多数の有名ライターを育てたゲームマスコミ界の重鎮!平林久和氏インタビュー 後編
他のゲーム誌とは一線を画したマニアックな内容で異彩を放っていた『ファミコン必勝本』(1986年~1990年/JICC出版局)。同誌は、田尻智氏(*01)やベニー松山氏(*02)、成澤大輔氏(*03)ら人気ゲームライターを輩出している。そんなライターたちを育てたのが、当時、同誌編集部に属していた平林久和氏だ。
ゲームマスコミ関係者はライトな文章を書く人間が多いと言えば語弊があるかもしれないが、その中において、骨太で鋭い切れ味を見せる平林氏の文章にファンは多い。そのような、ある意味異質なゲーム誌編集者がどのような環境で作られてきたのかを、前編でお届けした。
後編となる今回は、編集者としての道を歩み始めた平林氏についてスポットを当てていく。子供の頃からゲームに触れてきたものの、それはあくまでも娯楽の一部。ゲーム誌の編集者となることが本意でなかった氏は、さまざまな苦悩に直面する。それらを払拭し、ゲーム道を突き進むことを決意させた出来事とは何だったのだろうか。
また、インタビューの後半では、田尻氏、ベニー氏、果ては当研究所の大堀所長の若き日のエピソードにまで話は及んでいく。
ゲームノベライズの名作『 隣り合わせの灰と青春』(1988年/JICC出版局)を執筆したベニー氏に対する思いとは? ゲーム誌業界で活躍したライターたちの若き日の姿は必見。ぜひ最後までお読みください。
【聞き手】
ゲーム文化保存研究所
所長 : 大堀 康祐
ライター : こうべみせ
最初の配属先は予想外のゲーム誌編集部
――平林さんがJICC出版局(現・宝島社)に入社した時期は、ちょうど『ファミコン必勝本』の創刊と同じ頃だと思うのですが、入社していきなり『ファミコン必勝本』編集部に配属されたという感じだったのでしょうか。
平林 JICC出版局は文芸書も出していたし、『別冊宝島』(1976年~)のようなインテリ向けの雑誌も出していたんで、そういう仕事ができたらいいなと考えて、1985年に入社しました。ですが、ちょうどその頃、世の中はファミコンブームで、JICC出版局でもゲーム雑誌を出そうという流れになっていました。で、僕が入社した年に新雑誌の創刊準備室のような部署ができていて、そこに配属されました。
――では、思っていたのと違ってしまったという感覚でしたか?
平林 当時の僕にとってゲームの仕事というのは、やりたいことではありませんでした。ファミコンブームとはいっても、「子どもたちが憧がれるゲーム業界の仕事ですね」とか「ゲームの仕事はすごく儲かりそうですね」っていう肯定的な意見は世の中にありませんでしたしね。同級生がメジャーなマスコミ企業で働いているのを見て、羨ましいという感情が湧いてきましたし。「僕はJICC出版局で『ファミコン必勝本』を作っています」って言うのが、かっこ悪いと思っていました。正直言ってしまうと。だから、なりたい職につけたという感覚はありませんでしたね。
――確かに、あの頃のゲーム関連の仕事って、世間的にはカタギではないって感覚が強かったですね。良くて「遊びが仕事」みたいな言われ方をして。それは今も似たような感じかもしれないけど(笑)。
平林 でも新入社員だから、任された仕事はちゃんとしなければならないって思いはあって、創刊のために必要なプレゼン資料を一所懸命作りました。ゲーム業界がどういう構造になっているかとか、任天堂という会社のほかにナムコやハドソンという会社があって、こうやってゲームを作ってカートリッジとして販売しています、みたいな。「市場としては1カ月間で数十本のゲームが発売されているのでゲーム雑誌も成り立ちます」という資料を当時の上司と一緒になって作りましたね。
そんな感じで、最初はゲーム関連の仕事についてネガティブな意識がありましたけど、ゲーム業界を深く知っていくごとに「この業界はおもしろいんだ」と思えるようになりました。しばらくはプラスの感情とマイナスの感情が入り乱れていましたけどね。
――いろいろ自分の中で葛藤されていたわけですね。
平林 その頃、働きながら泣いたことがあるんですよ。ゲーム雑誌にはソフトの発売日をリストで載せているページがあったじゃないですか。『ファミリーコンピュータMagazine(以下、ファミマガ)』(1985年~1998年/徳間書店インターメディア)でいうと新作カレンダーとか。創刊準備の段階でもそれを作らなくてはならなかったんです。「『マッハライダー』(FC/1985年/任天堂)何月何日発売予定」とか「『スターラスター』(FC/1985年/ナムコ)何月何日発売予定」みたいな感じで書いていくわけです。
するとリストに『忍者じゃじゃ丸くん』(FC/1985年/ジャレコ)というゲームが現れるんです。その文字をタイピングしていたら涙が出てきてしまって。「にんじゃ」「じゃじゃまるくん」「じゃれこ」っていう「じゃ」が4連続で続く韻の踏み方を見て、それをタイピングしていると自分が情けなくなったんですよ。「何? この韻の踏み方」って心の中で思って、「こんな文字を書くために学んできたんじゃない」ってこみ上げてきたんです。
コピーライターに秋山晶さん(*04)っていう人がいて、秋山さんが作った(パイオニア「ロンサム・カーボーイ」の)「荒野にいたときより シカゴにいたときの方が寂しかった。」っていうコピーが大好きでした。大学時代に一番好きだったコピーライターで、自分もそういう文章を書きたいと思っていたんです。
でも、僕が書いているのは「忍者じゃじゃ丸くんジャレコ…じゃじゃじゃじゃ」かよって思った瞬間、涙が出ました。話をおもしろくしようとしているんじゃなくて、事実を言っていますから。
父親の死でゲームの仕事に対する偏見や迷いを吹っ切ることができた
――そんな葛藤をしていたのにすばらしい業績を残し、ゲーム業界のご意見番的なポジションになっていくじゃないですか。それにはやはり、迷いが吹っ切れるようなターニングポイントがあったのでしょうか。
平林 父親の死ですかね。忘れもしない1986年の3月8日に『ファミコン必勝本』が創刊されたのですが、この日は父親の命日でもあるんです。無事に創刊されたといって、赤坂の豊川稲荷にお参りしてから打ち上げの飲み会をしたんですよ。やっていることがいかにも昭和時代ですよね。新雑誌創刊とかで、今でもそういうことってやっているのかな? そもそも最近は、出版不景気で雑誌の創刊もないか。
大堀 うち(マトリックス (*05))は毎年、豊川稲荷にお参りしていますよ。今年も行きました。芸能の神様なんで。
平林 それで、夜中に当時住んでいた上北沢のアパートにタクシーで帰ると、伯母が待っていたんです。父が危篤だからこれから行くよって。後から分かったのですが、そのときにはもう亡くなっていたそうです。
ただ、自分の雑誌が創刊された日と父親を亡くした日が重なって、それって偶然だろうか、と思いました。運命とか、そういった類のことを信じる人間ではないのですが、無限の時がある中でこの2つの出来事が人生で重なるのって普通じゃないよな、と感じるしかありませんでした。父から「迷ってんじゃないよ。俺が死んだ代わりに雑誌が生まれたんだ。だから一所懸命働け」というメッセージだと思いましたね。
もう迷わないと決心したのはそれからです。ゲーム業界で働き、ゲーム雑誌を作っていくぞと決意しました。この出来事がなかったら、僕はゲームの仕事というものに対してもっと手を抜いていたし、働くことを諦めていたかもしれない。
脚注
↑01 | 田尻智(たじり さとし) : ゲームフリーク代表取締役社長。『ポケットモンスター』シリーズ(1996年~/任天堂)の生みの親。同人誌から活動を始め、ゲームライターを経験した後、インディーズ制作したファミコンゲーム『クインティ』(1989年/ナムコ)の収入を元に同人サークル「ゲームフリーク」を法人化した。それが『ポケットモンスター』誕生につながっていくのだから、まさにジャパニーズドリームの具現者といったところだろう。 |
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↑02 | ベニー松山 : 編集プロダクションであるスタジオベントスタッフ取締役。『ウィザードリィ』(1981年/サーテック)マニアで、同作の普及に尽力する。代表作は『ウィザードリィ』をベースにした小説『隣り合わせの灰と青春』。 |
↑03 | 成澤大輔 : ゲーム評論家。競馬マニアで『ダービースタリオン』シリーズ(1991年~/アスキー)に関する書籍を多数執筆する。2015年没。 |
↑04 | 秋山晶(あきやま しょう) : 「キューピー マヨネーズ」「カロリーメイト」「ポカリスエット」など、有名広告を多数手掛けるコピーライター。代表作は「野菜をもっとたべましょう。」(キューピー)、「その先の日本へ。」(東日本旅客鉄道)など。 |
↑05 | マトリックス : 当研究所の大堀所長が1994年に起業し、代表取締役社長を務めているゲーム開発会社。 |