昭和の風景インベーダーハウスが平成最後の年に復活!

  • 記事タイトル
    昭和の風景インベーダーハウスが平成最後の年に復活!
  • 公開日
    2018年09月07日
  • 記事番号
    543
  • ライター
    外山雄一

去る2018年8月18日、イベント「INVADER HOUSE 2018」が秋葉原 QLQLcafe(クルクルカフェ)にて開催された。『スペースインベーダー』(タイトー)が登場した1978年から40周年となる今年、それを祝うファンイベントとして有志によって企画されたものだ。

大盛況のうちに終了した本イベントだが、当ゲーム文化保存研究所も資料面などで協力しており、大堀康祐所長がトークコーナーに出演した。今回は運営側での参加となった筆者が、当日の様子をレポートする。

「インベーダーハウス」という言葉に馴染みがない方のために簡単に説明すると、『スペースインベーダー』とその亜種(コピーゲーム、派生ゲーム)だけが並んでいたゲーム場のことだ。インベーダーゲームブームが起こり加熱、収束していった1978~1979年にかけて、全国各地に乱立した。

今回のイベントは、なくなって久しいインベーダーハウスを現代に再現しようという試みで、一般のコレクターが所有するゲーム筐体のほか、高井商会の協力を得て、アップライト/テーブルタイプ合わせて9台の筐体が会場に並んだ。それぞれ約40年前のゲーム筐体/基板は、イベントに向けて整備・調整が施された。当時の操作感で遊べるコントロールパネル、今では製造されていないブラウン管画面はもちろん、スピーカーから筐体全体を通じて発せられる音にも力が入った調整となっている。

1日限定イベントとはいえ、来場者が筐体に100円を投入してプレイする形式とするには、風俗営業の許可を得る必要があるため、今回はコインオペレーションではなくフリープレイかつ入場無料のイベントとして運営された。

当日は自由にゲームを遊べる「インベーダーハウスタイム」の合間に、いくつかのステージイベントを挟みながら進行した。イベント当日の様子を紹介しよう。

当時の貴重なエピソードが飛び出した開発者トークショー

▲1970年代、『スペースインベーダー』の開発当時やブームの様子を語る西角氏(左)と亀井氏(右)

『スペースインベーダー』開発者である西角友宏(*01)、同サウンド基板開発者の亀井道行(*02)を迎えたトークショー第1部では、まずBilly Mitchell氏、Richie Knucklez氏などの海外著名プレイヤーらと、『パックマン』(1980年/ナムコ)開発者である岩谷徹(*03)から届いた、40周年を祝うビデオメッセージが上映された。その後、西角氏、亀井氏が、それぞれの入社時から『スペースインベーダー』の開発時、ブーム当時のさまざまなエピソードを語った(聞き手:おにたま氏)。

▲本イベント主催のOBSLive代表、おにたま氏

当時のタイトーは、子会社であるパシフィック工業でゲーム開発を行っており、西角氏はエレメカ『スカイファイター』(1970年)などの開発を経て、日本初のビデオゲーム開発を手掛けることになる。初期のビデオゲームは現在のようなCPUを使ったものではなく、TTL(*04)を中心とした電子回路で作られていた。西角氏が手掛けた『スピードレース』シリーズ(1974年~)は、タイトー初期のヒット作の一つとなる。

亀井氏は『スピードレース』シリーズ開発中の1976年に入社。最初は生産技術の部署で電源まわりの設計を担当し、その後『スペースインベーダー』開発中の西角氏から依頼を受け、サウンド回路の設計にも携わるようになった。

インベーダーの歩行音は「心臓に響くような低い音」でという西角氏の要望を受けて周波数を低くしたため、初期の筐体ではスピーカーのコーンが破損して音が出なくなるトラブルが多く、後にダブルコーンのスピーカーに交換された。また、西角氏はビームの発射音についても「高音が耳に残るので低くしてほしい」と要望したが、亀井氏は並行してサウンド基板を開発していた『ブルーシャーク』(1978年)の発射音が低めだったこともあって要望を受け入れず、今の音になっているとのこと。西角氏も今の発射音について、「結果的には良かった」とコメントしていた。

実は『スペースインベーダー』のリリース直後に、コインまわりのバグが発覚した。しかし当時はまだ市場に出ていた台数が数百台だったため、修正版ROMへの交換で対応したそうだ。その後、最下段まで降りたインベーダーの攻撃は自機に当たらないという仕様(いわゆる「名古屋撃ち(*05)」の要因)も発覚。プログラム的には修正可能な状況だったものの、営業側からは「このままで良い」という連絡があり、修正は行われずに今の形に落ち付いている。すでにブームが始まり、市場に出ている台数も多かったため、多額の費用がかかる再度のROM交換は会社判断として見送られたのであろう…と西角氏は振り返った。

▲「インベーダーブーム時は部品不足でほかの製造業からのクレームもあった」と語る亀井氏

また、開発現場近くに田んぼが多かったことから、西角氏が 「ドジョウ鍋をやろう」と言い出し、亀井氏が一緒にドジョウを捕まえに行くということがあったそうだ。食堂のおばちゃんに捕まえたドジョウを料理してもらったところ、固くてあまり美味しくなかったとか。当時の自由な会社の風土を振り返りながら、「そんな大らかな土壌があった」という亀井氏。ダジャレを交えた当時の楽しいエピソードも紹介され、トークショーは終始和やかな雰囲気で幕を閉じた。

インベーダーブーム時の様子は…? その時代背景を紹介!

▲大堀所長が「初めて見た!」という『スペースインベーダーPARTⅡ』の純正アップライト筐体

トークショー第2部では、本イベント主催のおにたま氏と当研究所の大堀所長による「スペースインベーダーとその時代背景」が対談形式で披露された。
まず、今回のイベント会場に並べられている9台のゲーム筐体が紹介された。

・スペースインベーダー(アップライト/1978年) ×2 台
・スペースインベーダーM(アップライト/1978年)
・スペースインベーダーPARTⅡ(アップライト/1979年)
・ブルーシャーク(アップライト/1978年)
・T.T スペースインベーダー(テーブル・白黒/1978年)
・T.T スペースインベーダー(テーブル・カラー/1978年)
・T.T スペースサイクロン(テーブル/1980年)
・カプセルインベーダー(テーブル/1979年)

このうち「スペースインベーダーM」は、米ミッドウェイ社(後のミッドウェイゲームズ社)製の筐体で、インベーダーブーム当時、日本国内で販売する筐体が不足したため、急きょアメリカ版を逆輸入して日本語インストラクションカードを追加して発売したもの。

また「カプセルインベーダー」はアイ・ピー・エム(後のアイレム)が開発・製造したもの。UFOから卵(カプセル?)が出て新たな敵インベーダーが生まれるフィーチャーが追加されているほか、特定面をクリアするとコーヒーブレイク(ゲームに直接関係がない休憩)画面が表示される。コーヒーブレイク画面といえば『パックマン』を連想する人も多いと思われるが、これは『パックマン』以前にリリースされている

インベーダーブーム当時ならではのことだが、あまりに需要が供給を上回っていたためにゲーム機の生産が追い付かず、上記のように一部のメーカーがタイトーの許諾を受けて『スペースインベーダー』の製造・販売を行っていた。

▲『カプセルインベーダー』のポスターを掲げる大堀所長

また、それらとは別に無許可で開発・製造された亜種やコピー版のインベーダーゲームも数多く出回っていた。当時はゲームプログラムの著作権の概念が定まっておらず、コピーゲームはすぐさま違法というわけではなかったこともあり、さまざまな亜種が作られた。

つまり、ブーム時に出回った『スペースインベーダー』は純正品、許諾品、無許諾品の3種類が存在することとなる。無許諾品の中には、すでに現存していない中小のメーカーが少数だけ製造したものもあり、今となってはすべてを把握することは不可能に近い。しかし、このコーナーでは1978~1979年に世に出回った一部の亜種が、当時のエピソードを交えながら動画で紹介された。

『南十字星』(発売年不明/日本バーリー)
一部のインベーダーが斜めの弾を撃ってくる、逆さまのUFOが出てきて撃つとインベーダーが増えるなど、意地悪なフィーチャーが追加されており「いじわるインベーダー」という宣伝文句がついていた。
『ムーンベース』(1978年/日本物産)
自機の形や音が違い、UFOが時折逆に戻っていくなどのフィーチャーが追加されている。
『サスペンスインベーダー』(発売年不明/メーカー不明)
通称「口裂けインベーダー」、10点と20点のインベーダーの中央が裂け、その間を通して30点インベーダーを撃つと、画面に花火が上がって5000点が入る。
・SPACE WAR/MUSIC INVADER(発売年不明/サンリツ電気)
自機の形が違うほか、点滅UFOを撃ったとき、自機がやられたときなどに音楽が流れるところが大きな特徴。かなり幅広く出回ったため、覚えている人も多い。
・コスミックモンスター(1979年/ユニバーサル)
自機や敵の形が違うが、それ以外にはあまり違いがない。
・Invader’s Revenge(1979年/ZENITONE MICROSEC)
インベーダーの動きやゲーム性がまったく違い、プレイヤー側のアイテム(?)を持っていくインベーダーを阻止するルールとなっている。

それぞれの亜種は、ブーム当時にインベーダーハウスに足を運んでいたプレイヤーでも初めて目にするゲームもあったと思われる。会場では懐かしさと驚きが混ざった歓声が数多く聞こえた。

▲カラーのブラウン管が高価だったため、初期には白黒ブラウン管が使用された

スーパープレイに歓声が上がったハイスコアチャレンジ!

▲『カプセルインベーダー』を初めてプレイする筆者

イベントも後半、16時30分からは「スペースインベーダー・ハイスコアチャレンジ」が開催。

このコーナーに関しては、前日譚として2016年2月14日に開催された公式競技会「スペースインベーダーチャンピオンシップ」の結果を知っておくとより楽しめる。興味のある方は、スキップシティチャンネルの配信動画を見てほしい。

今回のハイスコアチャレンジは、上述のチャンピオンシップと近いルールで行われた。約30名の参加者は、まず5人ずつ同時に予選プレイ(3分間)を行う。その後、チャンピオンシップ優勝者であるfukkokuya氏とゲストプレイヤーの大堀所長が参加してのシード戦(3分間)、予選上位スコア5名での準決勝(3分間)を経て、決勝戦(5分間)で優勝者を決める。

3分間のプレイでは、効率よくUFOで300点を出せるかどうかでスコアが大きく変わる。上位者は3分間で3000点を、トップレベルのプレイヤーは4000点を超えるが、今回の大会では、予選で3000点を超えたのはわずか2名だった。

1人はスタン斑点(はんてん)氏で、チャンピオンシップ決勝でfukkokuya氏と戦った準優勝者。以前NHKで放送されていた『着信御礼!ケータイ大喜利』のレジェンド・オオギリーガー第31号という経歴も持っている。

もう1人の三枝氏は、気合いが入った「ゲームセンターあらし」のコスプレで参加、予選通過の際にゲーセン椅子の上で華麗に「水魚のポーズ」をキメるほどの、リアル「石野あらし」ぶりだった。

残念ながら大堀所長はシード戦でfukkokuya氏に敗れ、準決勝は事実上3名での戦いとなった。その激戦を制したのはfukkokuya氏で、前大会に続いての二連覇を成し遂げた

現チャンピオンfukkokuya氏の決勝戦でのプレイは、ステージのスクリーンに投影され観戦できるようになっており、並んだインベーダーの隙間を縫って素早く正確に300点UFOを撃ち抜くテクニックに、ギャラリーから歓声が上がっていた。

優勝したfukkokuya氏、2位の三枝氏、3位のスタン斑点氏には、タイトーより豪華商品が贈られ、大いに盛り上がったハイスコアチャレンジは幕を閉じた。

▲壇上に上がった勝者3名(左から、司会のおにたま氏、3位のスタン斑点氏、2位の三枝氏、1位のfukkokuya氏/筆者撮影)

貴重なインベーダーグッズがそろった展示物の数々

▲「それは『ポン』から始まった~アーケードTVゲームの成り立ち 」(2005年/著:赤木真澄)や業界紙「ゲームマシン」にも掲載されたインベーダーブーム当時の写真(アミューズメント通信社提供)

会場のQLQL cafeには、インベーダーブーム当時から現在に至るまでのさまざまなインベーダーグッズに加えて、当時の貴重な写真が展示されていた。写真は、アミューズメント通信社(*06)に残されていたネガフィルムをあらためてスキャンした高解像度なもので、インベーダーゲームで埋め尽くされた新宿ルナパークや蒲田ゲーム場の様子からは、まさに「インベーダーハウス」といった熱気が感じられた。

▲PlayStation2用「筐体型コントローラ」(左)、当研究所メンバー・石黒憲一氏が提供した当時の筐体説明書(後中央)と関連グッズ(右)

展示物のうち、特に珍しい物としては「アイレム・PTシリーズ 卓上ライター」が挙げられる。これは許諾品である『カプセルインベーダー』(1979年)を販売していたアイ・ピー・エムが、ブーム最中の1979年に社名をアイレムへと変えた頃、記念品として作られた物とのこと。

また、上記写真のPlay Station2用「筐体型コントローラー」(2003年発売)は、トークショー第1部に登壇した亀井氏が手掛けたもの。亀井氏は後年、家庭用ゲーム機向けコントローラーの開発に携わっていた。この商品は、内部にアナログコントローラー(DUALSHOCK2)を入れて使用する。

ビデオゲーム史に残る一瞬の、しかし眩い輝き

▲最後に記念撮影。左から大堀所長、西角氏、亀井氏

インベーダーハウスが日本中で営業し、プレイヤーがインベーダーゲームに夢中になった時期は、ビデオゲームの歴史の中ではほんの一瞬、おそらく数カ月のことだった。しかしそれは1970年代の終わりを生きた人々の眼に映り、プレイヤーの心に残る、忘れられない街の風景として確実に存在していた。インベーダーブームがあったからこそ、それを追って各社の新作ビデオゲームが多数開発され、インベーダーハウスがあったからこそ、その後のゲームセンターという業態が形作られた

今回のイベントは、当時の熱狂を振り返って再現するたった1日限りの催しだった。スペースインベーダー40周年イヤーである2018年のうち、わずか7時間のイベントは、当時を知る参加者にとってはほんの一瞬に感じたかもしれない。しかし、同時に忘れられない1日になったと思う。

【「INVADER HOUSE 2018」イベント概要】

※終了しました
【日時・場所】
2018年8月18日(土)12:00開場~19:00終了 ※入場無料 入退場フリー
秋葉原 QLQLcafe(クルクルカフェ)東京都千代田区外神田3-7-2 山口ビル1F

【主催】
主催:OBSLive / 基板大好き
協賛:株式会社ツェナワークス

【協力】
タイトー
アミューズメント通信社
ゲーム文化保存研究所(IGCC)
高井商会
Aztech Corporation

© TAITO CORPORATION 1978,2018 ALL RIGHTS RESERVED.

外山雄一

脚注

脚注
01 西角友宏 : 1944年生まれ。1968年パシフィック工業(当時のタイトー子会社)入社のゲーム開発者。現在はタイトーで顧問を務める。
02 亀井道行 : 元タイトーの技術者。タイトーではハードウェアの設計/開発に携わり、家庭用『電車でGO!』コントローラーの開発にもかかわっていた。
03 岩谷徹 : 1955年生まれ、1977年ナムコ(当時)入社のゲーム開発者。現在は東京工芸大学などで教授を務め、次世代育成に力を注いでいる。
04 TTL : Transistor Transistor Logicの略で、デジタル回路の一種。
05 名古屋撃ち : インベーダーの間に作った安全地帯を利用し、最下段まで引き寄せてから撃つテクニック。ブーム当時に名古屋から広まったため、この呼称になったと言われている。このほか、名古屋は地名でなく、名古屋=尾張であることから「終わり」の隠語で「あと1段侵略されたら終わり」ということから来た呼称とする説もある。
06 アミューズメント通信社 : 2002年までアミューズメント業界紙「ゲームマシン」を発行していた出版社。現在はWEBサイトで業界ニュースを配信している。

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