎を解いてしまったら、そこまで魅力を感じないゲームなんです。

―― そうか、中川さんはドルアーガが稼働して間もないときから始めている。

中川 そうです。宝箱の出しかたがまだわからずに探している頃からプレイしています。

―― その時期のドルアーガを体験していることは貴重な気がしているんです。例えば、わたしはファミコン版のドルアーガから入っているんです。だから、宝箱の出しかたは攻略本ですでにわかったうえで遊び始めている。その後にアーケード版もクリアしましたが、それもクリアに必要な情報がすべてわかっている状態でした。

中川 ドルアーガを本当の意味で楽しむという観点では、それは違うんですよ。

―― まず「プレイシティキャロット琴似店」(以下、琴似キャロット)に行ったら、新作としてのドルアーガが置いてあってというところから始まるわけですよね。「何だ、このゲームは?」みたいなところから。

※プレイシティキャロット琴似店

中川 そうですね。それでひとまずやってみるのですが、まず迷路が暗くなって先に進めないということが起こります(笑)。

―― 迷路を明るくするアイテムが入った宝箱の出しかたがわからないからですね。

『ドルアーガの塔』
19階の宝箱から取得する「ブック オブ ライト」を取らないと23階までの迷路が暗闇となり見えなくなる。(※PS4版を使用)
THE TOWER OF DRUAGA™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

中川 だから「何だ、この変なゲームは?」と思いますよね。

―― その頃は、攻略情報が載るゲーム雑誌はベーマガくらいですか?

中川 ベーマガはありましたけど、ドルアーガの攻略情報は最初全然出ていなくて、出てきたのが1985年の2月号なので遅かったんですよね。

―― だとすると基本的にドルアーガも含めて前情報なしで当時のゲームに触れるわけですよね。それが当たり前だった時代。それでゲーセンの常連コミュニティの中で情報を共有していく。

中川 琴似キャロットでは情報を集めるためにお金があるサラリーマンにお願いしたというのはあります。

―― (笑)

中川 サラリーマンが多かったので、彼らがやっているのを後ろから見ていた。そこで得た情報をノートにまとめていました。あとは他のゲーセンに行って、情報を得ることもありました。

―― 宝箱の出しかたについては、1階の「グリーンスライムを3匹倒す」とか、2階の「ブラックスライムを2匹倒す」というのは、すぐにわかる。

中川 それはすぐにわかりました。

―― 3階もブルーナイトのどちらかを倒せば出るから、そう難しくないですかね。

中川 3階や4階は苦労しないでわかるんですよ。5階から難しくなる。

―― 「歩きながらメイジの呪文を3回、盾で受ける」でしたよね。

中川 そうです。それから宝箱からアイテムをとっても効果がわからないものがある。剣の攻撃力が上がるなんてゲーム画面に出てこないので。

―― そうか。宝の出しかたもそうだし、取ったアイテムが何なのかもわからない時期なんですね。

中川 そのアイテムを取ったことで何があるのかが、まずわからないんですよ。

―― 例えば21階で手に入るグリーンリングを取っても、ブルー・ウィル・オー・ウィスプに触れても大丈夫ということがわからないから、その後もウィスプを真面目に避けることになる。

中川 そうそう。

―― そういう試行錯誤ができるのはおもしろいですよね。稼働開始直後にドルアーガに触れられた人の特権だと思います。

中川 だから本当に、そういった謎を解くまでがドルアーガの本当の意味でのおもしろさなんですよ。

―― そのタイミングで触れた人にしか味わえないドルアーガのおもしろさの本質のような気がします。

中川 ドルアーガは謎を解明するまでが一番楽しかった。解明してしまったら、事務的にやって、1コインクリアして終了みたいな感じになってしまう。

―― ちなみにドルアーガのスコアがベーマガに載る頃は、宝箱の出しかたは全部わかっている状況ですよね。おそらく60階までクリアしているでしょうから。

中川 そうですね。だいたいわかっていて、クリアしている頃ですね。それまでが長い道のりだったんですよ。

―― 宝箱の出しかたも含めてすべての謎が判明するまでに、どれぐらい時間がかかったのでしょう?

中川 どれぐらいだろう。3か月以上かかったのかな。

―― この頃も琴似キャロットには毎日通っている感じですか?

中川 毎日通っていますね。それで3か月はちょっと長いか。土日には澄川キャロットハウス(以下、澄川キャロット)や西野ナムコランドといった他のゲーセンに行って、情報を集めたりもしています。

※澄川キャロットハウス

※西野ナムコランド

―― 自分の足で他のゲーセンに行って情報を得ていたのですね。

中川 他のゲーセンのコミュニティノートに情報が書いていることもあるので、まめにチェックしていましたね。 他のゲーセンの常連っぽい人がドルアーガをやっていると、そのプレイを見たり、話を聞いたりもしていました。

―― コミュニティノートはその頃からあったのですね。琴似キャロットにもあったのですか?

中川 琴似キャロットにはなかったです。澄川キャロットにはあったと思います。

―― 稼働して間もない頃だと敵キャラの強さやヒットポイントは曖昧にしかわからないですよね。ナイト系を倒してリカバリーポイント(*02)をもらえるといったことも知りようがないですし。

中川 薬(ポーション)の意味もわからないんですよ。

―― それこそ取ったらダメなアイテムもわからないわけですよね。

中川 弱くなる薬も初めの頃は「強くなるんだろうな」と思って取っていたんですよ。

―― ギルのヒットポイントが表示されないから、ギルの残り体力もわからない。

中川 何もかもわからない状態でプレイしているから逆におもしろいというのはあったと思います。

―― 宝箱の出しかたの難しさという意味では有名どころだと、31階のパールの宝箱を出すために1Pスタートボタン押すというのがありました。

中川 それは琴似キャロットで発見した現場は見たんですよ。何かカチャカチャやっていたら出たのですけど。でもはじめて取った瞬間は、アイテムの効果がわからないわけです。

『ドルアーガの塔』
31階の宝箱「パール」の出現条件は、1Pのスタートボタンを押すというもの。プレイ中に使用しないボタンなので、多くのプレイヤーが気付くことができなかった。(※PS4版を使用)
THE TOWER OF DRUAGA™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

―― ドラゴンを一撃で倒す薬もありましたよね。ドラゴンを倒せば一撃で倒せるから効果がわかるけど、ドラゴンから逃げてばかりいたら効果はずっとわからないことになりますね。アイテムの効果がわかるかどうかも試行錯誤が必要な時期だった。それから宝箱が出ない25階も最初は出ないなんて知らないから、普通に出しかたを探すわけですよね。

中川 必死に探しました。全フロアに宝箱が出るものだと思ってやっていますからね。そして「出ないなぁ、出ないなぁ」と言って悩み続ける。そのときは自分で宝箱ノートを作っているわけですよ。1階はこう、2階はこう・・・って出しかたをメモしているのだけど、なぜか25階が出ない。攻略途中は、そういったわからない箇所が何か所かあって。それを徐々に埋めていくのが楽しかったです。 そのうち、アイテムの効果もわかってきて。はじめてクリアしたときにノートが完成しました。

―― 他に難しそうなものと言えば、迷路のこの地点を順番に通過するみたいなのはタイヘンそうですが。

中川 あれは、今でもちゃんと覚えていなかったりします。迷路のこことここを8の字で通ればいいみたいなアバウトな感じで覚えていましたね。正確にこの地点とこの地点を通るという形では把握していなかった。

―― 他にはスライムやマジシャン、ナイトを順番に倒すといったものもありますよね。

中川 最初は全然わからないのですが、同じ系列の敵がまとめて登場しているということは、順番に倒せば何かあるんだろうなという推測はできます。

―― ふだんの攻略からナイトは強い敵から倒していったほうがいいというのは何となくわかりそうですね。マジシャンは名前の頭文字のアルファベット順に倒すわけですが、当時敵の正式な名前はわかっていたのですか?

中川 いや、知らなかったです。

―― 前回インタビューした荒木 聡さんが所属していた札幌南無児村青年団が作ったドルアーガの同人誌では、制作当時に敵の名前が部分的にしか判明していなかったので、一部の敵やアイテムの名前が仮の名前で表記されていました。そういう時期ですよね。

中川 当時は自分たちで勝手に名前を付けていましたよね。正式名称じゃない名前で敵キャラを呼んでいたと思います。ただ、琴似キャロットでドルアーガをクリアした人が何人か出てきた頃には、敵の名前は全部わかっていました。

―― 敵キャラの名前に関しては、わたしが最初にゲームの攻略を始めたのが『ゼビウス』(ナムコ/1983年)なんですけど、当時住んでいたのが静内町(現・新ひだか町)だったので、ナムコの直営店なんてないし、いわゆる情報源がないんですよ。それでも書店に行けばベーマガは売っているので、付録のスーパーソフトマガジンも含めて読むことはできた。そのスーパーソフトマガジンに、『ゼビウス』の敵の名前が掲載されたのを読んで、ゲームの敵キャラに公式名があるんだってことを、はじめて知る。これはけっこう衝撃でした。それまでは、さっき中川さんが話していたように、仲間内で通じる名前を勝手に付けていたわけです。その後は、ゲーム雑誌や攻略本がたくさん出ていきますから、事前に敵の公式名を知ることは普通になっていきますが。

中川 そうでしたね。

―― お話を伺って、すべての謎がまだ判明していないときに、ドルアーガに触れていたかったとすごく思いました。

中川 あのときは本当に楽しかったです。楽しかったというのもあるけど、忙しかった。いろんな店舗に足を運んだりしましたから。

―― 学校の授業中にもドルアーガのことを考えたりしましたか?

中川 授業中に攻略ノートを書いていましたから。ポーションとかアイテムのイラストを自分で書いたりして。ゲーセンにノートを持ち込んでプレイ中にペラペラめくるなんてカッコ悪いことはできないので、自分で覚えるわけですよ。だから学校で勉強をしているんですよ。アイテムの出しかたの暗記(笑)。

―― その頃の琴似キャロットでは、店内でドルアーガの情報共有といったことは割とスムーズだったのですか? 当時の他のゲーセンでは画面をギャラリーに見せないようにするなんてこともあったようですが。

中川 わたしは隠しませんでしたけど、隠す人はいましたね。隠す気持ちはわかるんですよ。例えば、サラリーマンが総額でけっこうなお金を使って、苦労して見つけた宝箱の出しかたを教えたくないっていう気持ちはあるんですよね。わたしはオープンな感じの人と何度か話して「情報を教えて」と何度か聞いて教えてもらう感じでした。

―― ドルアーガでは隠し要素としてコンティニューができますが、このやりかたを発見したのは割と早かったのですか?

中川 早かったです。

―― インストラクションカードにやりかたは載っていませんよね。

中川 誰かがやりかたを見つけたんだと思います。ドルアーガは極めるまではコンティニューなしでは話にならないゲームですからね。謎がわかっていないうちは湯水のようにお金がなくなるんですよ。そういう状態でいちいち1階からプレイし直すのは辛い。

―― 謎を解きながらだと、そうなりますよね。

中川 ある宝箱の出しかたがわからなくて、先に進めなくなったとして。その前に見つけていない宝箱が1個だったらいいのですけど、このアイテムを持っていないとこちらのアイテムの宝箱も出ないみたいに複数のアイテムが絡んでいるやつは関連性がわかるまでは難しかったです。

―― 13階でしたっけ。難しい宝箱の出しかたがあるじゃないですか。扉を通過してから敵を全滅というやつ。あれを一から見つけるのはタイヘンそうですよね。

中川 だから、いろいろ試すわけですよね。まずは扉を通過してみよう。敵を全滅させてみよう。出るか。出ないか。ひたすら試行錯誤ですよ。それで、新たな宝箱が見つかった瞬間は店内が騒然になって。「え、出たの」と言って、関心ある人が寄ってきて。「え、どうやったの」と聞いてくる。

―― 何か、よくわからないけど出ちゃったみたいなこともあるのですか?

中川 ありますね。勝手に出たんだけど、みたいな。何をやったか覚えていなかったりもして。出しかたを勘違いしていて、次にもう1回やったら出ないこともあったり。

―― レバーをぐるぐる回したり、スタート地点からしばらく動かないというのもありましたよね。最初に見つけるのはタイヘンそう。

中川 あの宝箱の出しかたを最初に考えた人はすごいと思いました。情報がない中で、あのゲームを遊ばせようというのだから。最初に迷路が真っ暗になったときは「何だ、このゲーム?」、 「何で暗い中でゲームやらせるの?」みたいな負の感情も起こるのですけど、謎が1つずつ解明されるにつれておもしろさを感じていくんですよ。

―― 今みたいにコンテンツがたくさんない時代だから、そういうゲームでも集中してプレイできたのでしょうね。「こんなクソゲー」と言って早々に切り捨てて、違うゲームに逃げるみたいなことがまだなかった。

中川 そう思いますね。

―― 最初から宝箱が出ているフロア(*03)がありますが、やはり怪しいと思うのですか?

中川 そうですね。見た目から怪しいから、これ絶対偽物だろうと思いつつ、それでも最初はまず取りますよね。で、クリアが出来ない状況を作っちゃう(笑)。

―― (笑)。あとは、マトックの残り回数も最初はわからないわけですよね。

中川 全然わからない。外壁に向かって使ったらなくなるというのは途中で気付きました。マトックは1面から出るアイテムだから、残りの回数は別にして壁を壊すアイテムだというのは早めに情報共有されていましたね。

―― 60階はどうだったのですか? はじめて行ったときに各クリスタルロッドをどこにどの順番で置くかというのは分からない気がします。

中川 わたしがはじめて60階に行った頃は、すでにその情報を教えてもらっていました。その60階の情報を教えてくれたのが、実はやまざき拓さん(*04)なんですよ。

―― その頃は大学進学でやまざきさんは関東にお住まいでしたね。やまざきさんが立ち上げた札幌南無児村青年団は荒木さんたちが引き継いでいた。やまざきさんが帰省などで北海道に戻ってきたときに、琴似キャロットにも寄っていたのですね。

中川 やまざきさんが東京から情報を持ってきて、教えてくれたんです。その情報がすごく有益で。ドルアーガで埋まってなかった謎についての情報を全部教えてくれました。

―― おそらく「プレイシティキャロット巣鴨店」(以下、巣鴨キャロット)の情報でしょうね。

中川 そうだと思います。わたしはやまざきさんと仲が良かったので、直接教えてもらいました。そこから琴似キャロット全体に広まったという感じですね。

―― そうすると、その頃は元・琴似キャロットの常連で東京に行ったという人はやまざきさんくらいなんでしょうか?

中川 やまざきさんくらいですかね。東京に旅行に行ってすぐ帰ってきたっていう人はいましたけど、東京で得たゲーム情報を持ってくるみたいなことはなかったです。

―― いや、ドルアーガの話はおもしろかったです。

中川 もう二度とああいったゲームに会えないのだろうなと思います。不親切すぎて今だったら逆に叩かれますよ。あれだけの謎を自分たちだけで解明するなんてあり得ないと思っちゃう。今のゲームって基本的にある程度、道しるべがないとユーザーが離れちゃいますからね。

―― あの時代のゲーセンで遊ぶゲームだから成立したおもしろさなんでしょうね。

中川 当時も最初は理不尽って思うのですけどね。いや、でもおもしろかったですよ。やっぱりあれは。

中川さんが「謎をすべて解くまでが一番おもしろかった」と語る『ドルアーガの塔』。(※PS4版を使用)
THE TOWER OF DRUAGA™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

「不良のたまり場」としてのゲーセン

―― 続いて、不良のたまり場という捉えられかたをされていた初期のゲーセンについて、お話を伺います。ゲーセンに新風営法が適用されるのが85年、その前の83~84年の頃の話になります。

中川 先ほども話しましたが、基本的に店内が暗いゲーセンが多かったです。だから不良が集まりやすい雰囲気は確かにありましたね。カツアゲされたという話はよく聞きました。

―― ゲーセンの中で。

中川 そうです。わたしの友だちが1人でゲーセンに行って、ヤンキーにたかられたという話はよくありました。不良に「ジャンプしろ」と言われたとか。

―― ジャンプ?

中川 「お金を持っていない」と言っても、ジャンプをしたらジャラジャラと小銭の音が鳴るわけですよ。それでわかっちゃう。

―― しんどい話ですね。

中川 だけど、わたし自身はそうやって不良にたかられたことはなかったんです。店長や店員と仲が良かったので、それは対不良という意味ではかなりのガードになりました。店に守られているという。

―― 助けを呼びやすいということですね。

中川 店長や店員と仲良くなると、店の中で自分を見てくれるんですよ。何かあったら来てくれるみたいな。それと琴似キャロットだと、わたしがプレイしているとけっこうギャラリーが多かった。ギャラリーが多い中でカツアゲしてくる奴は、ほとんどいないです。そこまで度胸のある不良はいない。

―― たしかに、そうですね。

中川 あと、店内ではたいてい友だちと一緒で、一人でいることはほとんどなかったというのも大きかったですね。琴似キャロットはそんな感じでしたけど、管理人や店員が常時いないゲーセンも当時はありました。さらに店内が薄暗くて不良がたむろしやすい。お金を取られないように両替機に鎖を巻いているところもありましたね。当時の不良やヤンキーは5円玉でプレイしようとしたり、電子ライターをコイン投入口にカチカチやってゲームをしようとしていました。

―― 正規じゃない方法で。

中川 そういうのを遠巻きに見ることはありましたけど、怖いから注意はできませんでした。

―― わたしはさっき話したとおり、中学時代は静内に住んでいて、そこでは駄菓子屋やデパートくらいにしかゲームを置いていなかった。高校は苫小牧なんですけど、そこでもわたしがよく行っていたのは、ダイエーやイトーヨーカドーといったデパートやスーパーのゲームコーナー。駄菓子屋やデパートにはまず不良は来ないんですよ。

中川 デパートには来ないですね。

―― 荒木さんたちが所属していた札幌南無児村青年団が拠点にしていたのは、そごうのゲームコーナー。そごうもデパートで、しかもゲームコーナーは9階なので、そこまで不良は来ない。だから安心してゲームが遊べたと荒木さんは言っていましたね。

※札幌そごうゲームスポット

中川 定山渓に行く途中にあるドライブインに立ち寄ったことがあって。麻雀ゲームなどが置いてあるんですよ。そこはヤンキーがたくさんいて、すごかった。ここはやばいと思いました。

―― 中川さん自身が拠点にしていた、琴似キャロットは比較的安全な場所だったのですね。

中川 キャロットは不良がよく来るような店ではなかったですね。たまにカツアゲが起きたことはあったみたいですが、キャロットの中は何かあると店員さんが確実に注意していましたから。あと、店長が怖かったんですよ。

―― 店のスタッフが抑止力になっていた。

中川 すごい抑止力になっていたと思う。初代の店長はあまり接していなかったのですけど、2代目の店長がめちゃくちゃ怖くて。パンチパーマの人だったんですよ。もう見た目も怖くて。店にあるパンチングマシンを毎日やるんですよ。2時間置きくらいにパンチングマシンをやる。

―― (笑)

中川 しかもラリアットで。なんかもう140キロくらいの力で。当時のパンチングマシンで140キロなんてまず出ないですよ。だから、その人がやると店内に音が響いたんですよ。「ドカン。わ、始まった」みたいな(笑)。

―― 2時間ごとというのが、またいいですね。

中川 わたしも店長にそそのかされて「やってみろ」って言われて。せいぜい98キロくらい出すのがやっと。 店長を真似てラリアットでやって、やっと110キロ行くくらいだったのですけど、店長は軽く140キロを出す。

―― それだけ店内で目立てば、不良は来ないですね。

中川 昔、わたしの中で正月は琴似キャロットで迎えるというのがあったんですよ。

―― そうか、年末年始も開いているわけですね。

中川 年が明ける午前0時の時点で絶対にゲーセンの中にいるという目的があったのですけど、琴似神社の近くにある「スガイコトニ」にはヤンキーが集まっている。神社で初詣をして、「スガイコトニ」に集まっているわけです。琴似キャロットには普通の人たちが集まっているという感じ。新風営法でも琴似キャロットは1990年代途中まで、正月は2時くらいまで特別営業していました。なので年越しは琴似キャロットでした。

※スガイコトニ

―― いろいろと80年代を感じる話です。90年代に入るとゲーセン側も健全さをアピールすることが顕著になってきたから、プライズゲームやプリントシール機が出てくると客層も変わってくる。不良の中身も90年代からは変わっていきますよね。いわゆる「つっぱり」はいなくなる。

中川 そうです。

1985年、ゲームサークルの活発化

―― ハイスコアの話に戻すと、『ドルアーガの塔』(ナムコ/1984年)の84年が終わって、85年になってくると『スーパーパンチアウト!!』(任天堂/1985年)や『パックランド』(ナムコ/1984年)でベーマガに中川さんのスコアが掲載されています。

中川 その頃は『パックランド』を主流に置いていました。

1985年に中川さんがハマっていた『パックランド』。(※PS4版を使用)
PAC-LAND™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

―― あと、琴似キャロット以外のお店で中川さんが出したハイスコアが載るようになります。資料では「川沿キャロットハウス」(以下、川沿キャロット)や「プレイシティキャロット小樽店」(以下、小樽キャロット)でハイスコアを出されていますね。

※川沿キャロットハウス

※プレイシティキャロット小樽店

中川 わたしも85年の資料を持ってきていて、それがベーマガの85年10月号です。 これが実はおもしろくて、ゲーセンのハイスコア史を語るうえで革命的なことがあったんですよ。この号の小樽キャロットで出されたハイスコアがすべて北海道内のサークル名で埋められたんです。

―― 資料を拝見すると、小樽キャロットで出されたスコアネームの全てに「HYPER」というサークル名が付いていますね。

中川 わたしが認識している限りでは、北海道ではじめてできたサークルが「HYPER」なんですよ。それまで雑誌掲載されたスコアラー名は本名だったり、ネーム入れで入れる3文字のスコアネームだったり、要するに単独の個人の名前だけだった。そんな中で、サークル名がハイスコア集計に目立つ形で登場した。これはちょっとした事件だったんですよ。この「HYPER」がハイスコア界に押し寄せてくるみたいな状態。

―― わたしも当時のベーマガを確認したところだと、85年6月号にはじめて誌面に「HYPER」が載っています。ただ数はまだ少なくて、この10月号のように店内のハイスコア全部が「HYPER」ではない。

中川 そう。だから10月号ですごく増殖したんですよ。

―― その後は、他の店舗の集計にも「HYPER」が付くことが増えています。

中川 「HYPER」の拠点は小樽なんですけど、川沿や澄川のキャロットハウスの集計にもサークル名が出ていますよね。この時期から遠征が盛んになっていったのだと思います。拠点だけじゃなく、他のゲーセンでもハイスコアを狙うようになる。わたしもこの時期に「HYPER」の人と仲良くなります。会う機会が多かったんですね。

―― ちなみに中川さんは当時、ベーマガのハイスコアのページは毎号チェックしていましたか?

中川 チェックしています。それで最初は「このHYPERってなんだ?」と気にするわけです。一人じゃなく、複数のスコアネームに「HYPER」と付いているから、さらに気になるわけです。後で「HYPER」の人に聞いたら「サークル名です」と言われました。「遠征に来て、この店のスコアを「HYPER」で埋めに来ました」ということなんです。

―― 琴似キャロットにも「HYPER」の人が遠征に来たわけですね。

中川 琴似にも来ましたよ。でも琴似キャロットの常連はレベルが高いので、1回遠征に来てすぐ追い越せるスコアじゃないんですよ。

―― たとえ「HYPER」のかたがたであっても。

中川 そうです。そういう意味では当時の澄川や川沿は琴似と比べると一線級じゃないものも登録されているので、スコアをすぐぬり塗り替えられるんですよ。わたしも澄川や川沿に行って、スコアを塗り替えたことはあります。ただ、琴似で塗り変えるというのは、そう簡単にはいかないんです。

―― ちなみにベーマガやゲーメストにハイスコアが載るというのは、その店のこれまでのトータルでのハイスコアを塗り替えたときなんですか? それとも前回から1か月の間に出たハイスコアになるんですか?

中川 それは2種類あって、最初の頃はその当月でした。

―― 1か月以内のハイスコアということですね。前月のものより低くても、その月のハイスコアであれば掲載される。

中川 途中からルールが変わって、過去のトータルでのスコアを抜かないとみたいな話になりましたね。ただ、ここは店ごとで対応は違うようです。過去のトータルスコアだと毎月載せるスコアが少なくなるという弊害もあるので。

―― インタビューに先立ってお話を聞いたときにも言われていましたけど、当時のゲーセンに入った新しいゲームは3か月くらいで次の新作と入れ替わるということでした。

中川 そうです。入れ替えのスパンは3か月くらいでした。だから3か月以内にハイスコアを出さなきゃならない。3か月経ったら、次のゲームに移るという感じです。

―― 店からなくなってしまうからプレイしようがないのですね。

中川 3か月勝負ですよね。同じゲームがずっと残る状態だと長い期間プレイして、少しずつ上達していくこともできるでしょうけど、当時は3か月しかない中での勝負だったので、けっこう厳しかったですね。

「遠征」によるプレイヤー間の交流

―― 85年だと、中川さんは『パックランド』でスコアが掲載されていますが、この頃もハイスコアを出すに当たってのパターンを作っていくというのは変わらない感じですか?

中川 『パックランド』もパターンといえばパターンなんですが、ゲームの展開によって複数のパターンに分岐するんですよ。初期のゲームのようにパターンがひとつではない。ランダム性があるんですね。当時のナムコのゲームでいうと、『ディグダグ』(ナムコ/1982年)はひとつのパターンを把握すればそれでOKという感じなんですけど、『ディグダグII』(ナムコ/1985年)になるとパターンが複数になってそれに対応できるようにする必要がある。

―― わたしは中川さんたちほどゲームが上手くはないのですけど、最初にハマったのが『ゼビウス』で、当時は独自に攻略していました。『ゼビウス』もプレイ内容によって空中の敵の出現テーブルがランダムに変動するという仕組みでした。だから攻略に当たっては、複数の攻略パターンを臨機応変に対応させる必要がありましたよね。その経験が、他のゲームの攻略にも応用できたというのはあります。

中川 そうそう、『ゼビウス』はそうでしたね。

―― わたしのほうで資料を確認したところ、インタビューのVol.1で少し話があったつきだてさんというスコアラーのかたが、ベーマガの85年2月号にはじめてスコアが掲載されています。そして同じ85年の10月号の時点で「Hyperつきだて」(初期の頃は「Hyper」表記)というサークル名を付けた名前で掲載されている。

中川 そうなんですね。つきだては、けっこういろんな店舗に行く人でしたね。

―― 「HYPER」は小樽のサークルですが、つきだてさんは小樽の人ではない?

中川 当時は札幌の円山に住んでいたんですよ。元々、拠点のゲーセンが澄川キャロットハウスと川沿キャロットハウスでした。そこでスコアを出しつつ、琴似キャロットにも来るようになって、わたしと切磋琢磨する。さらに小樽にも行くようになって、名前に「HYPER」を付けることになったのだと思います。だから、雑誌に載ったつきだてのハイスコアの数ってすごく多くて。いろんな店舗で出しているから、誌面に彼の名前がたくさん載ることが多かった。

―― つきだてさんと中川さんは同年齢くらいですか?

中川 つきだてはわたしより年下ですね。わたしが高校生のときに彼は中学生だったと思います。だから2~3歳、下だったのかな。

―― 先ほど、小樽を拠点にしていた「HYPER」の人たちが札幌に遠征に来ていたと話されていましたが、この頃は中川さんも例えば小樽に遠征に行っていたのですか?

中川 そんなに多くはないですけど、小樽に遠征はしていましたね。そこで交流を深めていったというのはあります。小樽の常連さんたちは、みんな親切なんですよ。「俺らのほうがハイスコアだ」みたいに上から目線の人がいなくて、普通に話してくれる人が多かったですね。

―― この頃はスコアラー同士でも、あまり殺伐とはしていなかったのでしょうか?

中川 どちらかというと殺伐としてくるのは、90年代以降ですよね。80年代はそんなに殺伐としていたというイメージはないですね。

―― 大塚ギチさんが執筆された「TOKYOHEAD」という本があります。90年代の『バーチャファイター』シリーズのプレイヤーに行ったインタビューを元にした小説で、わたしが今行っているインタビューの参考にさせてもらっている本でもあります。大塚さんが亡くなられた後に、海猫沢めろんさんが執筆を引き継いで出された「TOKYOHEAD NONFIX」に中川さんの古い友人でもあるキャサ夫さん(*05)のエピソードが載っているんですよ。キャサ夫さんがはじめて東京の町田のゲーセンに行ったときに、そこの常連に殺伐とした対応をされたという話があって。多少、脚色のある本だとは思うのですが。

中川 でもわかります。よそ者を受け付けないという風潮があるんですよね。キャサ夫が町田のゲーセン「プレジャーキャッスル」に行くのは90年代なのかな。

―― 『バーチャファイター』(セガ/1993年)の1作目は93年稼働ですね。

中川 『バーチャファイター』の直前くらいだと、琴似キャロットでも殺伐としているということはありましたからね。サークルが増えてきたというのもあるのかな。だから対立が起こりやすくなった。それまでは基本、個人プレイでしたからね。

―― 北海道だと「HYPER」が出始めた頃は、まだサークルの数が多くないから、それほど目立った対立構造にはならなかったということなんでしょうかね。つきだてさんの話に戻しますが、つきだてさんは85年からスコアが雑誌に多く載るようになって注目されるわけですよね。

中川 そうです。彼とわたしはライバル関係にあったので、ずっと抜きつ抜かれつという状態です。そういった中で86年になるとわたしは東京に引っ越して、札幌にいなくなるんですよ。東京の予備校に行っていたんです。その間に、つきだては札幌で着々とハイスコアを出していました。

―― 資料を見ると、中川さんはベーマガの86年5月号まで札幌で出したスコアが載っています。次に載るのが87年5月号だから1年の空白期間がある。

中川 そうそう、1年東京に行って、また札幌に戻ってくるんです。

―― ちなみに東京に住んでいたときに、雑誌に中川さんのハイスコアは掲載されたのですか?

中川 その間、スコアは載りませんでした。雑誌にスコアを掲載している店が自宅から遠かったんですよ。琴似キャロットと比べて頻繁に行けなかった。

―― 時間の余裕があるときに、たまに行っていたという感じなんですね。

中川 はい、頻繁にではないですけど、行けるときには行っていました。ゲームそのものから離れてはいませんでしたね。

―― 東京に住んでいたときに、よく行っていたゲーセンというのは?

中川 板橋の清水町にある商店街のゲーセンによく行っていました。あとは1か月に1回くらい巣鴨キャロットに行っていた。そこで上手い人のプレイを見て「あー、すごいな」と感心していました。

―― その頃の巣鴨キャロットは全国的にすごいゲーセンと認識されていますものね。はじめて巣鴨に行ったときの印象は、どんな感じでしたか?

中川 さっきのキャサ夫の話と同じで、すごくアウェイ感は感じましたね。殺伐としていたわけではないですけど、琴似とは雰囲気が違うので。「俺みたいなのがゲームしちゃダメなんだろう」とまで感じちゃって、他の人のプレイをずっと見ていましたね。

―― やはり琴似よりプレイヤーのレベルが高かったですか?

中川 全然レベルが高いですよ。北海道とは比べものにならない。

『アウトラン』の熾烈なタイムアタック

―― 86年だと、セガの体感ゲームは『アウトラン』(セガ/1986年)まで出ている時期ですね。

中川 『アウトラン』は86年後半くらいに出ていたと思います。

―― 資料では、ベーマガとゲーメストのそれぞれ87年6月号に中川さんの『アウトラン』のハイスコアがはじめて掲載されています。

中川 実は、それに関してちょっとした物語があって。

―― 物語?

中川 やまざき拓さんとの物語があるんですよ。

―― 資料を見ると、やまざき拓さんもベーマガとゲーメストそれぞれの87年5月号に琴似キャロットで出した『アウトラン』のベストタイムが載っていますよね。だから、この時期に関東在住だったやまざきさんは北海道に来たときに琴似キャロットへ行っていたのですね。

中川 実は、わたしが87年に東京から札幌に帰ってきたときに、『アウトラン』の攻略を教えてもらったのがやまざきさんなんですよ。

―― 何と、そうなんですか。

中川 わたしとやまざきさんとで同じコースをやっていたんですよ、ゴールCの「STONE HILL」(最終ステージ中央)を目指すコース。

―― 中川さんが『アウトラン』をはじめてプレイしたのは東京にいたときなんですか?

中川 いや、87年に札幌へ帰ってきてから。

―― では、琴似キャロットではじめてプレイした。

中川 そうです。「これはおもしろい」と思って。『アウトラン』はゴールしたときのタイムで雑誌のスコア集計に載るのですけど、まずやまざきさんが出した「4分51秒」がベーマガに載ります。で、この翌月にわたしがそのタイムを抜いたんです。「4分47秒」をわたしが出して、さらに更新した「4分44秒」でもタイムが掲載された。ここから、わたしの「アウトラン人生」が始まったわけなんですよね。

―― 中川さんはまず、まず「STONE HILL」を目指すことから始めたんですね。いわゆる国内版(*06)ですか?

中川 国内版ですね。

―― わたしも『アウトラン』にハマっていたので気になるのですけど、途中のルートはどこを通っていたのですか?

中川 あー、どうだったかな。ちょっと覚えてないですね。最初は左に行くんですよ。

―― えーっと、国内版だから夕焼けのほう(ステージ2左の「WHEAT FIELD」)。

中川 そう、夕焼けのほうに行って。

―― その次だと砂漠(ステージ3左の「DESERT」)かアルプス(ステージ3中央の「ALPS」)のどちらか。

中川 たしか当時は砂漠を通っていた記憶があります。途中でルート変更した気もします。

―― なるほど。砂漠だとすると、左、左と行って、右の夜のステージ(ステージ4左から2番目の「OLD CAPITAL」)に行って、次も右で「STONE HILL」というルートですね。

中川 当時はそのルートだとタイムが速かったのだと思いますが、途中から全コースのハイスコアアタックやっていたので覚えてないです(笑)。それで、ただクリアするだけだったらそんなにおもしろくはなかったのですけど、「ギアガチャ」(*07)というテクニックがあって、これを駆使するタイムアタックにハマってしまったわけです。

『アウトラン』は各ステージの最後にコースが分岐する。プレイヤーは左右、好きなコースを選ぶことが出来る。(※Nintendo Switch版を使用)
ⒸSEGA

―― 「ギアガチャ」は、87年だとテクニックとして有名になっていましたね。

中川 やまざき拓さんも使っていましたからね。「ギアガチャ」を使った攻略がおもしろくて、本当に金を使いました。実際の車が買えるんじゃないかってくらい。まず最初のスタートが重要で(*08)、ここを失敗したらもう捨てゲーですよ。

―― 要はタイムアタックに当たって最速でスタートしなければならないということですね。家庭用のレースゲームならスタートに失敗してもリセットしてやり直せばいいですけど、アーケードゲームだと失敗したプレイに使った100円は捨てるしかないのですね。

中川 そうなんですよ。それで道外のSPREAM-SOLさんというプレイヤーが高い壁だったんです。この人、すごく速くて。

―― 全国1位のかたなんですね。

中川 このSPREAM-SOLさんが名前を全国に轟かせたのが『アウトラン』なんですよ。

―― この「SPREAM」もサークル名なんですね。このサークルは東京ですか?

中川 いや、東北を主軸に置いてたサークルかなと思います。とにかくSPREAM-SOLさんは『アウトラン』のプレイヤーの中では当時有名だった人です。本当に抜けない壁だったので。「STONE HILL」で「4分43秒」出していますよね。このとき、やまざきさんでさえ「4分51秒」だから全然速い。

―― このレベルだと「ギアガチャ」を使うのはもう当たり前なんですよね?

中川 当たり前です。その上でさらに速く走るためのテクニックがわかっていくことがあって。最初は「ギアガチャ」をしながら各カーブのインをついていけばいいという感じだったのですけど、後にアウト側を走ったほうが速い場所が何か所かあることに気付くんです。それでタイムがさらにだんだん縮まっていきました。ステージ間の分岐点もアウト側を走ったほうが速いんですよ。そういう攻略法が見つかっていった。

―― なるほど。1か所アウト側のほうが速いという場所がわかれば、それを他のすべてのカーブで試すことになりますよね。そういう意味でもお金がかかる。

中川 あと特に難しかったのが、左側の2面(WHEAT FIELD)だったかな。2面に木の隙間をギアガチャで抜けていくところがあるんですよね。そこがとても難しかった。

―― わたしはそれほど「ギアガチャ」にくわしくなかったのですが、けっこう奥が深いテクニックなんですね。そもそも「ギアガチャ」を最初に見つけた人は、どうやって見つけたんでしょうね?

中川 どうなんでしょう。わたしは「ギアガチャ」とスタートダッシュはやまざき拓さんから教えてもらったんです。元々は巣鴨キャロットで使っていたテクニックなんだと思います。それらのテクニックを教えてもらったことで、わたしとつきだてとやまざきさんとで札幌での熾烈なタイムアタック競争が始まるんですよ。

―― そうなんですね。

中川 まず「STONE HILL」で誰が最速タイムを出すかということになって。やまざきさんがまず脱落したんですよ。そこからつきだてとわたしとで競っていた。

1987年にタイムアタックが盛り上がっていた『アウトラン』。(※Nintendo Switch版を使用)
ⒸSEGA

―― 最速タイムは難易度によっても変わってくるのですか? 難易度が高いと敵車の数が増えて抜きづらくなりますよね。

中川 琴似キャロットは工場出荷時のデフォルト設定だと思います。それで攻略パターンを作っていたので、他の店で難易度が違うとパターンが通用しなくて苦労しましたね。それと『アウトラン』には海外版がありますよね。

―― 一部のコースの順番が入れ替えられているバージョンですね。

中川 それは最初、全然対応できませんでした。この『アウトラン』を攻略していたときにやり取りしたのが、やまざき拓さんとお会いした最後ですね。これ以降、会っていないんです。

―― 87年までは、ぽつぽつと札幌には来ていたようですね。

中川 そうなんですよ。可能なら、また会ってみたいです。

(Vol.3に続く)

   

インタビュー場所:GAMERSBAR lettuce702
北海道札幌市中央区南6条西3丁目第8桂和ビル4階
X(旧Twitter):https://twitter.com/gblettuce702
TEL:090-9757-1646

本インタビューに当たり、TYR-YETI氏のブログ「小人閑居して不善を為す chapter3」を資料として参照させていただきました。
https://www.inu-inu-yeti.com/

本インタビューは、インタビュー時から約40年前のお話を中川さんにお聞きしました。そのため中川さんご自身の記憶にどうしても曖昧なところが一部ある上でのお話となっています。その曖昧な部分を可能な範囲で補完するための事実確認と資料提供に関して、下記の皆様にご協力をいただきました。こちらにお名前を紹介させていただき、お礼を申し上げます。(氏名五十音・アルファベット順、敬称略)

 見城 こうじ
 佐藤 昌信(GAMERSBAR lettuce702 店長)
 OAM HIDE®
 Show.@OLDゲーマー
 TYR-YETI

脚注

脚注
01 ※AMUSEMENT LIFE
1983年1月に創刊されたアミューズメント専門誌。ビデオゲームに限らず遊園地やエレメカなどアミューズメント全般についての情報を掲載していた。「マイコンBASICマガジン」に先駆けて全国のゲーセンで出されたハイスコアも掲載されていた(83年4月に発売された第4号から)。
02 ※リカバリーポイント
『ドルアーガの塔』に登場するナイト系の敵はそれぞれ固有のリカバリーポイントを持っている。プレイヤーの操作する主人公ギルがナイト系の敵を倒すとリカバリーポイント分のヒットポイントが回復するが画面上にこのことは一切表示されない。
03 ※最初から宝箱が出ているフロア
45階の「エクスカリバー」。最初から出現している宝箱は取らずに、条件を満たすことで新たに出現する宝箱を取ってから最初の宝箱を取ると取得できる。
04 ※やまざき拓氏
1984年、札幌そごうゲームスポットを拠点にしたゲームサークル「札幌南無児村青年団」を創設した初代会長。『マッピー』(ナムコ/1983年)のハイスコアラーとして全国的に有名だった。大学進学と同時に「札幌南無児村青年団」から離れる。二代目の会長となったのが前回インタビューを行った荒木 聡氏。
05 ※キャサ夫氏
北海道・旭川市出身。中川さんとはキャサ夫氏が学生時代から道内のゲーセンで交流があった。上京後、町田のゲーセンを拠点にシューティングゲームのスコアラーとして有名となる。その後、『バーチャファイター』の強豪プレイヤーとして頭角を現す。『バーチャファイター2』ではセガ公認の「鉄人」の称号を受けた6人の中のひとりとなり、テレビや雑誌などでも取り上げられる。「ゲーメスト」、「アルカディア」のライターでもあった。
06 ※アウトラン国内版
『アウトラン』には新・旧の2つのバージョンがある。日本国内では両方が出回ったが、海外では新バージョンのみの流通だったことから新バージョンを海外版、それに対して旧バージョンを国内版と呼称することが多い。国内版と海外版とで、一部のステージの位置が入れ替えられている。
07 ※ギアガチャ
ギアチェンジを連続して行うことで操作する車がコースから外れても速度が低下しなくなるというテクニック。
08 ※ロケットスタート
走行開始前にギアをHiに入れた状態でタコメーターを緑のゲージMAXに合わせておく。青シグナルでアクセルを踏み込むのと同時にギアをLow→Hiと素早く操作すると最高速度でスタートすることができる。

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