ゲームセンター聖地巡礼「1980年代 東武東上線」特別編~アーケードゲームに情熱をぶつけたあの頃を振り返る~

ゲームセンター聖地巡礼「1980年代 東武東上線」特別編~アーケードゲームに情熱をぶつけたあの頃を振り返る~  IGCC

「ゲームセンター聖地巡礼 東武東上線」のスタートと同時に、特別編として、ゲームクリエイターである西谷亮(あきら)氏と竹中善則氏へのインタビューをお届けします。高校時代からのお付き合いというお2人に、当研究所の大堀康祐所長も加わり、当時のアーケードゲームへの情熱はもちろん、お2人の人となりが感じられるインタビューとなっています。ぜひ本編と合わせてお読みください。

ゲームサークル「闘幻狂」を作った必然性

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▲誠実な受け答えをしてくれる西谷氏だが、カメラを向けると表情を作るお茶目さも

――西谷さんと竹中さんは高校時代からのお付き合いということですが、どういう経緯で知り合ったのですか?

西谷 高校2年生ぐらいのときに、たぶんゲームセンター(以下、ゲーセン)「プレイシティキャロット 巣鴨店」で知り合ったんだと思います。

――当時お2人は、「CPM闘幻狂」というゲームサークルのメンバーであったそうですね。

竹中 もともと一緒にゲーセンに集う仲間たちがいて、そのグループに名前は特になかったんです。周囲がサークルを作っていたから、俺たちも作ろうということになった。サークルの名前を決めるときに、仲間の1人が「桃源郷でいいよ」って言ったんです。「桃源郷って何?」って聞いたら、「ソープランドの名前」って(笑)。

大堀 そのままではナンだから、漢字を変えて「闘幻狂」としたわけだ(笑)。

――なんと…!「CPM」にはどういう意味があるのでしょう?

竹中 メンバーに丸山ってのがいたんですが、CPMはそいつのことです。でも、由来は覚えていないですね…。

――正式名は「CPM闘幻狂」と「闘幻狂」、どちらが正しいのでしょうか?

竹中 ほとんど「闘幻狂」表記だったと思うけど…。

西谷 そのあたりは、わりといい加減でした(笑)。

――当時、ゲーマーたちがサークルを作って活動するというケースが多かったようですが、そういう必要性があったのでしょうか?

西谷 確かに、今はそういった文化はないですね。当時はインターネットもない時代でしたから、情報収集が難しい。だから、情報をみんなで共有しようという意識があったんですかねぇ。

――あとは、ゲームを語り合える仲間たちと一緒にいるのが楽しいということでしょうかね。

西谷 そうですね。それは、間違いなくそうだと思います。

――「闘幻狂」のメンバーは、具体的にどんな活動をしていたのでしょう?

竹中 何もしてなかったよなあ(笑)。

西谷 でも、たまに遠征しに行ったよ。

竹中 ああ、遠くのゲーセンに、ハイスコアを塗り替えに行ったりね。

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▲大堀所長から「BAMBOO(ばんぶう)」と呼ばれている竹中氏。ゲームサークル時代からのニックネームだ

西谷 ハイスコア集計をやっているゲーセンに行って、「闘幻狂 NIN」(西谷氏のこと)とか「闘幻狂 BAMBOO」(竹中氏のこと)という名前でその店のハイスコアを塗り変えて、自分たちの爪痕を残すという。

大堀 いわば「道場破り」ですね。

西谷 それが活動の一つですね。

竹中 でも、それが「闘幻狂」の一番メインといえる活動だったんじゃないかな。

――同人誌などは作られていなかったのでしょうか?

西谷 「闘幻狂」では作っていませんでしたね。

竹中 その前は個人個人で作っていたんですけどね。だから俺、西谷が作ったヤツとか持っているし

大堀 レアですねー、それは(笑)。

竹中 西谷、絵も描いていたんだから(笑)。内容はアーケードゲームの攻略がメインでしたけどね。

――今回お持ちいただいていたら、ぜひ拝見したかったですね。

1コインでの長時間プレイがゲーマーとしての信条
その腕前が、あるゲームの難易度アップ事件を引き起こす

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▲竹中氏(左)も西谷氏(右)も、一番やり込んだアーケードゲームは『ゼビウス』だった

――お2人がゲーセンに通い始めたのは何歳ぐらいでしょう?

竹中 小学校4年くらいかなあ。

西谷 僕も同じくらいかな。デパートの屋上にあるゲームコーナーの雰囲気が大好きだったんで、物心ついたころから行っていて…。本格的にゲームをやろうと思った記憶は、『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)のころですね。

竹中 俺が最初にプレイしたアーケードゲームは、『サーカス』(1977年/エキシディ)だったと思う。

――それでは、お2人が今までで一番やり込んだアーケードゲームといえば…?

西谷 プレイ時間や回数で言うと『ゼビウス』(1983年/ナムコ)ですかねえ。

竹中 あー、俺もそうかなあ。あれが一番長く遊べたし、みんながやっていたからね

大堀 でも、僕は『ゼビウス』を1,000万点までやったの3回ぐらいしかないけどね。

――大堀さんはてっきり何度も到達されているのかと…。

竹中 俺は1,000万点は1回だけ。だってしんどいもん(笑)。8時間ぐらいかかるでしょう。

大堀 そう。途中でトイレとか行かないといけないし。

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▲アーケードゲームのエンディングについて語る大堀所長(左)と西谷氏(右)

――1コインで数時間遊び倒せるプレイヤーというのは、私のようなヘタッピな子供からしたら英雄レベルでしたね。私の田舎では、周囲にそんな友達はいなかったです。

西谷 東武練馬は1プレイ50円で、巣鴨だと100円でしたけど、ゲーセンの店長の立場で考えると、「えっ、このゲーム今日100円しか入ってないんだけど」という状態はマズいですよね(笑)。当時は、1コインでどれだけ長く遊ぶかということに価値を置いていました。エンディングがあるゲームなんて「なんだそりゃ!?」という感じでしたよ。「なんで終わりにされちゃうの!?」って。

大堀 金を払っているのに、と。

西谷 今考えると、その考え方のほうがおかしいんですけど(笑)、当時はそう思っていました。『ドルアーガの塔』(1984年/ナムコ)はボリュームがあったんでエンディングがあっても許せましたけど、『ポールポジション』(1982年/ナムコ)なんて理解不能でしたもん。どうがんばっても数分くらいで終わるじゃないですか。

大堀 映画が2,000~3,000円とかで2時間半楽しめるエンターテインメントと考えると、50~100円のエンターテインメントとしてはそれで十分だと思うんだけどね(笑)。

西谷 まぁそうなんですけどね(笑)。当時は、ロケテスト(以下、ロケテ)つぶしみたいな行為も流行っていて、ロケテで出たゲームを、1~2日で一瞬のうちに攻略したこともあった。今思うといろいろと「ごめんなさい」ですね(笑)。

竹中 そのおかげで、「プレイシティキャロット 巣鴨店」でロケテやっていた『ガントレット』(1985年/アタリ)の難易度がめっちゃ上がったんだよ

西谷 結局それでも永久に遊ぶんだけどな(笑)。

竹中 でもあれさ、のほほんと普通に遊んでいても終わらなかったよね。

西谷 あのゲームのロケテの最初の難易度は、プレイヤーたちを見くびっていたよね(笑)。実際、そういう経緯でお蔵入りになったゲームもたくさんあるし。

――世に出なくなっちゃうということですか?

西谷 ロケテだけでなくなっちゃうゲームって、昔は普通にあったんですよ

大堀 大手メーカーでも、ロケテだけで没になったゲームはいくつかありますから。でもなぜか、そういう基板を持っている奴もいるんだけど(笑)。

西谷 いるんですよね。あれ不思議ですよね(笑)。

竹中 『パンチアウト!!』(1983年/任天堂)もやり込んだなあ。意地になって最短クリアを競ったり。

西谷 『パンチアウト!!』は、電源を切っても筺体にハイスコアとタイムが残るようになっていましたからね

――それは燃えますね。

大堀 「新宿」の後編で話題に挙がった歌舞伎町の「KIGAWA」というゲーセンも、電源を切らないから、ハイスコア合戦は相当盛り上がっていましたよ。