『ベーマガ』同窓会その① 名物編集長大橋太郎氏が語る月刊『ラジオの製作』から『ベーマガ』までの半世紀
目次
雑誌作りからゲームソフト販売そして制作へ
見城 『ベーマガ』って本当に勢いのある雑誌だったんですね。その後、大橋編集長は、ソフト販売も手掛けるようになりますよね?
大橋 そうですね。『ベーマガ』が月刊誌になってからしばらくして、今度はまた「ゲームソフトの販売」という新しいミッションが来ました。
私たちはコンシューマー向けの雑誌を作っていたんですが、電波新聞というメインの媒体は、新しい商品を全国の電気屋さんに紹介したり、各メーカーにアイデアを出したりすることで電気業界が儲かるようにという姿勢で新聞を編集していました。
電波新聞社は全国に支局があり、そういう意味では非常にパワーがありました。家電品もどんどん売れるし、パソコンも売れるし。
当時の平山副社長と「パソコンはソフトがなければ、ただの箱だ」という話をしていて、「それならば、当時広告主であったハドソンさんのソフトのテープを私たちが売りましょう」という話になりました。
ハドソンさんは通販していたのですが、大人気で手が足りずにお手上げだったんですよ。出版物や新聞販売が専門ですから、流通は得意分野なので、ゲームソフトの販売を手伝うことにしました。全国のマイコンを扱っているお店への卸もしました。ソフトの流通網を作ったのは、電波新聞社が初めてでした。そこにも紆余曲折があったんですけどね。
アーケードゲームをパソコンへ移植するためのソフト開発
大堀 ゲームソフト販売が成功すると、次に電波新聞社はソフト開発も行うようになりましたが、あれも大橋編集長のご意見だったんですか?
大橋 そうやっているうちに「じゃあ、うちでも(ゲームソフトを)作ろうよ」という話になりました。手始めにアーケードゲームの移植用ソフト開発から着手することになり、著作元のライセンスを受ける必要がありました。当時は、海賊版がはびこっていて、ライセンスなんてないようなもの。
そんな時、副社長の平山さんがアメリカから帰国したばかりで、ライセンスについてものすごくわかっていた。うちではちゃんと著作元からライセンスを得て、それからパソコンへ移植するためのソフトを開発しようということになったんです。
そこで、ナムコの中村社長(当時)のところに乗り込んでいって、中村社長と、「今パソコンのゲームソフトという新しいものが出てきたけれども、ほとんど海賊版。みんな似たような『パックマン』を作っている。だから、ライセンスをとってきちんとやりましょう」という話をされた。『ギャラクシアン』、『パックマン』とか『ディクタグ』とか『マッピー』、『ゼビウス』とか、だれが作るのかも決まっていないゲームにちゃんとお金を払って契約書を交わしてきたんです。
大堀 じゃあ平山さんがいらっしゃったから、ライセンスについて明るかったんですね。
大橋 そうですね。その後、移植用ゲームソフトの開発が始まるんですが、社内で「ゲームのプロデュースは大橋太郎しかいないだろう、あいつなら何もわからなくても何とかできるだろう」ということになり、またもや白羽の矢が立ってしまって、ソフト開発室で一生懸命ゲーム制作の方も始めました。
「移植用のソフト開発するために、ゲームセンター(以下、ゲーセン)へ行くべきだ」と副社長に言われていたんですけど、当時ゲーセンは若い人のいくところなんて思っていたから足が向かうことはなかった。そうしたらとうとうしびれを切らせて、ある日、僕の机の上に百円玉を山のようにジャンとおいて、「これは業務命令です!」っていうんですよ。
「どうすりゃあいいかなぁ」と思っていると、今はTBSの技術部長をやっている梶原さんという人がちょうど私のところに来たんです。彼は当時学生ライターをしていて(私と)仲が良かったんで「ゲーム教えてくれよ」って言ったら、一緒にゲーセンに行ってくれました。
あの時はわけがわからなかったんですが、梶原さんが「こうやってお金を入れて、こうやってやるんだよ」って一から教えてくれました。
見城 最初はゲームに対して素人であったんですね。それから、どうやって移植用ソフトの開発を行ったんですか?
大橋 最初はわからなかったゲームの世界も勉強していくうちに、だんだんと色んな情報が入ってきました。移植用ソフトの開発をするには、攻略が必要だと思って、一生懸命ゲーム攻略をやり始めました。
『パックマン』なんかはできたんですけど、『ゼビウス』は難しくって…。話に聞くと『ゼビウス』を全面クリアできたのは東京に2人しかいないって。ゲームの攻略資料も(開発会社に)なくて、くれないんですよ。
せいぜい、ドット絵みたいなものをもらって、「そうか、こうやってゲームのキャラクターを作ればいいのか!」と思って、短期間でものすごく勉強をしましたね。『パックマン』のアルゴリズムをようやく解析して、どう動いているのかがわかって、ゲームの世界ってつくづく深いなぁと思いました。
手探りで自分たちなりにぼちぼち勉強して、ゲームの奥の深さも十分わかってきました。これ(マイコンのゲーム)は文化だな、新文化だなっていう意識はあり、深い愛情も生まれました。
ソフト攻略が『スーパーソフトマガジン』へと進化
大堀 ゲームを攻略していくうちに、ゲーム攻略法を本に載せようと思われたんですか?
大橋 そうですね。ゲームの奥深さを知るうちに、攻略法も『ベーマガ』に載せようって話になったんです。
見城 それがあの「スーパーソフトコーナー」になるわけですね。
大橋 そうそう。(「スーパーソフトコーナー」で)ゲームソフトの紹介をするようになって、途端に人気が出たんで、別冊にしようという話が持ち上がりました。
見城 『ベーマガ』は前からも後からも読める特殊な形をした別冊でしたが、この形態はどなたが考えられたのですか?
大橋 私はジャズが大好きで、当時有名なジャズの雑誌がありました。その雑誌をこっち側から読むとハードのことが書いてあるんですね。反対から読むと、アーティストとレコードのことが書いてある。「よっしゃ!この形だ」と思いましてね。(『スーパーソフトマガジン』は)『ベーマガ』と重なる部分もあるけど、ちょっと毛色が違うのではないかということで、付録にしようというになり、名前も『ベーマガ』とは独立させて『スーパーソフトマガジン』と名付けました。
大堀 衝撃的でしたね。
大橋 そこからクオリティもグンと上がりました。そこで、『ゼビウス』の攻略本を作らなきゃいけないっていう話が出まして、当時はゲーム基板を買って、みんなで解析するようにしていました。その基板の解析もまだできなくて、ゲーム画面をストップさせるとか、そういうテクニックがほとんどなくて、試行錯誤でやっていたんです。ちょうど、大堀先生と出会う前ですね。
見城 『ゼビウス』の移植ソフトの開発と攻略本はどちらが早かったのですか?
大橋 いや、その時はもう『ゼビウス』のパソコンへの移植のためのライセンスは持っていました。『パックマン』とか『ギャラクシアン』や『ディクタグ』くらいは何とか移植できたのに、これは(『ゼビウス』は)大変だなぁと。まだ、『マッピー』の移植用ソフト開発も待っているし、「『ゼビウス』はいつになるんだろう」って、当時は周囲からうるさく言われていました。
手塚 『ゼビウス』は画面のスクロールが難しかったんですよね。
パソコンメーカーの指南役に
大橋 パソコンへの移植用ゲームソフト開発と並行してゲームの攻略をやっているうちに、パソコン自体どんどんと進化していきました。
もともと電波新聞は電気メーカー向けの新聞であったので、そのうち電気メーカーのパソコン開発担当者がうちのソフト開発室に「来年発売予定のパソコンがあるのですが、仕様はどういうものにした方がいいでしょうか?」という相談に来られるようになりました。
パソコン開発担当者の方から「『パックマン』をつけないとパソコンは売れない」って暗に新しい移植用ゲームソフトの開発を急かされていたんですね。
そうすると、ソフト開発室の藤岡さんは、「現状のパソコンのスペックでは、『ゼビウス』はできませんよ。スプライトが入ってなきゃだめですよ」と返すわけですよ。
見城 1980年代初期のパソコンってMZ-700とかセミグラフィックとかしかなかったですもんね。『マッピー』とか、語り草ですけど。
大橋 だから、メーカーの方には「新しいパソコンにアーケードゲーム基板のスプライトのような機能をつけてくださいよ、そしたら我々も『ゼビウス』を作りますよ」って話しました。まぁ、こっちが勝手に言っているんだけど(笑)
特に開発の藤岡さんがスプライトの機能を入れるよう、強く提案していましたね。我々の提案もあって、PCGを付けたX1も出たんで、これは行けるってことで、2人担当につけて『ゼビウス』の移植用ソフト開発をやり始めました。
見城 他にパソコンメーカーにどんな提案をされたのですか?
大橋 音とか、グラフィックとかですかね。
手塚 これぐらいの解像度がないとちゃんと見栄えよく再現できないとか、そういうのがあると思うんですよね。
大橋 だって最初のMZってカラーではないですよね(笑)。(最初にカラーのパソコンが出た時)「えー!カラーのパソコンなんてあるの!」って衝撃でした(笑)。
手塚 MZだとモニターもついていますけど、昔は家庭用テレビのブラウン管をそのままマイコンにつないで使っていました。X1あたりからですかね。わりと専用のモニターのようなものを用意するようになったのは。あの辺も発色だなんだって問題はあると思います。
大堀 あれも電波新聞社の影響が大きいと。
大橋 そうですね。副社長を通じて当時NECの支配人をお呼びしたことがありました。その方の前に『ゼビウス』をおいて「次のパソコンはこういうことができる仕様にしてください」と頼んだことがあります。
見城 おお、いい話ですね。素晴らしい (笑)。
大橋 NECの支配人も『ゼビウス』を見て「何ですかこれは!」って反応していましたね。
手塚 僕らゲームをやっていた人間でも、最初『ゼビウス』をパッとみた時、ショックを受けましたよね。
大橋 その後、NECの支配人から「88ではできないんですよ、なぜですか?」なんて話があったりしましたね。
※座談会出席者の記憶・見解に基づく記事です。
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大橋編集長の軌跡
1948年 東京都生まれ、7歳からエレクトロニクスホビーのメッカ、東京・秋葉原 に“ラヂオ少年”として通い続ける。
1967年 電波新聞社に入社
1977年 月刊『ラジオの製作』の編集責任者に就任
1975年 『BCLマニュアル』を発刊、10万部を超えるヒット
1978年 アナログシンセ製作記事掲載の「シンセサイザー入門」発刊
1981年4月 『ラジオの製作』の別冊付録として『マイコンBASICマガジン』発刊
1982年6月 月刊誌『マイコンBASICマガジン』が発売
1983年11月 『スーパーソフトマガジン』の別冊付録として提供。第一弾は『マッピー』、第二弾は『ゼビウス』。巻末の「ハイスコアランキング」が話題となる
1980年 ソフト開発室始動。プロデューサーとして移植用ゲームソフトの開発に携わるようになる
1985年10月 ゲーム攻略本『ALL ABOUT namcoナムコゲームのすべて』発刊
1987年7月 『Computer Music Magazine(コンピューターミュージックマガジン)』発刊
1996年 『マイコンBASICマガジン』の発行部数は28万6000部で業界No.1に
2003年4月 『マイコンBASICマガジン』休刊
2008年7月 『電子工作マガジン』を発刊
2010年9月 『マイコンBASICマガジン』は「良心的な編集内容 を通じて、ゲームプログラマーの育成に多大に貢献し、ゲーム業界の発展につなげた」として、ゲーム開発者によるカンファレンスのCEDECから読者、投稿者代表の表彰を受ける。
『マイコンBASICマガジン』
『ラジオの製作』の別冊付録としてスタートし、1982年6月に発刊。読者が自作のプログラムを投稿するコーナーで注目を集め、後にゲームソフトの解析、解説を記載する雑誌へと発展していく。
初のアーケードゲーム攻略本となった『スーパーソフトマガジン』の別冊付録が話題となり、その付録目当てで買う小中学生も多かった。1996年には28万6000部で業界No.1のゲーム雑誌に成長。惜しまれながら2003年4月に休刊。
【今回の同窓会出席者のプロフィール】
大橋 太郎 氏
1948年、東京都生まれ。1967年に電波新聞社に入社。『ラジオの製作』編集長を経て、1982年に『マイコンBASICマガジン』を創刊。1996年には28万6000部で業界No.1のゲーム雑誌となる。『ALL ABOUT namcoナムコゲームのすべて』、『Computer Music Magazine(コンピューターミュージックマガジン)』など次々とヒット作を出し、現在も現役で『電子工作マガジン』の責任者を務める。電波新聞では、コラム執筆も担当している。現・電波新聞社取締役。
手塚 一郎 氏
1966年、東京都生まれ。『マイコンBASICマガジン』ではミニマム版の『ペーパーアドベンチャー』を自ら企画・執筆し話題を呼んだ。後に、ナムコの『ドラゴンバスター』の同誌の別冊のムックを執筆し、ゲーム作家として、『小説 ファイナルファンタジーIV 上下』『リネージュ2 解放されし者』などを執筆。『ファイナルファンタジーIV ジ・アフター 月の帰還』(2008年)などゲームのシナリオも手掛ける。現・スタジオベントスタッフ取締役。Twitter:@Tezuka_Ichiro、公式HP
大堀 康祐
1966年、東京都生まれ。高校生の時に“うる星あんず”のペンネームでミニコミ誌『ゼビウス1000万点の解法』を制作。その後『マイコンBASICマガジン』の別冊『スーパーソフトマガジン』の創刊に携わり、『マル勝ファミコン』などのゲーム雑誌にてライターとして活躍。ゲームプランナーなどを経て、仲間3人とともに1994年にゲーム開発会社マトリックスを設立。2016年にゲーム文化保存研究所を設立。当研究所所長。
インタビュアー 見城こうじ
1965年、東京都生まれ。株式会社ナムコでディレクターとしてさまざまなアーケードゲームの開発に携わった後、ノイズ社を立ち上げ、任天堂と共同でカスタムロボシリーズ5作を手掛ける。その他の代表作『コズモギャング・ザ・ビデオ』、『コズモギャング・ザ・パズル』、『ゼビウスアレンジメント』、か『TWIN GATES』、『PENDULUM FEVER』など。元『マイコンBASICマガジン』のゲームライターという顔も持つ。現在はフリーランスのゲームディレクターとして活動。ゲーム文化保存研究所の電子書籍制作にも協力中。Twitter