アーケードゲームが輝いていた時代を駆け抜けた男! 坂本慎一氏インタビュー 前編

  • 記事タイトル
    アーケードゲームが輝いていた時代を駆け抜けた男! 坂本慎一氏インタビュー 前編
  • 公開日
    2019年02月03日
  • 記事番号
    850
  • ライター
    こうべみせ

高校を中退し16歳でテーカンに入社

▲「高校はつまらないんで中退して、そのままテーカンに入社しちゃいました」と坂本氏

――テーカンの開発に入るための試験はあったのでしょうか。

坂本 入社試験というほどのものはなかったけれど、面談があり、石塚路志人(*01)さんと琴寄幸雄(*02)さんが対応されました。

大堀 石塚さんって同期の僕らの1学年上だっけ?

坂本 1学年上だったかな? それで、そのときにはテーカンから『スイマー』(1982年)がリリースされていて、石塚さんから「『スイマー』ってどう?」って聞かれました。

大堀 『スイマー』は石塚さんが作っていましたよね。

坂本 そうですね。僕は「『リバーパトロール』(1981年/オルカ)のパクリですね」と返事しました(笑)。こりゃ怒られるかなと思ったら、(石塚さんは)「そう思うよね」みたいなリアクションをされて(笑)。それでテーカンに入社が決まりました。アルバイトのつもりだったけど、すぐに正社員になってしまいました。

――え? そのときってまだ高校生だったんですよね。

坂本 学生だったんだけど学校にはもう行く気なかったから中退し。16歳で入社しました。

大堀 16歳で坂本さんが入社したのもすごいけど。17歳か18歳だった石塚さんが面接官だったっていうのもすごい話ですよね

坂本 だって当時は開発といっても4人くらいしかいなかったんですよ。まだ上田和敏さん(*03)も入社されてなかったし。

サウンドモニターの制作から始まった新人時代

▲ゲームがおおらかに作られていた時代を大堀所長も思い出す

――アーケードゲームメーカーというと、当時からゲーム屋の中では大きな組織というイメージを自分は持っていたのですが、ずいぶんこじんまりとしていたんですね。入社してからはどのような感じでしたか?

坂本 テーカンにプログラマーで入社すると通過儀礼的なものがありまして、まずサウンドモニターを作らされるんですね。今のようにゲームの規模が大きければミニゲームやUIのようにパートで分けることができるので、小物部分を練習用として新人に作らせることができるじゃないですか。

でも当時のゲームって数10キロバイトのサイズしかないので、だいたい1人ですべてプログラムしたんですよ。ただ、さすがに新人にいきなり設計からすべて任せるってできないですよね。教えるのも大変だし、新人の立場としても大変だし。

なので、新人にサウンドを担当させるというのは、プログラムの練習というか、力量を見るという目的もあったと思うんですね。画像ではないけれど出力周りの作り方が分かるし、要求されるシビアなリアルタイム性についても身に付くし、教育する側にとっても一番教えやすい部分ということもあったはずです。

でも本音は、サウンドなんて鳴っていればいいものだから新人の練習用にしちゃおう、って感じだったんでしょうね(笑)。

大堀 あの時代はね(笑)。

坂本 だって、へたしたらメロディIC(*04)で鳴らしていましたもん。『ボイジャー』(1982年/テーカン)とかね。

大堀 昔のゲームは大らかだったから。メインプログラムなんかも、少しくらいバグがあっても問題なく動いていればいいじゃん、見た目が格好良ければそれでいいじゃんって、そんな時代でしたよね。

坂本 そう。音も付いてさえいればそれでいいじゃん、ってそんな時代。だからサウンドをやっている人も音楽的な教育を受けた人じゃなくて、ちょっとかじった程度の人が担当するような状況でしたよね

だから僕の場合はモニターが完成しているところから最初は任されたんです。まあ、ただのデータ入力ですよね。「効果音作って」と言われて音を作っていた。石塚さんに教わりながらソースコードを見よう見まねで覚えはじめて、割り込みやら時間管理について学んでいったのが最初ですね。

上田和敏氏との出会いで学んだこと

▲テーカンで上田氏と出会い、さまざまなノウハウを知ることができたという

坂本 その後しばらくして、大卒の人たちが入社してくるんですよ。メタルユーキ(*05)とか(笑)。そういったスタッフと一緒にメダルゲームのラインナップを充実させようということになったんです。

大堀 そんな流れがありましたね。メダルゲームはシグマ(*06)しか発売していないから、テーカンがその牙城を崩すんだというムーブメント。

坂本 それでメダルゲームをいろいろ作っていたのですが、ペイアウトコントロール(*07)が難しくてハマってしまうんですね。そこに上田和敏さんが現れるんです。上田さんは前職がユニバーサルですから、ペイアウトコントロールなんかは当然のように経験されているわけですよ。そのノウハウを教えてもらって、すごいやり方があるんだなと思いました。

メダルゲームはプレイ回数が増えていくごとにペイアウト率がどんどん収束していってコントロールできなくなるんですね。プレイヤーがいつゲームを開始しても同条件でペイアウトさせるということができなくなってくる。それをコントロールして、いつでもプレイヤーに同じような感じでペイアウトする仕組みを教わって、すごいなと思いながらプログラムしていましたよ

テストプレイなんかもすごく徹底していましてね。どういうことかというと、それまでは、ペイアウトの正当性を見るのにテストモードにしてちんたらちんたら遊んでいたんです。するとそれを見た上田さんが「自動化して」っておっしゃるんですね

当時、16、17の年齢だった僕にしてみれば、自動化と言われても「?」ですよ。

要するに、カジノゲームにはセオリーがあるので、今で言うAIのような感じでプレイするプログラムを作れ、ということですね。ポーカーやブラックジャックには勝ち方のセオリーというものがあるので、上田さんはその解説本をポンと僕に渡して、「これを自動プレイできるようにすればいいから」とおっしゃるんです。

で、プレイを自動化するとパパパパパーってゲームが進むんです。ああ、これは早いなと思いました。でも実は、そっちのプログラムの方が時間かかったんじゃないかな。

大堀 AIの方に時間をかけた(笑)。

坂本 自動化するようになると、一晩放置しておくだけで何千プレイとかこなしてくれるんですよ。

当時、僕は上田さんから「慎ちゃん」って呼ばれていて、そしたら今度は上田さんが、「慎ちゃん、これディスプレイの表示をしなければもっと早くなるよ」って言うんです。「慎ちゃん、これ描画にめちゃくちゃ時間かかっているから」って話になって。それで今度は表示を全部消したままゲームが進むようにしたんです。どこかのボタンを押したときだけその時点の表示が出るみたいにして。このプログラムもすごく面倒くさかったですね。

で、そうすると一晩で40万プレイとかできるんですよ。各種データやペイアウトの推移はコンピューターのRAMの中に記録するようにして、ずーっとテストしてチャートを取るわけです。その結果を見て「慎ちゃんのプログラムは合っている」と。そこでやっと上田さんからOKが出るわけです。

僕は、そういったもの作りの仕方がすごくいいなって思ったんですよ。ゲーム作りの周辺的なノウハウが得られたのは大きかった。上田さんに会えて良かったなと思っていますよ

脚注

脚注
01 石塚路志人(いしづか みちしと) : 名プログラマー。後に、『ワンダーボーイ』(1986年/セガ)で知られるソフト開発会社エスケープ(1987年ウエストン、2000年ウエストン・ビット・エンタテインメントに社名変更)を設立。テーカン時代の代表作は『ボンジャック』(1984年)など。
02 琴寄幸雄 : テーカン以前はユニバーサルで活躍。独立後、ジャレコブランドのタイトルを数多く手掛けたゲーム開発会社、NMK(エヌエムケイ)を設立した。
03 上田和敏 : ユニバーサル時代の『Ladybug(レディバグ)』(1981年/ユニバーサル)や『Mr.Do!(ミスタードゥ)』(1982年/ユニバーサル)、テーカンでの『スターフォース』(1984年)、『ボンジャック』のほか、さまざまなメジャータイトルにかかわってきた業界の重鎮的存在。現在はサウザンドゲームズの取締役を務める。
04 メロディIC : あらかじめシンプルな楽曲がプリセットされているICチップ。ほとんどは単音で音が鳴るもので、電子オルゴールともいう。
05 メタルユーキ : ゲームデザイナーの斎藤幹雄氏。代表作は『ときめきメモリアル』シリーズ(1994年~/コナミ)。テクモ在籍時代に『ジェミニウイング』(1987年)や『忍者龍剣伝』(1989年)の楽曲を担当する。
06 シグマ : カジノをヒントに、ゲームセンターで遊ぶメダルゲームを発案した会社。後にアドアーズ(現 KeyHolder)に社名を変更。「ゲームファンタジア(現 アドアーズ)」などのゲームセンターも多数経営していたが、現在はアミューズメント事業から撤退している。
07 ペイアウトコントロール : メダル払い出しの確率調整。これを規定値に収まるように調整しないと、プレイヤーが勝ちすぎたり、反対にまったく勝てなくなったりする。メダルゲームではこのバランスを上手に調整する必要がある。

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