ゲームセンター聖地巡礼「1980~1990年代 新宿」後編
風営法の意外な抜け道と、広場周囲にひしめくゲーセン
―― 前回話にもありましたが、歌舞伎町にあった風営法対象外のゲーセンについてお聞かせください。
大堀 アップライトタイプの占いゲームのような、風営法の規制対象から外れているゲーム機があるんですが、そういうゲーム機を多く置いて、規制対象となる『バーチャファイター2(以下、バーチャ)』(1994年/セガ)の筺体は2台だけにするなどして、規制対象となる台の割合が一定以下になるよう調整するわけです。すると、風営法に引っ掛からず24時間営業が可能となる。『バーチャ』ブームのときは午前0時を過ぎると、著名なゲーマーたちがそういう風営法対象外のゲーセンに集まって来たんです。
―― なるほど。そんな抜け道があったわけですね。
大堀 『バーチャ』以外のゲーム機は、ほとんど収益がないんですよ。でも、その少ない『バーチャ』の台だけのために営業していたゲーセンがあったんです。名前は忘れてしまいましたが。その店で
ほかに覚えているのが、当時ほぼ姿を消していたレーザーディスクの『THE・野球拳』(1986年/ NEWジャトレ)というゲームが置かれていて、ジャンケンして最後まで勝つとパンツが入ったガチャポンが出てくる(笑)。もう誰もやらないんですけど、それも規制対象外ゲームで、数合わせとして置いてあったんでしょうね。
見城 そういうゲームは、今こそやってみたいな(笑)。
―― そして、歌舞伎町シネシティ広場です。以前は噴水があったこの広場周辺もゲーセンが多かったとか。
大堀 1980年代は、この広場の周りだけでも6軒くらいのゲーセンがひしめく状態でした。やたらオルカ(*01)のゲームのロケテストをやっていたゲーセンがあったなあ。
見城 そのゲーセンで、僕は『与作』(1979年/ オーエム)を遊んだことがある(笑)。あれは今にして思うとロケテストだったのかな。
石黒 『与作』はいろんなメーカーが出していて、メーカーごとに名前と内容が違うんですよね。
大堀 当時、4~5社ぐらいから出ていましたよね。
見城 僕がやったのは木が3本立っているタイプの『与作』。当時『与作』は、ポスト『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)としてマスコミが記事であおっていたんで、ギャラリーがたくさん集まっていたのを覚えています。大人たちもみんな『与作』を知っていたんですよね。マニアックな話ですみません(笑)。
石黒 でも今、『与作』が新宿でロケテストをやっていたということを話せる人は日本にまずいないので、これはすごいレアリティの高い話です(笑)。
大堀 広場周辺でいうと、今ファミリーマートになっているところには、タイトーの大きめの直営店もあった。『ダライアス』(1986年/タイトー)のロケテストをやっていたのを覚えています。
見城 あ、「ルナパーク」って名前のゲーセンでしたよね。
大堀 そう。『QIX(クイックス)』(1981年/タイトー)の大会なんかもやっていたんですよ。そして、今「VR ZONE SHINJUKU」になっているところが「新宿ミラノボウル」というボーリング場があったビルで、シグマ(*02)の旗艦店「ゲームファンタジア・ミラノ」もありました。1980年代当初から、メダルゲームやビンゴゲームなどを大量に置いて他所との差別化を図っていたゲーセンで、新宿だけでも歌舞伎町に3店舗、アルタ裏に1店舗の同系列店があり、大人に人気でした。ほかとは客層がまったく違っていました。
石黒 大きいメダル機を扱うというのは、実は普通のゲーセンでは難しいんですよね。たいへん高額なものなので。僕はシグマのゲーセンはとても好きだったんです。ビンゴとか外国のゲームをかなり早い時期から輸入していて、スーツを着たスタッフが、僕のような子供にも「こうやって遊ぶんだよ」ときちんと教えてくれていた。実は、シグママニュアルという営業マニュアルも作られていて、かなりしっかりしている店舗だったんです。
―― 大人向けに差別化を図っているような店でありながら、子供もきちんとフォローするのが素晴らしいですね。
見城 前回、ナムコ直営店の店員はほかとは違うという話が出ましたけど、シグマも互角ですね。本当にきっちりしていました。
入場料さえ払えばゲームやり放題の「カーニバル24」
バッティングセンターのゲームコーナーは吹きさらし?
―― 当時、歌舞伎町に入場料制だったゲーセンもあったのですね。
大堀 24時間営業をしていた「カーニバル24」ですね。風営法改正前のゲーセンは今の漫画喫茶みたいな立ち位置で、終電を逃した人たちが夜を明かす場所でもありました。
―― 現在も「新宿プレイランドカーニバル」として営業していますね。
見城 入ったことがないから、よく知らないんだよなあ。
大堀 僕も家がうるさくて、24時間の店には行けなかった。でもここは、入場料さえ払えばゲームは何回でも遊び放題でした。入場料は1000円だったか、2000円だったか…。
―― 仮に入場料が2000円として、それで遊び放題ということは、20回ゲームができれば元が取れる計算ですよね。長時間入り浸るゲーマーならお得でしょうかね。私のような下手なゲーマーには特にいいかもしれません(笑)。
見城 今思えば、行っておけばよかったなあ。入場料払って遊び放題というゲーセンは、個人的にはほかに聞いたことがなかったですね。
―― そして「新宿オスローバッティングセンター」も、今回の「巡礼」企画のスポットとして挙がっていますが、バッティングセンター内にあるゲームを遊んでいたということですよね?
大堀 はい。僕がここに行くようになったのは理由があるんです。先ほど説明した、『バーチャ』が置いてあった風営法対象外のお店の付近に、何軒かゲーセンが並んでいたんですね。そこにオスローバッティングセンターの系列店のゲーセンがあったんです。
―― 調べたところ、「新宿ゲームオスロー 本店」という店舗だったようですね。
大堀 1プレイも50円と安かったし、そこで遊んでいると、たまにバッティング無料券をくれたんですよ。バッティングセンターに客を誘導したかったんでしょうね。その無料券をもらって何回か行きました。
―― 特にバッティングがやりたくて行ったわけではないんですね。
大堀 はい。タダなら行ってみようかなぐらいの思いで。このバッティングセンターは現存していて、(今は)2階がバッティングセンターで1階が駐車場扱いになっているんですけど、以前は1階が吹きさらしのゲームコーナーだったんです。今は消防法もあってそんな状態で筺体は置けないと思うんですけど、当時は普通にアップライト筺体がガンガン置いてあった。古い筺体が多くて、『STAR WARS』(1983年/アタリ)なんかも、かなり長い期間置いてありましたね。酔っ払いのホストがパンチングマシンに興じていたり、独特の雰囲気でした。
見城 すごいなあ。壁もない、吹きさらしの状態で『STAR WARS』みたいな貴重な筺体が置いてあるなんて。治安は大丈夫だったか心配になるね(笑)。筺体痛みそう。
―― だから古い筺体を選んで置いていたんでしょうかね。
石黒 あの辺りは(僕の家から)遠かったんで、行きにくかったですね。新大久保寄りになるとラブホテル街とかになってくるんで。
大堀 ハードル高かったよね。高校生からハタチくらいの小僧には。
―― 歌舞伎町には石黒さんが店長をされていたゲーセンもあって、大堀さんも運営を手伝っていたと伺いました。
大堀 「オールディーズ」というレトロゲームゲーセンです。まあ、それは学生時代の思い出ではなく、比較的最近のことなんですけれど。
石黒 やっていたのは1993~94年でしたね。
大堀 『バーチャファイター2』とか買って入れたよね。レトロ台だけじゃなくて、新台も入れなきゃってことで。
石黒 企画が最初から転々としていましたね。営業期間は約1年間でしたが、実験的なケースとして、レトロゲームの稼働に関していろんな経験をすることができましたね。
見城 けっこうお客さんは来ていたの?
大堀 その筋の人がけっこう来ていたよね。
石黒 1階がお見合いパブだったんで、狭き2階への階段を登れるのは勇者しかいなかったですね(笑)。
一同 (笑)。
石黒 だから、いらっしゃるのは(ゲームに)愛のある方ばかりだったんで、マナーもとても良かったです。僕は基板の整備のほかに接客もやっていたんですけど、いろんなお客さんに「ありがとう」と言っていただけました。自分の中では大きな経験と、いい思い出になっていますね。
脚注