N is for “NAMCOT” ナはナムコットのナ
目次
『ナムコットコレクション』応援企画、正真正銘のラスボスとしてご登場いただくのは、24年間に渡ってナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)のナムコット事業課にて家庭用ゲームの宣伝広告、商品広報等をご担当なさっていた柘植 卓さん。
正直に言いますと、当初はおすすめタイトルを5本挙げていただき、簡単なコメントをお願いしておりました。
……が、しかし! 少しずつ原稿をいただき、拝見しますと、何だか様子がおかしい(笑)。いつの間にか私小説になっているではありませんか。
あの……柘植さん、個人的なおすすめタイトルを……という企画でして。
「おお、そうかそうか。じゃあ、少し軌道修正して、と……。ま、大丈夫だって!」
……柘植さん、誠に申し上げにくいのですが、全然軌道修正されていないような気がしますが……。
「えっ、そう? がはははは。まあ、いいじゃん」
そんな壮絶な戦いが二ヶ月弱、毎夜のようにくり広げられた結果……ようやく、皆さんにお届けできることとなりました。
――『ナムコットコレクション』応援企画、千秋楽。間もなく開演となります。
プロローグ ~ 侵略者との戦い ナは名古屋のナ
1978年、俺は名古屋でその衝撃を受けた。
当時の俺は浪人生。籍を置いていた名門(?)河合塾・千種校にはほとんど顔を出さず、近くの喫茶店でだらだらモーニングの毎日を過ごしていた。
模擬試験の費用と親からせしめた臨時収入で、『サーカスサーカス』や『ブレイクアウト』に興じる日々だった。
ある朝、タクシーの運転手と思しきワイシャツに黒ベストの兄さんが、勤務明けのテカった顔を紅潮させてテーブル筐体に向かっているのを見かけた。
飲み干したカップがテーブルの脇によけられている。灰皿には着火したまま吸われていないセブンスターが長い灰を作っていた。
ゲームは終わったようだったが、兄さんは席を立とうとしない。
「ミッちゃん、おかわり。あと両替、はようね!」
10枚の100円硬貨がテーブルの右端に積み置かれた。
有線でジョー・サンプルの「虹の楽園」が静かに掛かっている中、蟹のような敵たちのザッザッという侵攻音と、妙に喉元に引っかかるようなミサイル発射時の電子音が響く。
ミサイルを発射してはトーチカに隠れ、発射のためにまた安全地帯から外に出る。
しかし、この安全地帯は、やがて蟹たちの攻撃により次第に崩れてゆく。ときおり現れる円盤、23発目の高得点。
「名古屋撃ち」はおそらく河合塾名駅校あたりの喫茶店で完成されたのではないかと推測する。
ギャラリーが本格的に増えた、そんな演目が『スペース・インベーダー』だったのだ。
ギャラクシアン ~ G is for “Galaxship” ギは銀河船のギ
時は翌1979年。
俺は河合塾・千種校を優秀な成績で修了(笑)し、渋谷の軟派な私大に進んだ。
憧れの東京。酒とバイトの日々。
バンドにディスコにサークル活動にと遊び倒したその冬、試験対策でノートのコピーを交換するため、久しぶりにクラスメイト4、5人が学食へと集まった。
潤沢に小遣いが使える自宅通学生をリーダーに、共通科目のノートを全部収集する我ら。
ノート貸し借りの交渉時、「喫茶店おごってくれたらOK」と切り返してくる秀才くんがいた。
リーダーがメンバー全員と秀才メガネくんを引き連れて、馴染みの喫茶店(夜は居酒屋にもなるようだ)の一角を占拠することに相成った。
もちろんゲームが遊べるテーブル席に陣取る。
(どうせインベーダーだろ、やりたいのは)
その頃、すっかりゲーム熱が冷めていた俺は思ったが、リーダーが100円を投入したゲームは、滑らかで美しい飛行曲線を描いてエイリアンが攻撃してくる、見たこともないゲームだった。
二機、三機と編隊を組んで飛来する、明らかに知性を持った動きをする敵。
背景には多層に星が流れていて(*01)、ちょっとSF映画的だ。
テーブルに貼られている説明書きには、赤と緑のギラつく色彩で『ギャラクシアン』なるカタカナのロゴがあった(*02)。
ノートの複写料金しか小遣いが残っていない俺は、学校通用門の向かいにある雀荘が臨時営業している「コピーサービス仮設店」に行ってメンバー全員分のコピーを取ってくる役目になった。
『ギャラクシアン』との出会いは、わずか数分だけだった。
遊びたい!
後ろ髪を引かれる思いで喫茶店を後にした。
帰宅してコピーを整理、やっつけ勉強に入る前に風呂屋に出かける。
鼻歌で「ROCK with YOU」を歌いながら空を見上げると、オリオンが昇っていた。
ギャラガ ~ 眩しい合体攻撃
1981年 専門課程に移ったことで、俺の大学生活も大きく変わった。
小石川のアパートに引っ越し、学校でもゼミに参加する。
卒論の指導を受けるため、担当教授の元へ週一度は顔を出すようになった。
プライベートでは、参加するパンクバンドのリーダーが住む裏原宿を頻繁に訪ねた。
このころ、渋谷・表参道・原宿あたりが俺のフィールドになっていた。
ある秋の日、前年に遠征ライブを演ったバンド「欠食ドラ猫団」のベーシストから誘いがあり、原宿のゲームファンタジアに夜10時ころ出かけた。
階段を地下に降りる。
ホール&オーツの「I Can’t Go For That」が流れてる。
意外な連れがいた。
八王子の学校のサークルでディーヴァ(歌姫)として名高く、我ら「欠食ドラ猫団」のゼネラルマネージャーをも買って出てくれていた、皆の憧れの女先輩だった。
彼女は学年でいえば2級上、当時もう新宿のインテリアデザイン事務所に就職していた。
一瞬で俺はベーシストの恋の成就を見てとった。
三人で他愛のない話に笑い合う。
しばらくして俺は二人をテーブル席に残し、ピンボールコーナーへ離脱した。
ピンボールに興じるふりをしながら、彼らの様子を遠巻きに窺う。
ベーシスト君、ディーヴァの手をとって『ギャラガ』を熱血指導中だった。
トラクタービーム音(*03)。
「あ、さらわれちゃったぁ」
「へいき、へいき、見てなよ」
ああ、ベーシスト君はディーヴァに対してタメ口を叩いているよ!
俺は終電だから後楽園まで帰ったけど、二人はその後どうしたのだろうか。
そろってチャレンジングステージ(*04)へと進んだのだろうか……。
次に二人に会ったのは、大きなホテルの宴会場、金屏風の前だった。
バーで出会ったホモルーデンス ナはナムコのナ
俺の学生時代、学業はそっちのけでバンドにバイトにディスコに居酒屋。
よくゲームセンターにも通ったが、あまりビデオゲームには手を出していない。
手先が不器用なためか、無駄な力に体重のせスタイルからか、もっぱらピンボールで咥え煙草プレイしていたものだった。
「Bally」の筆記体ロゴこそ認知していたが、セガもナムコも、『スペースインベーダー』のタイトーさえも「ゲームメーカー名」としては認識をしていなかった。
特にナムコは、まさか日本の企業とは夢にも思っていなかったほどだ。
『ギャラクシアン』の入ったアップライト筐体を、渋谷か原宿のどこかで見かけた記憶がある。ビリヤード場だったのかバーだったのか、それともゲームセンターだったか。カッコ良かった記憶。
ヘッドボードからコインバンクまでの縦線の中、モニターコンパネ部への微妙な「くっ」て曲線がシャレていた。
他ゲームのアップライト筐体やテーブル筐体は、みんなひどく味気ないカクカクしたものだったのに。ゲームやるならピンボールみたいに突っ立って遊ぶのがカッコいいのだと信じて疑わなかったころだ。
当時、世間的には10月1日が就職活動解禁日だったものの、実際は学生の拘束がはじまる就職内定の日だった。
就活のために俺も柄にもなく経済新聞など購読していたが、出版社や大手印刷屋を受けて全戦全敗。陰鬱な気持ちで流れ着いた行きつけの安いバーの停まり木。たまたま隣り合わせたIさんという山形県人に紹介された「おっもしろい会社」がナムコだった。
そのころナムコは『ポールポジション』で人気を博しており、Iさんは山形県現地ロケーション採用のかただったと思われる。
ゲームセンターの運営とマシンメンテナンスの集合研修のため上京して、矢口の社員寮に宿を与えられ、そこから研修先に勤務していたようだった。
彼の語る『パックマン』の話、『ポールポジション』の話、ユニークな採用広告『○肉○食は、弱肉強食か焼肉定食か』など、とにかくおもしろかった。
何よりも「ホモルーデンス(人間は遊ぶ存在)」というのが社是であるということは、俺のただれた人生を全肯定してくれる希有な会社に違いないと確信。
どんな職種を募集しているかを確認することもなく、俺はココを受けることにした。
俺は絵も描けないし、プログラムもできない。
電気も機械も理系的論理も、ひとつもわからない。
音楽は下手の横好き。しかも日本語パンク。
ゲームメーカーに貢献できる能力など、何も持ち合わせていなかった。ただただ、この会社のおもしろそうな先輩がたと一緒にやってみたい!
それだけが動機だった。
蒲田の朝日ビルに着くと、あれよあれよという間に社長面接。
「私は神輿を担ぐために尾張から出て来た江戸っ子の一代目、お祭り好きです」とか、ふざけた自己紹介をしてしまった記憶ならばある。
「自分には何ができるかわかりません。でも『アイツ採っといてよかったな』と言われるように頑張ります!」
根拠のない自信に満ちた22歳の俺だった。
すぐに社長から配属先の説明があった。
いかにもクリエイター然とした、口髭でGパンの甲斐敏夫氏を紹介された。
社長は、「よろしく頼むよ」と一言だけ。
配属は、甲斐さんの掌管する部署の一つ、求人の雑誌新聞広告やゲーム攻略の豆本、プーカァ帽子、トコトコプーカなどのノベルティまでを手掛けるマルチプロモーション部署「社長室企画課」だった。
直属の上司は広告企画とコピーのF氏ということだった。
その冬は卒論に苦しんだが、何とか乗り切ることができた。
入社式の4月1日。
リクルートスーツに身を包み、バックギャモンのケースを小型のアタッシェケースとして意気揚々と出かけたところ、俺が行くはずだった「社長室企画課」は廃止されていた。
マッピー ~ 喫茶店に鳴り響くデジタルバンジョー
1983年5月。
この年の新入社員である俺たちが、営業研修として初めて新製品の設置・運営に当たったタイトルが『マッピー』だ。
新人研修は全国の事業所で行われた。
実家からの通勤が認められるというので、郷里の名古屋事務所が俺の研修地となった。
たくさんのテーブル筐体をシングルロケーションに運び込む。
当方で所有するゲーム機を設置させてもらって運営を委ね、売り上げを分配する「レベニューシェア」。
その相手先は、喫茶店やゲームセンター、ボウリング場などだ。
「可愛いもんで女の子にもウケそうだわぁねー」
俺のためにわざわざ淹れてくれたアイスコーヒーを運びながら、喫茶店のマスターが声をかけてくれた。
今でも店内の光景、繁盛具合や匂いまで克明に思い出される。
そしてBGMは、あのデジタルバンジョー。
研修は2ヶ月間だった。
今度は配属先の部署へ出勤する。
社長室企画課は廃止されていたが、後半の3文字がカブる「開発企画課」だ。
そこには、あの『マッピー』の企画者である佐藤英治さんがいらっしゃった。
笑顔がまだ可愛らしい、温厚そうな青年だ。
次回作『ドラゴンバスター』の案出しのため、ときおり部署共有のApple IIで『Wizardry』をプレイする以外は、ずっとデスクで集中して企画作業をされていた。
方眼紙に描き込んだマップを横目に、英さんがダンジョンを慎重に進んでいると、
「ブーーン」
と飛行機のプロペラ音を発しながら赤いバンダナを首に巻いたオーバーオールの青年が現れ、佐藤さんの背後へとりつく。
アーケード版『マッピー』の音楽を担当された大野木さんだ。
新規事業として立ち上がったパソコン(MSXなど)へのコンテンツの移植も、当初はオリジナル作を手掛けたメンバーが担当されることがしばしばのようであった。
MSX『ナムコットゲームセンターシリーズ』の発売に向け、最新のゲームが惜しげもなく移植タイトル候補に上っていたのだ。
大野木さんが開発企画課に頻繁に出入りしていたのも、おそらく縦置きモニタ仕様の『マッピー』を、横置きモニタ前提のPCへと移植するにあたり、仕様のアレンジが必要になったからなのだろう。
だが、そこには「仕事だ打ち合わせだ」という堅苦しさはなかった。
俺の記憶の中の二人は無邪気にじゃれ合い、
「ディオス、ディオス」
「えーい、ティルトウェイト!」
とか、ワイヤーフレーム描画の黒っぽい画面に向かって『Wizardry』の呪文名を叫んでいるばかりだ。
笑顔にあふれた職場だった。
翌1984年晩秋。
ファミリーコンピュータ版『マッピー』を、社員販売でゲットした。
せっかく手に入れたというのに、アパートへ持ち帰る前に、当時付き合っていたカノジョに、ついつい貸してしまった。
彼女のほうが『マッピー』は上手で、BGMも鼻歌が出るほど好きなようだったので。
再び『ギャラガ』 ~ Gaはギャラ蛾のGa
俺がナムコにご厄介になった1983年の開発企画課。
『パックマン』課長、『ギャラガ』係長、『ポールポジション』主任、『ボスコニアン』新人指導社員、『マッピー』先輩、Mr.ドットマン先輩などなどなど……。
輝かしい実績を書ききれないほどたくさんお持ちの、綺羅星の如き先輩がたに囲まれていたのだが……·。
(そんな環境で、俺は名誉ある試作ナンバーを与えられながらも、とっちらかってしまって無駄飯を食い続けていた)
パックマン課長の進取と自由な発想と行動を、安定感もってバックアップする立場にあるのがギャラガ係長。そのギャラガ係長は、業務用ゲーム開発のみならず、PC版→家庭用版移植といった新規事業の土台作りにも貢献していた。
これは後に、アーケード作の移植版開発 → 家庭用オリジナル製品開発へシフトしてゆく、時代に即したプロダクト体制の構築にも繋がっていったのだろう。
MSX版に引き続き、ファミリーコンピュータ版『ギャラガ』のプログラムを担当したのは同期入社の天才、大森田氏(開発一課)。
『ギャラクシアン』が、いわゆる「インベーダーbootleg」を拒んで開発されたこと、『ギャラガ』が「デュアルファイター」や「チャレンジングステージ」といったシナリオ性・緩急のある演出に優れる作品であることを、大森田さんは深く共感し理解していた。
まさに適任だった。
ファミコンという、アーケードゲームに比べれば機能が制限されたハードウェアに移植することは、彼にとってはむしろ本当にやりがいのある仕事だったことだろう。
蒲田朝日ビルで行われたMSX版だったかファミコン版だったかの受注会の日。
大森田さんが、完成直前の試作基板を使った試遊展示台の前で珍しくスーツ姿だったことが思い出される。
問屋さんたち相手に、緊張しながらも自信いっぱいで説明をしている。
ナムコット事業課からの説明員応援要請に、移植担当者自らが対応していたのだった。
ファミコン版の『ギャラガ』は、我が家にあっては当時のバンドメンバーのギタリスト君が不退去の日々を繰り返すほどハマり、まだ結婚前の妻の実家にあっては義父が数日の寝不足プレイの後「柘植さん、ゲームは時間を奪うものだねぇ」としみじみと語ってくれたほどの出来映えなのだ。
開発には何も関わってはいないが、俺も自慢の一本だ。
ギャプラス ~ 大阪の星空は逆スクロール
1984年3月25日。
大阪SABホール壇上のスクリーンには、流れる星を背景に赤い社名ロゴが浮き上がる映像が掛かっていた。
開発中の試作機『ギャプラス』の映像を世界初公開 =「ゲーム画面初出し」。
ナムコ一社提供のラジオ番組「大橋照子のラジオWAアメリカン」のファンイベント(*05)のコーナーのひとつとして行われたのだ。
現バンダイナムコ研究所を率いる中谷先輩の企画デビュー作は、翌月の発売を目前にして、東京は大田区の開発ビルで最終調整の只中にある。
俺が今朝ギリギリまで徹夜で編集をしていた動画に、息を呑み食い入る600人ものファンたち。
自機が自由に(8方向に)宇宙画面を移動して敵ミサイルを避けるあたりでざわめきが起きる。
敵機を左右に二機ずつ従えたファランクス攻撃のシーンでは、満員の会場全体がどよめく。
背景の星空がいきなり逆方向に流れ出すparsec 4の展開にまた満場が唸る。
同期入社の楽聖・小沢純子さんの手によるBGMが不安感を掻き立てる。
同期入社の天才・篠崎画伯の描く敵オリジナルキャラクターにも驚きの声が上がる。
後にそれぞれの道で巨匠となる、自慢の同期生の二人。
彼らの功績は、デビュー戦から実に輝かしいものだった。
蛇足だが、このプロモーション動画、冴えない低音のナレーションは俺の声である。
イベント最後列の座席で恥ずかしさも忘れてぼんやりとしていた俺。
稚拙なシロウト仕事にもかかわらず「映像がファンに受け入れられてもらえた!」というヒリヒリとした悦びの痺れを、体全体で感じてた。
俺はこのとき、生舞台イベントの虜になったかもしれない。
脳内ではボウイの「Let’s Dance」が響いていた。
これには、ちょっとした後日譚がある。
ひとつめ。
この動画は、後に社長室映像プロジェクトの大西氏の手により許諾出版されたVHS映像ソフト「ナムコの伝説」(*06)に収録された。見本盤は当時付き合っていたの妻の実家に奉納した記憶。
ふたつめ。
大阪出張となったラジアメのイベント参加の翌日、代休を取った。
同じく出張していた同期のひとりが市場調査に行くという「ひらかたパーク」にくっついて行った。
自分の部署には、まあ内緒で。
そのくっつかれた同期、カーリーヘアのスリムな美女が現在の妻である。
デジタル・デビル物語 女神転生 ~ 背徳の合体とコンゴトモヨロシク……
1987年春。
ナムコット事業課にいた俺は、神に感謝した。
独特の伝奇的な神話世界観を持つ、和製『Wizardry』と呼んでもいいほどの作品が、我々の取り扱い商品として目前で完成しようとしていた。
アーケードオリジンのアクションゲームを得意とする当時のナムコでは手を出さなかったジャンルだ。
当時のナムコット事業課・浅田課長の人脈~業務用販売ネットワークから、社内制作ではなくアトラス社が企画・開発を担当する本ゲームだが、基本的なハードウェア対応チェックや、特殊なプログラム上の問題などの対応策といったものはナムコが担当。
骨格部分にナムコのテクニックが用いられてはいるが、ゲーム仕様に沿ったプログラム部分については、この開発会社が品質管理・デバッグを行っている。
とはいえ、開発終盤ともなれば、我ら販売サイドも毎日早朝に届けられる新たなロムにて動作確認することが日課となるのも当然のこと……。
柔軟な発想で知られる課長は有志を募り、通常業務終了後も徹底的にバグチェックする「徹デジ隊」を組織した。
ご自身は「夜でも浅田です」の名言を残し、次なるビジネスパートナーと打ち合わせの延長戦にお出かけになってしまうのだが(笑)。
そのおかげで、俺もまんまと発売前ゲームを遊び倒して暮らす、夢の会社員になった。
しかも深夜残業代までいただいて。
要領の悪いヌルゲーマーの俺は、ダイダロスの塔(1面)担当となった。
ミコンの街&ダイダロスの塔、そして戦闘画面でのBGMは多分、生涯で最も聴いた曲ベスト3になるだろう。
どれだけ聴いても飽きることのない、ハードロック的な名曲の宝庫。
ハッキリと感じる「やった/やられた感」、炎の腐海でザクザクと体力が削られる恐怖……。
さらには、臨場感たっぷりの効果音がゲームを盛り上げる。
サウンドは初代メガテンの「買いポイント」のひとつだと、今も断言できる(*07)。
いったいどんな神々の混沌がこのゲームに祝福を与えたのか……。
企画の独自性、先進性には痺れたなぁ。
コマンド選択型RPGの戦闘の(特にザコ敵との)ダルさを吹き飛ばす「オート戦闘」コマンド。
敵悪魔との交渉により、それまで敵対していた怪物どもを味方パーティに加えられる「仲魔」システム。
そして……えも言われぬ背徳感に満ちた「悪魔合体」システム。月齢。
他を以って替えがたいエモーショナルな敵との関わり合いが、このRPGには満載されていたのだ。
『Wizardry』を遥かに凌駕する規模の3Dダンジョンは「マッパー」の呪文はあるものの、やはり方眼紙に一歩一歩描き進めていきたい手強さを持っている。
プレイヤーの好奇心や想像力を掻き立てる機知に富んだシナリオや、和語を下敷きとした秀逸な魔法ネーミング。
根幹をなす原作・西谷史氏の悪魔召喚の発想から、幾重にもサイケに上書きされたファミコン版の混沌世界は、間違いなく当時の「サブカルチャー」を牽引するパワーがあったと信じている。
1987.9.11。
忘れることのできない、あの日。
天才的企画と職人的グラフィック、そしてHMサウンドの「合体」による魅惑のゲーム誕生の瞬間を、俺はこの目で見ていたのだ。
ワギャンランド ~ 大噴火の大怒島も今や楽園
1987年、同期の天才「悪だくみ」ガールこと和田久美嬢がやってくれた。
「新人類最后の日来たる!」のキャッチコピーも勇ましく、’50~’60年代怪獣映画広告風のレトロ感覚ポスターがナムコ本社、関連施設、直営ゲームセンターに張り出された。
THE EMOTIONAL WEAPON “WAGAN”の登場である。
「人間の叫び声に反応する、体長30cmのユニークな怪獣。大声をぶつけると、ビックリしてひっくり返るが、気合いが足らないとバカにしてせせら笑う習性がある ~(ワギャン販促用パンフレットより)」
当時、俺の所属していたナムコット事業課は、大田区多摩川二丁目にあったナムコ営業本部ビルに入っていた。
「ワギャンが遂に営本(営業本部)に設置されるぞ」という情報を聞きつけ、一階の商談ロビーへ駆け降りて見ると……。
モスグリーンのちっこい体にクリクリとした大きな黒目が愛らしい二頭身のメカ怪獣が、仰々しく「危険」「DANGER」などと貼り紙された鉄檻に閉じ込められていた。
見た目のギャップに思わず顔がほころぶ。
以降、この怪獣型の大声測定器は、エレメカ発のキャラクター展開を繰り広げることになる(*08)。
同1987年には、玩具「ワギャン」と「ワギャナイザー」が同時に市場投入された。
玩具のワギャン・シリーズは、下町・大田区の町工場の夢と意地の結晶だ。
「龍馬くん」、「がんこ職人」などに続くナムコ・エモーショナル・トイとして、玩具流通に主にお取り扱いいただくことになった(玩具問屋さまとはファミリーコンピュータ用カセット販売で絆を深めていた)。
時は流れ、1989年2月。
またも同期がやってくれた。
ゲーム企画のヒット請負人、水野一実氏である。
くわしい経緯と布陣は機密につき俺も知らないが、彼のプロデュースでファミリーコンピュータ用『ワギャンランド』が世に問われることになった。
当時の時代背景として、生産リードタイムの長いロムカセットは、発売の2ヶ月以上前に受注が締め切られていたのが一般的だった。
しかし、任天堂にOEM生産を依頼せず、独自の生産ラインを持っていたナムコット製品は、当時、量産発注ギリギリまで作り込むことが恒常化していた。
そういったこともあり、受注時にはプログラムが完成していないことも多く、試作途中のバージョンからプロモーションビデオ等を作り、流通さまに見ていただくことになる。
ゲームの実物を見せられず、ビデオなどでゲームの雰囲気や楽しさを伝えることは、考えるまでもなく難しい。
定番のアスレチック・アクションゲームに分類されるうえ、ボス戦は「しりとり」「神経衰弱」などの知能ゲーム風。そんな売れセンの内容にもかかわらず、『ワギャンランド』の注文数の伸びは芳しくなかった。
数が見込める業務用ゲームの移植作でもない。
玩具ワギャン・シリーズが突飛すぎて売るのに苦しんだという記憶も問屋スジにはあるのだろう……か。
ところが、突然、風が吹いた。
発売日近くなって、華やかな原色のカラフルで楽しい映像とレゲエソングで構成したTVCMが掛かるようになると、追加追加の注文FAXが日毎に飛んでくるようになったのだ。
発売直後、久しぶりに本作プロデューサーの水野氏と会社帰りに一杯やった。
有線ではボブ・マーリーが掛かっている。
「アレはCMで売れた」……なんて心ない台詞が、ついつい口から出てしまったせいで、水野氏と取っ組み合いになったことも今となっては良い思い出である。
外部スタッフを指揮・管理して老若男女にウケる家庭用オリジナル作品を世に出した、同期たろすけ(水野氏のニックネーム)の苦労をねぎらいもせずに自分語りをしてしまったことをこの場を借りてお詫びしたい。
かずぅ(こちらも水野氏のこと)、あのときはゴメンな。
結果、多くのかたがたのお手元にお届けすることができ、そのおもしろさは理解、評価された。
エピローグ ~ ナはナムコットのナ
本家『ワギャンランド』発売当時は、まだ半歳と妻のお腹の中にもいなかった娘らが、Nintendo Switch本体の購入権をゲットして我ら夫婦にプレゼントしてくれたのは、この夏のこと。本体を持っていないというのにソフトだけは発売日の6月18日(*09)に購入していた『ナムコットコレクション』を初ブート。
迷った末に、まず最初にプレイしたのが『ワギャンランド』だった。
家族をギャラリーにして「しりとり」や「神経衰弱」の応援掛け声を受ける。
昔、夢見ていた一家団欒とはこういうことだったのか。
が、栄誉はこのときだけだった。
妻は今日もハイラル警備に勤しんでいて、コントローラーを渡してはくれないのだった。
了
【おことわり】
ほとんどを資料との照合なく記憶を頼りに書いてしまっているため、事実誤認や思い込みによる誤謬等あることが考えられます。また、筆者の思い至らぬところでどなたかを傷つけていることもあるかもしれません。そこはそれ、「私小説みたいなもんだから」と割り切ってスルーしていただくか、誤りのご指摘をいただければ幸いです。web公開という性質上、訂正は比較的容易かと思われます。ご指摘・ご感想はIGCCメディア編集部までお寄せいただけますと幸いです。よろしくお願い申し上げます。
ⒸBANDAI NAMCO Entertainment Inc.
脚注
↑01 | 背景の静かに流れる星空は、キャラクタ書き換えでもスプライトでもなく、オリジナル基板上のハードで点滅移動表示をさせている。非ソフト描画部分。 |
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↑02 | ナムコ初のシューティングゲームにして、日本で初めてオブジェクト(スプライト)機能を持ったゲーム。位置座標とドットグラフィックの組み合わせで滑らかな動きや回転などの表現を可能とした。 |
↑03 | ボスギャラガの発射するトラクタービームに自機が触れると、敵陣の後方まで連れ去られてしまう。しかし、連れ去られた自機を引き連れて攻撃してくるボスギャラガを倒せば、自機は奪還できる。 それだけではない。取り戻した自機は攻撃中の自機と合体し、デュアルファイターとして攻撃力が倍増するというドラマチックなシナリオが盛り込まれているのだ。 ただ、最後の自機を連れ去られればゲームオーバー。また、捕虜となっている状態の自機はプレイヤーの発射するミサイルで破壊されてしまうという、混み入った仕様もあり、プレイヤーを一喜一憂させた。 |
↑04 | 敵攻撃が一切ない、高得点が狙えるチャンスタイム。撃って撃って撃ちまくれ! 高速で飛来する毒蛾船団を”一匹”も逃さず殲滅するたためには、デュアルファイターでの合体攻撃が必要となる。 |
↑05 | スポンサー的メインイベントはファン参加の『リブルラブル』ゲーム大会。優勝者には金メッキ特殊仕様のMSXカセット『03.ギャラクシアン』が中村雅哉社長から手渡されたという。俺はその光景を見逃してしまっているが。 |
↑06 | VHS 映像ソフト ナムコの伝説 THE LEGEND OF NAMCO 発売日:1986/10/05 型番: VTG-205 JANコード:4988002103898 |
↑07 | このとき、メガテン音楽を聴きすぎた俺は、後に『女神転生 I II』(ビクター音楽産業)の制作に大きく口を挟むことになる。このサントラ&アレンジCDは、1991年発売された。 音楽CD 2枚組 女神転生I・II 召喚盤・合体盤 発売日:1991/12/16 メーカー品番: VICL-40029/30 JANコード:4988002246533 |
↑08 | ナムコ・エモーショナル・トイ商品群は玩具流通以外に、ギフトショー系ファンシー流通にも販売をしていた。また、ナムコット・ファミリーコンピュータ用カセットは玩具流通に加えてMSXソフトの流通でお世話になったPCソフト流通(特に電波新聞社様ルート)にも納入させていただいていた。 |
↑09 | そういえば1988年6月18日、おもちゃショー@晴海東京国際見本市会場・最終日(一般公開日)が、柘植家の長女の誕生日。何となく関連する気がして(※注)を入れてしまった。 |