バンダイミュージアム探訪記~アーケードゲームも移植されたLSIゲームの魅力(前編)

  • 記事タイトル
    バンダイミュージアム探訪記~アーケードゲームも移植されたLSIゲームの魅力(前編)
  • 公開日
    2018年10月26日
  • 記事番号
    605
  • ライター
    こうべみせ

王選手のホームラン数世界一の熱狂の中で生まれた『LSIベースボール』

▲ 分かりやすい商品がヒットを生む

――バンダイのLSIゲームについて、当時のことをお聞きしたいのですが、最初の商品はどのような経緯で発売されたのでしょうか。

金井 最初のLSIゲームは『LSIベースボール』という商品で1978年の発売です。この商品について企画に至った背景ですが、当時の関係者がすでにいないので、開発者レベルでの詳細なお話は難しいです。なので、私が知る範囲でのお話になります。

この頃のバンダイは、ゲーム商品をあまり出していなかったんです。当時、まだゲームといえばボードゲームが主役で、お正月にみんなで集まるとボードゲームで遊ぶ時代でしたよね。そして、ボードゲームはエポック社さんの独壇場という状況でした。そこでバンダイは、コンピューターゲームと名付けてLSIを利用したゲームを作ろうということになったんです。

――『LSIベースボール』は自分もよく覚えているゲームです。野球をゲームとして選んだのには、何か理由があったのでしょうか。

金井 盤ゲームやボードゲームをLSIゲームに置き換えようとした場合に、当時として一番親しみやすくて分かりやすかったのが野球だったということです。対戦型なので友だちと遊べますし、LEDを使うことで野球盤とほぼ一緒のものが作れるので、一目見れば「野球盤と同じ遊び方でいいのか」と理解できます。まったく新しいルールのゲームを出すのと違って、とっつきやすさが違いますよね。

また、流行などの時代背景も、企画には大きく影響していますね。まだ当時日本では、大人も子供も野球に夢中。ちょうど1977年に王貞治が756号ホームランを打って世界一になったということもあり、野球熱は最高潮に盛り上がっていましたから、社内でも「もうこれは野球ゲームしかない」ということになったようです

――『LSIベースボール』はずいぶん高価だったように記憶しています。自分は親に買ってもらえなかったのですが(笑)、まだ当時、ゲームは子供のおもちゃというイメージが強かったと思います。購入する子供は多かったのでしょうか。

金井 1978年発売の『LSIベースボール』は、当時としては高価なゲームでしたが、ヒット商品になりましたね。最初は6,200円で販売して、翌年に5,200円に値下げしました。野球盤のように2人が守備と攻撃に分かれて遊ぶ対戦型のゲームというのが、やはりよかったようですね。値段が高かったこともあり、ユーザー層は20代~30代の層が中心でした。お子さんは6,200円や5,200円もするおもちゃを親にはねだれなかったでしょうからね。自分で働いているヤング層にもリーチできる商品だったため、そういった方たちがユーザーとなったわけです。

――歩留まりやコストなど、当時の状況を考えるとあまり複雑なことはできなかっただろうなと想像しているのですが、例えば、球を打った後の判定はランダム処理などで済ませていたのでしょうか。

金井 結果はランダムですね。LSIを使ってランダム性を作り出していた感じです。しかし、完全なランダムは作り出せなかったので、ある程度の規則性は出てしまっていました。遊んでいるうちに気がつく人もいたかもしれないですね。

それにバグもけっこうあったんですよ。投球ボタンを特定の組み合わせで同時押しすると、絶対にバッターが打てない球を投げられたんです。厳密に言うと、バッターが立っていれば球を投げていないのにストライクになってしまったという現象です。完全にプログラムミスだったのですが、今なら裏技と言っていいんでしょうかね(笑)。公表はしなかったのですが、この技に気がついて使っていた人はいるんじゃないでしょうか。

大ヒット商品『ミサイルベーダー』はエピソードの宝庫

――バンダイのLSIゲームといえば、当時を知る人たちにとっては『ミサイルベーダー』が真っ先に思い浮かぶ存在です。かなりのヒット商品だったのは間違いありませんよね。

金井 当時の市場において、反響はすごかったです。1978年に『LSIベースボール』を発売して、1979年度の業界シェアでは『ミサイルベーダー』と合わせてハンドヘルドゲーム市場のおよそ50%を占めました

▲ 大ヒットとなった『ミサイルベーダー』

――50%というのは驚きです。LSIゲームといえばバンダイというイメージがあったのですが、実際に数字の上でもそうだったわけですね。その後も多数のタイトルを発売されていましたが、全部で何タイトルくらいあったのでしょうか。その中で印象に残っているものはありますか。

金井 発売したタイトル数については、申し訳ありませんが今となっては数えることができません。もっともヒットしたタイトルは、やはり『LSIベースボール』と『ミサイルベーダー』かな。ただし『たまごっち』を除いてになりますが(笑)。印象に残っている商品も『LSIベースボール』と『ミサイルベーダー』かな。これら2つがバンダイの目玉商品になりましたからね。

――それほどのヒット商品だったからには、面白いエピソードもあるのではないですか?

金井 果たして面白いといえるのか分かりませんが、『ミサイルベーダー』(後に「ミサイルインベーダー」から商品名を変更)が発売して1年経たないうちに説明書が変わったということがありましたね。古いほうには「最高得点250点」と書かれていて、新しいほうは「最高得点245点」となっている。

▲ 苦肉の策で封入した注意書き

――それは誤植を直したということだったのでしょうか?

金井 誤植ではないんですね。商品にバグがあって、250点獲得できるはずだったのが実際は245点しか得点できなかったんです(笑)。お客さんから「絶対に250点取れないぞ」と指摘されてしまったんですよ。取れない理由を調べてみたら、50発発射できるミサイルのうち最後の1発が得点されないバグだった。

その当時、生産してしまった商品を直すことはできない。説明書も大量に印刷してしまった。仕方ないので注意書きをペラ1枚印刷して封入したんです。在庫されていたパッケージに、みんなで手分けして注意書きを入れましたよ。こういうことを今やったら怒られちゃいますよね(笑)。でも、現在手に入れるとしたら、このバージョンは貴重だと思いますよ。やがてその在庫はなくなったので、最高得点245点に直した説明書を刷り直したわけです。

――自分もゲーム開発に携わっていたことがあるので、他人事には思えませんね(笑)。それにしても、50発発射という制限がある中で最高得点250点が取れないことに気がつくということは、購入したお客さんも相当やり込んでいたんでしょうね。

金井 『ミサイルベーダー』は商品の動きがよくて、販売数もかなりの数になりましたから。1980年にはアメリカにも輸出していました。

▲ 『スペースインベーダー』が流行っていたからこそ、ルール説明不要のゲームを作ることができた

――『ミサイルベーダー』が企画された理由としては、やはり『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)が社会現象になるほど流行していたからでしょうか。

金井 そりゃそうですよ(笑)。この当時、何を売ろうかと考えたら『スペースインベーダー』的なものですよ。あらゆる業界があやかろうとしていましたからね。

それに、LSIゲーム、電子ゲームをオリジナルな内容で発売したとしても、まだ市場に価値ができていない状態です。「なんだかよく分からないおもちゃが発売された」で終わってしまうんですね。誰でも知っている『スペースインベーダー』をモチーフにすれば、説明不要になる。お客さんにとっては「インベーダーゲームのようなゲームがどこででも遊べる」という分かりやすさになるわけです。

――そういえば、大きなサイズの『ミサイルベーダー』が売られていたように記憶しているのですが。

金井 後継機として発売した『スーパーミサイルベーダー』(1980年)ですね。通称「弁当箱」と呼ばれていたものです。これは、前作では1体だった敵キャラが6体同時に出てくるバージョンアップ版なんですよ。

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