多数の有名ライターを育てたゲームマスコミ界の重鎮!平林久和氏インタビュー 前編

思想の狭間に立たされた小学生時代

平林 ある意味で今の仕事につながっていく原点だと思っているのですが、小学校の高学年時代になかなか貴重な体験をしているんです。

小学校5年生のときの担任の先生が、のちに振り返ると左翼的思想の持ち主で、6年生のときの担任の先生はその正反対で右翼思想の持ち主でした。ホント、両極端だったんです(笑)。僕ら小学生を相手に授業中のちょっとした雑談で、共産主義や革命の話を聞いたのが5年生、6年生になると「天皇陛下をお呼びする前には“恐れ多くも畏くも”を付けるものだ」と教わりました。

▲初めて聞く平林氏の話に興味津々な大堀所長

大堀 初めて聞く平林さんのエピソードですねえ。

――純粋な時期にこれまた両極端な経験をしましたね(笑)。

平林 お二方とも分かりやすく教えてくれる熱意のある先生だったんですけどね。それでも、学校内では対立関係にあったようです。子供時代には分かりませんでしたけど。さすがにその辺は大人ですから児童に見せないようにしていたのでしょう。

そのような両極端な考え方を小学校高学年の時に大量に浴びまして、自分でもどう整理していいか分からなかった。でも自分なりに調べて考えていくと、どうやらそれは思想ということらしいと分かってくる。人間として善悪があるわけではなく、思想の違いが対立構造を生むと気がつくようになったんですね。これがゲームのことにつながっていくんです

――ゲーム分野にもハードやソフトの両面で「こうあるべき」って思想がいろいろありますよね。

平林 メモリ容量はこれくらい欲しい」「こんなCPUなんか採用しちゃダメ」ということは設計“思想”になるわけです。それに対して、表面上の数値の意味は何なのか? その背景に何があるのか? を読み解くことを、のちに僕は仕事にするわけです。誰からも頼まれていないのに企業や製品の思想について他人以上に考えるようになったのは、小学生の時の体験が原点になっているんだろうなと思いますね。

文学少年になり言葉にこだわるようになっていった中学生時代

▲「中学からは文学少年になって、文字表現の大切さを覚えていった」と平林氏

――小学生高学年に前述のような考え方が身についたことで、編集の仕事をしたいという考えにつながっていったのでしょうか。

平林 いや、まだ遠回りしますよ(笑)。そこまでは小学生の後期の出来事です。中学になると太宰治の『人間失格』に出会います。中2の時に読んだのかな。『人間失格』を読んだことにより文学好きになりました。ゲーム業界では飯田和敏さん※1飯田和敏 : 元バウロズ取締役社長、ゲーム開発者。代表作は『アクアノートの休日』(PS/1995年/アートディンク)、『巨人のドシン』(NINTENDO64/1999年/任天堂)など。現在は立命館大学で映像学部インタラクティブ映像学科教授も務める。も『人間失格』が好きで、彼と人間失格の話はいっぱいしましたね。

母の実家が湯河原の旅館だったんで、普通だったら旅行に行って食べるようなご馳走が余っているんです。大トロとかサザエのようなものを毎日「食え、食え」って言われました。でも「こんなのいらない」とは絶対に言えない。「おいしいか?」と聞かれたら「おいしい」と答える生活。だから『人間失格』に書かれている主人公の大庭葉蔵の「周りに気に入られることをしなければいけない子供」という姿に自分を投影したんですね。まるで自分が書かれているみたいだと。それからむちゃくちゃ本を読むようになりました。 自分の将棋が弱いことも分かったんで(笑)。

こうやって話をしていると分かると思いますが、僕は言葉にこだわる人間です。言葉にこだわるようになっていったのは、その頃の過ごし方が大きかったのかなと思います。それが中学の時の出来事。

――そういうことってありますね。自分の場合は小説の主人公ではなく、とある作家の生き方に憧れて、その人の真似をしたくて若い頃に新橋の出版社で編集をした経験があります。

家の事情で硬派となった高校時代にサザンオールスターズと出会う

平林 高校生になってまた大きな出来事というのが起こったんです。旅館とは別に父親が土木業の会社を経営していたんですけど、その会社が倒産しました。食べていくのに困るということはなかったんですけど、周りの変化をいろいろ目の当たりにしました。

それまでちやほやしていた人間が急に父親の周りから去っていくとか。そういうことを経験したもので、それから生活が少しはっちゃける感じになりました。応援団の文化というか、少し不良…といっても大したことないんですけどね。あんまり不良という表現はしたくないなあ(笑)。

大堀 硬派って感じですか。

平林 硬派! いいですね。そんな感じで僕は硬派な高校に進みます。田舎町だから父親に起こったことがすぐ話題になるんですね。そういう時に同級生たちが「平林がんばれよ」って、言葉には出さないけど行動や雰囲気で応援してくれたんです。

そのような友人の姿に触れて、小学校や中学校の時に感じていた以上に友人の存在ってありがたいなと思いました。それで彼らと硬派の道を歩むようになった感じですね。その頃に『スペースインベーダー』に出会いました。

――大学は青山学院大学(以下、青学)に進まれたんですよね。

平林 それは桑田佳祐の影響かな。サザンオールスターズの歌の歌詞がとにかく衝撃的だったんです。単語の選び方、組み合わせ方、表現の仕方がすごい。「いなせなロコモーション」しかり「砂まじりの茅ヶ崎」しかり、この言葉使いって何なんだよ…と。もう大好きになっちゃって、ノートに歌詞を書き写すということもしていました。それで青学に行きたいと思っちゃったわけなんですね。桑田佳祐は青学ですから。

平林 硬派を気取っていた僕も青学に進むとチャラくなるわけですよ。それも目的で青学を選んでいるんですけどね(笑)。

一同 (笑)

大学では広告研究会に所属するも広告業界への就職はやめて出版の世界へ

▲「広告の仕事はすごくやりたかったけど、仕事が正当に評価されないのは嫌だった」と平林氏

平林 硬派から軟派に変わって、大学に広告研究会というサークルがあったので、そこで広告とか勉強するようになりました。ちょうど糸井重里さん※2糸井重里 : 女子大生時代の宮崎美子(みやざき よしこ)出演のミノルタCM「いまのキミはピカピカに光って」などのキャッチコピーが有名。RPGゲーム『MOTHER』シリーズ(1989年~2006年/任天堂)の制作もしている。がコピーライターとして活躍し始めた頃で、言葉の人としては気になる世界でしたから。

――仲畑貴志※3仲畑貴志 : コピーライター。「ココロも満タンに コスモ石油」「目の付けどころがシャープでしょ。」など、誰もが耳にしたことのある有名キャッチフレーズを多数手掛ける。とか、コピーライターが花形でしたよね。当時はコピーライターがすごく脚光を浴びていて憧れの職業でした。どの大学でも広告研究会は人気サークルでしたね。

平林 僕の頃の広告研究会はすごく恵まれていて、いろんな企業の人たちからアルバイトを紹介されました。本格的な文を書くという仕事もあって、広告代理店にいつも出入りしていました。なので僕はこのまま広告の世界に進むのかなと考えていました。

大堀 しかし就職したのはJICC出版局(現・宝島社)でしたよね? 広告業界とはまた違う世界だと思うのですが。

平林 広告業界特有のいやらしさを見ているうちにつまらなくなっちゃったのかな。広告業界って権威への理不尽なお世辞によって言葉が決まる世界、と思ったことがありました。文章やキャッチコピーの純粋な評価ではなく、クライアントの宣伝部長に気に入られるかどうか。

A案とB案を提案したとします。誰が見ても明らかにA案の出来がいいのですが、部長が気に入ったからB案に決まりましたっていう場面を何度も見ました。それで大学生なりに「なんだかなー」と思ったわけです。広告は大好きな仕事だし、やってみたいと思う半面、間違った価値で自分のクリエイティブが判断される恐怖心があったんですね

――仕事としてやるには割り切ることができなかったと?

平林 致し方ないということも分かっていたんだけど、その理不尽を飲み込めるかどうかみたいな不安感がすごかったですね。広告業界志望で就活していたんだけど、その不安があるからついでに出版社も受けてみようと思って応募したのがJICC出版局でした。

実は出版社の方はあまりあちこち応募してなかったんですよ。広告業界をメインに就活(就職活動)していて、「やばい! やっぱり出版社も受けておこう」と急に決めたものでしたから。もしかすると新卒応募の締め切りに間に合った出版社はJICC出版局だけだったかもしれないですね。

それでJICC出版局に合格することができまして、広告業界の方も合格した会社はあったんだけどお断りしました。『宝島』って雑誌を読んだことがあったし、知っている本を出している会社だからそっちへ行っちゃえって(笑)。それが22歳のときでした。そして入社してからすぐに『ファミコン必勝本』の創刊へと動くようになるわけです。


次回予告

後編では『ファミコン必勝本』時代の話を中心に話を進めていく。まだゲーム専門誌が成立すると思われていなかった時代に、創刊へ向けて平林氏がとった行動とは? 同じくその頃の田尻智氏、ベニー松山氏、成澤大輔氏のエピソードも飛び出る必見の内容でお届けする。次週公開予定。乞うご期待!

平林 久和 氏

現・株式会社インターラクト代表取締役社長。青山学院大学卒業後にJICC出版局(現・宝島社)へ入社。『ファミコン必勝本』の敏腕編集者として、多くの著名なゲームライターを発掘、育て上げた。『ファミコン必勝本』が『HiPPON SUPER!(必本スーパー!)』にリニューアルするのと時を同じくして独立。現在の会社を起業し、以降はビデオゲーム関連のフリーライター・ジャーナリストとして多忙の毎日を送る。『ゲームの大學』(1996年/メディアファクトリー)など多数の著書を出している。ゲームの通史を全100講座でまとめたeラーニング「じっくり学ぶ。ゲームの歴史。」も好評発売中。

 

脚注   [ + ]