高井商会探訪記~代表・高井一美氏に聞く ビデオゲームの歴史と保存~ 前編
アーケードゲームマニア、特にオールドビデオゲームを好むプレイヤーや、ゲーム基板コレクターなら、「高井商会」という社名を一度は耳にしたことがあるだろう。
ゲーム業界の黎明期からさまざまな形で日本のアミューズメント産業にかかわり、世界有数のアーケードゲーム機器所有数を誇る企業だ。現在はアーケードゲーム筐体・基板の個人・法人向けレンタル業も行っており、数々の名作ゲームをプレイヤーが実際に遊ぶ機会を提供しながら、後世への保存活動も行っている。
膨大なタイトル数を所有する高井商会の代表である高井一美氏に、設立当初から現在に至る経緯や今後の活動について、当研究所の大堀康祐所長とともにお話を伺った。今回のインタビューには特別ゲストとして、数々の名作ビデオゲームの移植・復刻を手掛けるエムツー(*01)の堀井直樹社長も参加。3時間にも及ぶロングインタビューを3回に分けてお送りする。
前編となる今回は、来年(2020年)で創業50周年を迎える高井商会の歴史を辿りながら、ゲーム業界が活気づいてきた1970~1980年代の黎明期を振り返ってみたい。
【聞き手】
ゲーム文化保存研究所 所長:大堀 康祐
エムツー 代表取締役:堀井 直樹
ライター:外山 雄一
QSLカードの通信販売のサイドビジネスとして始めたリース業
――まずは創業時期を伺ってもよろしいでしょうか?
高井 1970年ですね。
――この会社自体、高井さんが最初に始められたんですか?
高井 私が自分で創業して始めました。もともとは三洋電機におったんですけどね、そこで3年間だけ勤めて、それから21歳のときに独立しました。
――それはどういったきっかけで?
高井 最初は、QSLカードの通信販売をやりました。QSLカードというのは、アマチュア無線家が交信した相手に渡す一種の証明書です。アマチュア無線のCQ誌に広告を載せました。QSLカードは自分で手作りで印刷して、写真も入れることができるカードと一緒にセット販売しました。でも、あまりうまいこといかなかったんです(笑)。
――それでは、高井さんご自身もアマチュア無線をやられてたんですか?
高井 私も高校生のころに、アマチュア無線クラブに入っていました。そのころは免許ももっていて、クラブのコールサインでやっていました。QSLカードの画期的なものを作ってみたかったんですけどね。ただ、21歳で原価計算も何もできていないのにやって、ある程度は売れたんですけども、儲けにはならなかった。
堀井 分かる分かる。その辺、罠なんですよね最初。
高井 QSLカードを販売するのに事務所を借りていました。広告を出すと、いろんな人が出入りするようになり、その中の一人が「子供向けのパチンコのウルトラボールとかをリースしてみないか?」と言ってくれました。実際にその人が(リースを)やってたんで。(パチンコというの)は、10円を入れると玉がいくつか出てきて、それを弾くだけの、何ともない遊び。その頃は子供が多かったし、まぁ遊びがなかったから、皆さん飛びついて遊んでいました。
大堀 ガムが出るやつですか?
高井 ガムなんか出ません。「ウルトラボール」といって、ウルトラマンの絵が描かれた盤面のやつで、入ったら玉が出てくるだけの、見返りのないゲーム。
大堀 プレイするだけ。
高井 そうです。(玉が)たくさん出てくればたくさん遊べると。10円で玉を10~15個も打ったらおしまい。それでも、けっこう子供には人気でしたし、私も機械が好きなんで、いい商売になるんじゃないかと。通信(販売の)商売も厳しい状況だったんでね。(パチンコの)リースを勧めてきた人に聞くと、1回10円で、大体1日1,000円は入るっていうんですね。
大堀 すごいですね。100プレイ。
高井 あの頃は子供がいっばいいましたから。それで店とは(売上を)7:3で分けて、7割を持って帰り、お店に3割渡すという歩合契約で、リース業を始めました。私は営業があまり得意じゃなかったんで、知った者に営業を頼んで、あちこちに(パチンコを)置いてもらいました。自分は修理や集金を主にやっていました。それが(リース業を始めた)きっかけですね。
――その頃、パチンコは最大何台ぐらいで営業されていたんですか?
高井 そんなにたくさんではなかったですね。機材は小さいし、縦型で(倒れてきたら)危ないし。ただ、電気は使わないから、重さだけで玉が出てくるもんですから、非常によくできてはいたんですけど、あんまりおもしろくはなかった。それから、ほかの人にフリッパー(ピンボール)を紹介してもらい、ハマったんですよね、
堀井 あれはゲームとしてもおもしろいですからね。
高井 おもしろいし、アメリカのゲームって、故障するという前提で物が作られているから、故障したときに非常に修理がしやすいんですよね。全部開くし、配線は全部1本ずつ色ごとの線で分かれてあるし。色が足りなかったら2種類、3種類の線が引いてあって、図面も付いている。しかも、自動的に遊べるようになってるもんですから、これはいいと。それで、最終的に100台以上設置しました。
ウルトラボールから子供向けピンボール機へシフトチェンジ
大堀 ウルトラボールをやりつつも、ピンボールのリースにシフトしていったんですね。
高井 そうです。ロケーションは似ていますからね。ピンボールのほうが広い場所が要るんで難しいんですけど、優秀なセールスマンもおったんで、割合に(契約が)取れましたね。
大堀 当時、ウルトラボールというと駄菓子屋さんってイメージがあるんですけど、フリッパーだと、もっと間口が広い所じゃなければ置けないと思います。駄菓子屋に置いていたんですか?
高井 駄菓子屋に置いていました。テントの下とか、少々雨がかかってもいいように。まぁ、本来は外で使うもんじゃないんでしょうが、それで何とか工夫してやりましたね。その頃は業者も知れていましたから。カプコンの辻本憲三さん(*02)も同時期に同じ商売をしていました。
堀井 実際、僕の頃も商店街で野外にピンボールを置きっぱなしにしている店もありましたからね。お店の閉店後に(ピンボールに)シートをかけていた気はするけど。
大堀 なんかブルーシートみたいなのをぐるぐる巻いていましたね。
高井 そこまでやってくれるところはいいところでした。雨に濡れたって放置状態のところがほとんどでしたね。集金に行くと、(ピンボールの)金庫の中に雨水がいっぱい入ってて、水を出して拭いてからお金を数えて……。その場で売り上げを分けていました。
大堀 ピンボール機は中古だったんですか?
高井 そうですね。新品を買うお金もないし、中古でも整備すれば十分に使えたし。修理して、周りを全部塗り替えると、新品に近い状態になるんです。当時、タイトーさんやセガさんもそんなやり方をしていました。それでどんどん台数を増やして、広島まで買いに行くこともありました。
大堀 広島まで!
高井 地元の業者でゲーム機を扱ってる人、そんなに大勢いないですから。誰かの紹介で行ったのかな。その頃(ピンボールは)中古で5万円ぐらいでしたかね。
大堀 中古で5万円ですか!?
高井 でもね、1日1,000円の売り上げがあるわけですよ。単純に1カ月3万円ですよね。だいたいお店に1万円払って、こっちが2万円もらって帰るわけ。整備するのにもいくらかはかかりますけど、3カ月もあれば機械代の元が取れる。これはいい商売だと(笑)。
大堀 当時のピンボールは、ドラム式でリレー回路のものですよね。それをご自身で修理されていたんですか?
高井 リレーですね。自分で修理していました。図面があるヤツは(修理が)楽でしたね。図面がないヤツは、1本1本線を追っていってね。束ねてあっても色が違うから、ここから出ているこの色はここで……とか、動いているほかの機械を見ながら修理していました。
――リース自体は大阪でやっていたわけですよね、ピンボールは100台以上ってことですが。
高井 200~300台ぐらいですかねぇ。でも、ピンボールもあまり続かなかったですね。
大堀 当時1プレイいくらぐらいだったんですか?
高井 ピンボールの場合は1プレイ20円か30円ぐらいですね。50円で2回か3回ぐらい。だから、圧倒的に(ウルトラボールより)ピンボールのほうが売り上げは良かったですね。
堀井 場所の設置面積を含めても、やっぱりピンボールのほうが効率良かった感じですか?
高井 ピンボールは故障してもお金がかからないので、その点が良かったです。自分で修理できるし、ひとつの部品を取り換えるだけで直りますから。
――ピンボールの修理の部品は、日本でも手に入る物だったんですか?
高井 基本的に言えば、モーターと接点、あとはコイルがあって。
――じゃあ、電気的な部品、汎用の部品があって……。
高井 コイルならコイルをメーカーが用意してましたからね、型番言ったらそれがあって、最悪分からなかったら、自分でコイル巻いてできるわけですから。日本のエレメカは、その頃でも(キャスコ[KASCO]の)『ミニドライブ』(1958年/関西精機製作所)とかがあったけども、故障したらそっくり(入れ)換えないとダメだったんです。けど、アメリカ製のものは、そのポイント、例えば3ミリの接点だけ抜いて換えてやれば、直ったわけです。よくできていましたよ。その辺は、非常に感心しましたね。
脚注