ゲームとシンクロして動く体感筐体に大興奮! 『スペースハリアー』
目次
昭和の時代をゲームセンターで過ごしたファンにとって、1985年は大変思い出深い年といえるのではないでしょうか。
風営法の大幅改正(*01)が施行された同年2月に、24時間営業のゲームセンターが姿を消すという、アーケードゲーム業界にとって激動の冬を迎えることになったこの年。そのネガティブな出来事に反発するように各メーカーが奮闘し、『魔界村』(カプコン)、『影の伝説』(タイトー)、『グラディウス』(コナミ)、『ドラゴンバスター』(ナムコ)など、現在まで語り継がれるような「名作」と呼ばれるゲームが多数登場しました。
1983年大ヒットタイトル『ゼビウス』(ナムコ)の影響を受けた縦スクロールシューティングゲームの模倣というゲームデザインから脱却が見られ始めたのもこの頃です。各社が新しいタイプのゲームを数多く輩出する中、セガはその1歩も2歩も先を行き、ゲームの楽しさを全身で味わう「体感ゲーム」というジャンルをこの1985年に打ち立てました。同年7月には、体感ゲーム第1弾となる『ハングオン』をリリース。そのわずか5カ月後となる12月に第2弾として登場したのが、本稿で扱う『スペースハリアー』です。
ゲームとシンクロして
可動もシートベルトも備えられたローリング・タイプ筐体
『スペースハリアー』が登場した頃はまだ、「体感ゲーム」という言葉は使われておらず、大型筐体ゲームの発展型という位置づけでした。セガはそれ以前から大型筐体のゲームには力を入れていて、古くは『モナコGP』(1979年)や『スペースタクティクス』(1980年)などにその傾向が見られます。また、『ヘビーウェイトチャンプ』(1976年)や『マンTT』(1976年)といった「体感」的な操作を味わえるタイトルもあり、『ハングオン』はある意味その究極形と言ってもいいでしょう。
『ハングオン』が、“プレイヤー自らが筐体自体をコントローラーとして動かす”という、リアルな操作を体感するゲームだったのに対し、『スペースハリアー』は、“プレイヤーの操作にシンクロして筐体がモーターの力で動く”という、『ハングオン』とはまた違った体感のおもしろさを実現したゲームだったのです。
筆者が最初に『スペースハリアー』と遭遇したのは、渋谷の「ゲームファンタジア」(現「アドアーズ渋谷店」)だったと記憶しています。入口のすぐ横に置かれていた独特の形の大型筐体には、操縦桿(そうじゅうかん)とモニター、そして、安全のためのシートベルトが備えられていたことに驚きました。
画面の主人公ハリアーの動きに合わせて筐体が動く様子は、遊園地のちょっとしたアトラクション以上のインパクトがあり、入場料のいらないゲームセンターで1回200円(稼働当時の標準プレイ価格)で遊べることに、なんともいえないうれしさを感じたのでした。ちなみに、筐体は可動する大型の「ローリング・タイプ」と、可動しないコンパクトな「シットダウン・タイプ」が存在していました。
グラフィックカラー3万2,000色で描かれた、疑似3Dの「ドラゴンランド」
稼働当初は動く筐体の斬新さに惹かれてプレイすることが多かったのですが、それが少し落ち着いてくると、本作の世界観やゲームシステム、そしてサウンドの完成度の高さにも気づかされます。
本作は、超能力戦士であるハリアーが、大空や大地を超高速で飛行・走行しながら迫り来る敵をキャノンで撃ち落としていくシューティングゲーム。疑似3D表現による迫力の戦闘シーンが展開されます。「キャラクター容量1.2メガバイト+グラフィックカラー3万2,000色」をセールスポイントに掲げ、中間色を使って描かれた美しいキャラクターや背景、そしてそのスピード感も見どころとなりました。
ゲーム雑誌『Beep』1986年2月号の紹介記事では、企画当初、主人公ハリアーはヘリコプターで、その後戦闘機となり、最終的に人間の姿になったという経緯を、本作の開発を手がけたゲームクリエイター鈴木裕氏(*02)が語っています。1985年10月の「アミューズメントマシンショー」に本作が初めて出展されたときまで自機は戦闘機だったそうで、2018年12月20日に配信されたインターネット生放送『OBSLive』にて、当時を撮影した貴重な映像が披露されました。
本作の舞台となる「ドラゴンランド」はファンタジーとSFの中間のような世界観が設定されており、さまざまなキャラクターが登場します。最初に遭遇する昆虫のような戦闘機「ムカデンス」、当時の関係者がモデルだという噂の人面岩「アイダ」、浮遊するキノコのようなクラゲ「ルーパー」、高速移動ステージに現れる正20面体「ビンズビーン」、近年「ドム」から改名された三つ目のロボット「バレル」など、見た目も動きも非常に個性的で、その多くが独自の効果音を伴って出現します。ボスもまた個性派ぞろいで、プレイヤーを最後まで飽きさせない全18ステージが展開していきます。
ゲーム中、敵から撃ち出される弾はハリアーを正確に狙ってくるため、動いていれば当たらないという攻略が成立します。さらに、ハリアーが繰り出す弾は敵を正面に捉えて(このとき「ピン」という効果音が聞こえます)、撃つと緩やかにホーミングして敵に当たるという性質を持っているので、敵の挙動をトレースするように常に動いて連射していくことが、ベーシックな攻略法となります。
また、ボスは弾を多く撃ってきますが、大きく円を描くように動きながら攻撃することで、敵弾を避けつつ攻撃が可能です。ただし、障害物にはその攻略が通用せず、破壊できないものもあるため、(敵か障害物かを)しっかり見て回避する必要があり、障害物が多いステージは総じて難しくなっています。
ちなみに、筆者が初めて1クレジットでエンディングを見られたのは、稼働の翌年、「新宿プレイランドカーニバル」でした。自機のストック数が多めに設定されていたことで、念願のゲームクリアを実現できました。
本作のサウンドは、現セガ・インタラクティブ所属のサウンドクリエイターHiro師匠こと川口博史氏(*03)が作曲を担当。ゲームにマッチした疾走感のあるメインテーマが印象深く、いくつかのステージでは再生箇所を変えることで、同じ楽曲ながら違った印象を受ける演出が施されていました。以前執筆させていただいた『Beep』の記事で紹介しているソノシート収録の1曲目も、この本作メインテーマでした。
数々の家庭用ハードに移植され遊ぶ機会も多い本作。しかしアーケード版は絶滅の危機に…
『スペースハリアー』といえば、現在までに非常にたくさんの家庭用ゲーム機やPCなどに移植されたことでも知られています。オリジナルのアーケード版を見たことがない人でも、移植版を遊んだことがある人は多いのではないでしょうか。
その先駆けとなったのが、本作の稼働翌年(1986年)に発売されたセガ・マークⅢ(以下、マークⅢ)版です。同じく1986年発売のマークⅢ版『ファンタジーゾーン』(セガ)から同機のユーザーとなっていた筆者は、その発売の知らせに驚喜したものです。オリジナルの最終ボス「HAYA OH(ハヤオー)」の追加や、裏技による戦闘機モードも収録されたこのマークⅢ版は、プレイステーション3で配信中の『PS2アーカイブス スペースハリアーⅡ ~スペースハリアーコンプリートコレクション~』(2012年)で、現在もプレイすることができます。
変わったところでは、マークⅢの後継機である国内版セガ・マスターシステムにソフトを挿入せず電源を入れると、本作のメインテーマが流れるという仕様がありました。このサウンドはFM音源で演奏されていて、マークⅢ版のBGMがこのクオリティだったら最高だったのに…なんて思ったこともあります。
近年では3D立体視でプレイできるニンテンドー3DS版の『3D スペースハリアー』(2012年)や『セガ3D復刻アーカイブス』(2014年)収録の『スペースハリアー(セガ3D復刻アーカイブス収録バージョン)』『スペースハリアー3D』が知られていますが、PS4向けの『龍が如く6 命の詩。』(2016年)にもミニゲームとして収録されているため、HDMI環境下でのプレイも容易です。さらには、Nintendo Switch『SEGA AGES』シリーズでの配信も決定しています。
今でもさまざまな移植版でプレイできる『スペースハリアー』ですが、オリジナルのアーケード版はというと、リリースから30年以上が経過する現在、特に可動する状態のローリング・タイプ筐体はほとんど見る機会がなくなりました。動く筐体でプレイする興奮が味わえるのは、このオリジナル版ならではなので、もし何かの機会に可動する筐体と巡り会えた暁には、必ず遊んでおくことをおすすめします。
※記事中のゲームプレイ画面はすべて筆者撮影のものです。
ⒸSEGA
脚注
↑01 | 風営法の大幅改正 : 1984年8月に改正、翌年2月に施行。名称が「風俗営業等取締法」から現在の「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」に改められ、ゲームセンターも規制対象に。24時以降の営業禁止と年齢による入店時間の規制が設けられた。 |
---|---|
↑02 | 鈴木裕 : セガのアーケードゲームを支えたゲームクリエイター。1983年にセガ入社以降、『ハングオン』(1985年)や『スペースハリアー』(1985年)をはじめとする体感ゲームや、3D対戦格闘ゲーム『バーチャファイター』(1993年)など、多数のヒット作を手がけた。現在はYS NET代表取締役。 |
↑03 | 川口博史 : 1984年にセガにプログラマーとして入社し、後にサウンドクリエイターへと転身。入社翌年には『ハングオン』(1985年)や『スペースハリアー』(1985年)などのサウンドを手がけ、同社を代表するサウンドクリエイターとなる。「Hiro」または「Hiro師匠」の愛称で現在も活躍中。 |