多数の有名ライターを育てたゲームマスコミ界の重鎮!平林久和氏インタビュー 後編

ファミコンブームにあやかろうとした怪しい会社は多かった

――自分はスーパーファミコンが発売される1年前くらいからゲーム業界に入っていったので、ファミコンブーム前半頃の業界の様子を知らないのですが、当時はどんな感じでしたか?
平林 取材でいろいろなゲーム会社に行きましたからね。すると、ファミコンブームにあやかって参入したようなゲーム会社には独特の雰囲気があったんですよ。部下が社長のことを「兄貴」って呼ぶような会社もまだありました。
一同 (笑)
平林 普通の企業の応接室ということになっているんだけど、フカフカのじゅうたんが敷いてあって、(ふんぞり返るポーズをして)こんな感じのソファーが置いてあるんです。もしかしたらここって元はやばい系の事務所だったのでは? って思った会社もありました。
そういった専門誌の方たちに聞いていくと、アミューズメントの世界にはダークサイドの方たちと横のつながりがある人もいるっていうのが分かってくるわけです。ファミコンブームにあやかろうと、そっち系のところが多く参入していたんでしょうね。結局は(そういった会社は)淘汰されていくわけなんですけど。
当時のゲーム業界の人たちっていうのは、ファッション感覚も独特でしたよ。ビジネスマンといっても、普通の会社員とは明らかに雰囲気が違う。会社の役員が白のスーツを着て歩いているとかね。シャツもどうしてこういう柄になるんだろう? というようなすごい柄のシャツにネクタイを締めているような感じ。山内溥社長(*01)もワインレッドのスーツとか好んでいたなあ(笑)。
一同 (笑)
多種多様な人が混ざっているゲーム業界の面白さ
――岡本吉起さん(*02)がカプコンに在籍していた時に、(彼から)影響を受けたことがあったらしいですね。
平林 取材でいろいろなゲーム会社に出入りしていて、その時に大阪拠点のカプコンに電話をしたら、東京の歌舞伎町にもオフィスがあることを聞きました。そこで出会ったのが岡本吉起さんです。まだ船水紀孝さん(*03)が新入社員だった頃でした。
その頃から岡本さんは元気な人で、おもしろい人がいるなと思っていたんですよ。彼は「ゲームはこういうものだよ」といろいろ語ってくれました。先ほど話したように、ゲーム業界には「こんな人とは付き合いたくないな」という怪しい人がいっぱいいる一方で、この人といると得るものが多い、すごい人もいるんだな、と思わされたのが岡本さんですね。
ゲーム業界って常にまだら模様で、そもそも世の中ってそういうものなんだろうけど、ゲーム業界はそれが極端なんです。価値のある人と無価値な人が混ざっているのがこの業界のおもしろみでもあるんですけどね。
話は岡本さんに戻りますが、岡本さんと会っている時にちょうどお昼だったんで、「ランチを食べに行きましょう」と誘ったんです。すると岡本さんは「昼飯なんて有象無象が食うものだ」と言うんです。「有象無象」なんてひどい言葉ですけど、これ岡本さんが言ったセリフそのまんまです。
なぜかと聞くと、「ゲーム業界は始業が遅いので昼飯を食べていたら仕事の効率が悪くなる」と言うんですね。「だから昼飯は食わない」と言うんです。「ゲームの仕事をしていて昼飯を食っている奴を見ると有象無象だと思う。だから昼飯は食わん」ということなんです。
自分もそれに影響を受けて、2000年頃までは、付き合いでの会食は別として、外でランチはしなかったですね。腹が減ると会社のスタッフに頼んで、コンビニとかでおにぎりを買ってきてもらって仕事しながら食べていた。
大堀 すばらしい考え方ですね(笑)。
『ファミコン必勝本』時代に築いた人脈

――『ファミコン必勝本』というと、ライター陣もそうそうたるメンバーだった印象があります。あれだけの有名ゲームライターを集めることができたのはなぜでしょう。
平林 「もっとライターが必要だな」ということになり最初に誘ったのが、のちに「響あきら」というペンネームで活躍した池田雅行さん(*04)なんですよ。「池ちゃん」って当時呼んでいたんですけど、彼は岡本さんと仲が良かったんです。それで岡本さんが「ライターを紹介してあげるよ」と言うんで、彼と初めて会って、編集部に来てもらうところからスタートしました。
僕より歳下なんだけどゲームにすごく詳しい。ゲームの内容だけでなく、業界人や会社のことを彼から教えてもらいました。で、彼をきっかけとして当時の『マイコンBASICマガジン』(1982年~2003年/電波新聞社)で書いていたライターたち、山下章さん(*05)や手塚一郎さん(*06)たちと知り合っていった感じです。
――響さんからどんどんツテをたどってライターを集めていった感じだったんですね。
平林 それ以外では、当時、飯田橋に「レッカ社」という編集プロダクションがあり、そこにギラギラしている人物がいました。出版には出版社、編集プロダクション、ライターという流れがあるんだけど、編集プロダクションから仕事を受けて書くのがライターです。で、そのギラギラした人物は「プロダクション経由ではなく、僕と直で仕事したい」とはっきりと言ってきたんです。それが成澤大輔でした。
大堀 彼から言ってきたんですか!
平林 当時は、生意気なやつでした(笑)。体もでかいし。
一同 (笑)
平林 あと、田尻智さんはそういった人たちとはまた異なる立場だった。『ゲームフリーク』という同人誌活動(*07)をしていたし、『ログイン(*08)』(1982年~2008年/アスキー他)とかで原稿を書いていましたよね? それらの記事を読んでこの人に会ってみたいなと思って、人づてに連絡をとって会いに行きました。当時の『ゲームフリーク』は下北沢のバイク屋さんの上にありましたよね。
大堀 初期の頃ですね。
平林 今考えると、本当にいい時代だったと思います。
脚注