アーケードゲームが輝いていた時代を駆け抜けた男! 坂本慎一氏インタビュー 中編

  • 記事タイトル
    アーケードゲームが輝いていた時代を駆け抜けた男! 坂本慎一氏インタビュー 中編
  • 公開日
    2019年02月08日
  • 記事番号
    853
  • ライター
    こうべみせ

アーガス』(1986年/ジャレコ)や『ワンダーボーイ モンスターランド』(1987年/セガ)など、数多くのゲーム音楽を手掛けてきた坂本慎一氏。2019年2月23日に大田区産業プラザPiOで開催される「東京ゲーム音楽ショ―2019」への出展も決定し、ますます坂本氏の活躍に目が離せない。そんな坂本氏へのインタビュー前編では、テーカンで働くことに迷いを感じ始めた頃までのエピソードを伺った。

そんな時期に、テーカンを退社して日本マイコン開発(後のNMK(*01))を立ち上げようとしていた琴寄幸雄(*02)氏に声を掛けられる。言われるまま、坂本氏はNMKに活動の場を移していくのだが、そこで得たものは非常に大きかったそうだ。

中編となる今回は、坂本氏にとって実り多い時期だったというNMK時代のお話を伺っていく。

※本稿では便宜上、日本マイコン開発時代もNMKの名称で記述しています。

【聞き手】
ゲーム文化保存研究所
所長:大堀 康祐
ライター:こうべみせ

創業間もないNMKで会社のスタートアップを経験

――坂本さんがちょうど(テーカンで働き続けることを)迷い始めていた時期に、タイミングよく琴寄氏から声がかかった感じですね。

坂本 僕はノンポリな性格もあったものだから、必要としてくれる場所があればどこへでも行っちゃう感じでしたからね。でも、日本マイコン開発に入社してみたらほかに人がいないんですよ。人がいないといっても、(後の会社名となる)NMKの頭文字が由来となった創業メンバーの中里さん、牧さん、琴寄さんの3人と僕だけみたいな状態で。だから入社したら人を集めるところから始めました。

――そんな少人数体制だったんですね!?

坂本 初めはハードウェア2名、ソフトウェア1名の体制だったんですね。中里さんだけがソフトをやっていたのかな。で、僕が入社して、ほかに誰も現場にいない。僕が一番下で、創業メンバーとは14、5歳くらい離れていました。

とにかくほかに人を入れなくちゃいけないっていうんで、東京デザイナー学院とか代々木アニメーション学院とかに求人票を配りに行きました。「NMKという会社で働く人を募集しています。アルバイトでもいいですから」って感じで。

求人の次は、備品を買ったり掃除したり、経理的な数字を見たり、全部自分たちでやらなければいけなかったですね。でも、それが良かったなって思っているんです。ゲーム作りだけじゃなくて会社作りも経験できましたし。

大堀 会社運営の経験ができたのが大きかったと。

▲「18歳で会社のスタートアップをリスクなしに経験できたことは大きな経験になった」と語る坂本氏

坂本 そのようなことを、今度は18歳からやったわけですよ。僕は別にそこの役員とかになっていたわけではないんですけど、法人税はいくらとか、コストはいくらだとか、お金の流れが大体分るようになりました。

それまでは本当に開発のことしか頭になくて、自分がどうやって給料をもらえているのか、原資がどこにあるのかってことを、全然分かっていなかったんですよね。アルバイトを雇うにしても、時給設定とかすごいシビアに考えるんですよ。いくらだったら払っても大丈夫かな、(アルバイトの人たちが)来てくれるかなって。

小さな会社作りを経験するところから始めたんですが、会社に出資しているわけではないし、役員でもないから、リスクはないわけですよ。その辺もありがたかったなと思います。

大堀 じゃあ、発起メンバーのNMKの頭文字に名前は入ってないけれど、ほぼ創業から在籍していたということですか?

坂本 最初からいましたよ。それこそ、流し台の三角コーナーやゴミ袋を買い揃える辺りから、僕が担当していましたから。

大堀 なるほど。ちなみにNMKはメーカーからの独立組が作った会社ですよね。

坂本 カプコン辞めて来た人とかですね。

大堀 会社ができたときに、1本目のゲームタイトルは受注済みだったんですか? それとも、まずは会社をとりあえず作ってから受注しようって感じだったんですかね?

坂本 NMKの皆さんはパワーがすごかったのは確かで、もうジャレコ(*03)から開発費はもらっていましたね。会社を作る前提でジャレコが出資してくれていたっていうか、とりあえず単月黒字になるまでは面倒を見てくれるようになっていた。そんな世界を17、8の年齢で知るのって、すごくないですか?

ジャレコからの厳しいリクエスト

▲坂本氏がNMK時代に最初に手掛けた『アーガス』(画像はシティコネクション提供) ⒸCITY CONNECTION CO., LTD

――(そういう事情もあって、)NMKがジャレコで販売するゲームを作っていたということですね。『アーガス』や『バルトリック』(1986年)、『サイキック5』(1987年)とか。

坂本 そう、だからあの辺のタイトルはずっとジャレコ。「難易度をとんでもなく高くしてほしい」というのがジャレコの意向で。僕らはもっと違うようにしたかったんですが…

大堀 「プレイヤーをワンコイン3分で倒せ!」と(笑)。

坂本 インカムを上げるためには高難易度にして(プレイヤーを)倒すしかないみたいな。ただ、こちらも開発中にずっと遊んでいるとだんだん難しさに慣れてくるんですよね。

大堀 難易度の感覚が麻痺してくる

坂本 麻痺してきますね。本当にどのゲームもそうです。特にシューティングゲームかな。筐体に連射機能を付けて、片手でプレイしながら開発機材をいじるんですよ。その状態で慣れてしまい、だんだんうまくなっていく。だから全然レベルデザインができてないことになる(笑)。

大堀 1本目のタイトルはやっぱり『アーガス』ですか?

坂本 『アーガス」ですね。ハードを担当したのはNMK創業メンバーの牧さんで、その牧さんの前職がカプコンだったんで、『戦場の狼』(1985年/カプコン)に似たスペックの基版でした。

当時はビデオゲーム基版よりPCの方がスペック低かったんで、キャラクターを作るツールとかも力技でしたね。PCだと色数少ないし、パレットの概念もありませんでしたから。どうしたかというと、基板側にCGエディットプログラムを載せて、ジョイスティックを使ってドットを打っていました

大堀 そういうツールで作っていたんですか。

坂本 完成したドット絵はEPROMに焼くんですよキャラジェネ(*04)方式で焼いて、そのデータはそのまま本番でも使うみたいなやり方をしていて。テーカン時代とは違ったんだけど、これはこれでありだなと思っていました。

テーカンのときはPC-8001(*05)を改造して色数を増やすようなことをして、それでドットを打っていたんですけど、セーブするのはやっぱりROMでしたね。今日はここまで仕事したって感じでROMに焼いていました。たまに読めなくなることもあったけど(笑)。だから2、3個焼いておくんですよ。

大堀 保険をかけたんですね(笑)。

坂本 テーカンではそういうことをずいぶん長くやっていたんじゃないかな。たぶん『テーカン・ワールドカップ』(1986年)とかを作っていたときもそんなだったと思います。当時はまだ安定した記憶媒体がなかったんですよね。

大堀 『アーガス』ではプログラムのどこを担当したんですか?

坂本 ランディングとか。あとはサウンド周り。

大堀 ドゥドゥン、ドゥンドゥドゥン…(『アーガス』のランディングシーンBGMを口ずさみ始める)

坂本 そうそう。なんで曲知っているの? 気持ち悪い(笑)。

一同 爆笑

脚注   [ + ]

01. NMK(エヌエムケイ) : 1985年発足の日本マイコン開発を前身とし、1999年まで活動していたゲーム開発会社。「NMK」として法人化したのは1989年。代表作はジャレコの『アーガス』(1986年)、『サイキック5』(1987年)、『P-47 』(1988年)など。
02. 琴寄幸雄 : テーカン以前はユニバーサルで活躍。独立後、ジャレコブランドのタイトルを数多く手掛けたゲーム開発会社、NMKを設立した。
03. ジャレコ : 2014年まで活動していたゲーム会社。一番勢いがあったのは1980年後半から1990年前半にかけての期間で、有名作品はこの頃に多くリリースされている。代表作は『フォーメーションZ』(1984年)、『シティコネクション』(1985年)、『アイドル雀士スーチーパイ』シリーズ(1993年~)など。
04. キャラジェネ : プログラムで使用するキャラクターパターンデータのこと。PCGともいう。時代が進んで開発環境が進化してからは描いた絵を変換してデータ化するようになるが、この頃のNMKでは、描いた絵をそのままデータにしていたようだ。
05. PC-8001 : NECが発売していた8ビットパソコン。後継機種のPC-8801登場まで同社の人気機種だったが、グラフィック性能はそれほど高くなかった。テーカンでは改造によりパワーアップさせて業務利用していたようだ。

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