多数の有名ライターを育てたゲームマスコミ界の重鎮!平林久和氏インタビュー 後編
雑誌の特色を出すため個性派ライターを育成
大堀 当時は、『ファミマガ』は「ウル技(テク)」(*01)とかいうように、雑誌ごとに特色がありましたよね。JICC出版局の『ファミコン必勝本』も読み物に力を入れている印象が強かったと思うんですが、そういった傾向が、成澤さんや田尻さん、(手塚)一郎ちゃんとかベニー松山さんといった才能あるライターを育成する土壌になったのではないかと思います。そのような環境は、編集部というか、平林さんが作為的に作っていったものなのでしょうか?
平林 そうですね。『ファミコン必勝本』の立場って『ファミマガ』の後追いだったわけです。スタッフの物量で言っても『ファミマガ』が圧倒的に上だった。『ファミマガ』はファミコン雑誌の先行者だったし、営業力をとっても徳間書店の方が上でした。編集ノウハウにおいては『ファミコン通信』(1986年~/アスキー他)に負けていた。
そういった状況を考えた場合に、外部の人間の力を使うしかなかったんですね。マーケティングの考え方でいうと、企業の地位を「リーダー」「チャレンジャー」「フォロワー」「ニッチャー」に分類する「競争地位戦略」というのがあるんです。それに当てはめると『ファミマガ』がリーダーだったんですね。そこに『ファミ通』がチャレンジャーとして出てきた。チャレンジャーはリーダーと戦う関係にあるわけなんだけど、『ファミコン必勝本』はニッチャー(*02)だったから、僕らは別の分野を作らなきゃならない。だから必然的にそうなっていったって感じかな。
――当時は大堀所長もゲームライターでしたけど、何か記憶に残っているエピソードはありますか。
大堀 僕は出来の悪いライターで、編集部にただ出入りしていただけのような存在だから(笑)。
平林 当時は大堀さんに申し訳ないことをしたなと思っています。田尻さんや遠藤雅伸さん(*03)など周りの人たちから聞く大堀さんの評価って、むちゃくちゃ高かったんですよ。そのゲームについてよく知っているとか、思いがあるとか、いろいろな経験を積んでいるとかって。それで期待していたということもあるんだけど、原稿を書かせるとめちゃくちゃ下手だった(笑)。
大堀 言葉が苦手だったもんで(笑)。
平林 僕は編集の人間だったから文字に対するこだわりがあったし、商業誌を出版する立場から大堀さんに辛く当たりすぎちゃいました。当時の大堀青年が少年の頃からずっと積んできていたゲームのキャリアというものを生かすことができなかった。それを申し訳ないと思っています。
それでも、大堀さんはのちにマトリックスという会社を作って、こうやって成功させているじゃないですか。マトリックスの良い評判を聞くたびに、役に立てなかった分、少しほっとしています。
逆に成澤さんには、彼の代表作となる本を作るきっかけを作ってあげました。ゲームライターですが、大の競馬好きであることを知っていたので、当時アスキーの宣伝責任者の方や須田PINさん(*04)に「成澤大輔を起用して『ダービースタリオン』(1991年/アスキー)の本を出しましょう」と提案しました。
――そうやってバックアップしてくれる人がいるのはうらましいですね(笑)。
編集者としての心残りがあるとしたら
――そういえば、平林さんはベニー松山氏が書いた『隣り合わせの灰と青春』(*05)も編集を担当されていますよね? あの小説はすごく話題になりましたが、何かエピソードを教えてください。
平林 当時編集者として僕は未熟だった。ベニー松山も小説家として未熟だった。未熟な2人で作って成功してしまったのが『隣り合わせの灰と青春』。だから、その後10年20年と僕が編集者を続け、彼も10年20年と小説を書き続け、2人でずっとコンビを組んでいたら、ともに荒削りだった部分がちゃんとしたものになっただろうなと思っています。
大堀 読者にしてみればすごくおもしろい小説でしたけどね。
平林 でも、いろんな面で未熟でした。ベニー松山は僕にとっての三島由紀夫なんです。僕が将棋を諦めたきっかけは谷川浩司の存在だったとお話しました(前編参照)。それから太宰治に出会って、小説家になりたいと思った時期もあったんですね。でも、三島由紀夫が学生時代に書いていた文章を読むと、「これを書いたときの三島と同じ年齢の自分にはこんなことは書けない!」と思い知らされまして、小説家の道を諦めざるを得なかった。
――ということは、ベニー松山氏はそれくらいの才能を秘めていると感じたのですか?
平林 そうですね。ゲーム業界には確かにいろいろな文章を書いている人がいます。「世界ゲーム業界文章書きグランプリ」という大会があったとしたら、僕はほとんどの人に負ける気がしません。そういう自負心がありました。
でも、ベニー松山の文章力にはかないません。「この業界にいて文章力で負けてしまう人は誰?」と質問されたらベニー松山の名をまず思い出します。
大堀 そこまで評価するっていうのはすごいですね。
平林 具体的に言うと、彼は語彙力が圧倒的に高い。彼は早稲田大学のクイズ研究会に所属していて、雑学的知識も豊富でした。多くの言葉の華麗な使い手でした。だから、もしゲームライターになりたいという人がいたら、くだらない表現を覚える前に圧倒的な語彙力を付けてくださいと言いたいですね。
――当時はそこまですごい人だとは感じませんでした。単純におもしろいなって感じで読んでいましたよ。
平林 だけど、彼は途中から夢枕獏(*06)さんの影響を受けて若干文体が変わりました。擬音と体言止めを多用する書き方。最初の頃は中島敦(*07)の「山月記」のような格調高い文章だったんですが。格調よりもリズムを重んじるようになった。彼とはすごく論争もしました。だけど、時間が間に合わなくてそのまま入稿してしまったという原稿もいっぱいあった。
――それも後悔ということになるんでしょうか。
平林 そうですね。『隣り合わせの灰と青春』の冒頭の文章のまま、また彼にゲームの物語を書いてもらうのはひとつの夢ですね。
インタビューを終えて
1時間を予定していたインタビューだったが、気がつけば2時間を超えるロングインタビューになっていた。ゲーム業界の日なたの部分から日陰の部分まで、さまざまなものを見てきた平林氏の濃厚なお話はとても興味深く、印象的なものだった。
自分も登場人物たちと同じ時代にゲーム誌でライターをしていたが、そこは編集者もライターも裏方に徹するような方針で、当時、彼らが記名記事を個性的な文章で書いているのをうらやましく見ていたことを思い出した。もし当時、自分も平林氏と出会っていたなら、また違った人生になっていたかもしれない。個人的にはそんなことを思ったインタビューにもなった。
古くから業界を知る人間として、氏の語る言葉は貴重だった。これからゲーム業界を目指すという人は、ぜひ平林氏の著書に目を通してみてほしい。
脚注
↑01 | ウル技 : 特定の条件で発生する、いわゆる裏ワザのことで、開発者が想定していなかったバグから、意図的に仕組まれた隠しコマンドまで多岐にわたる。『ファミマガ』でこの技を読者が投稿する「超ウルトラ技50+1」が企画され、同誌の人気コーナーとなった。 |
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↑02 | ニッチャー : 1980年にアメリカの経営学者、フィリップ・コトラーが提唱した競争戦略理論「競争地位戦略」において、小さな市場規模でありながら、特定の領域で独自の活躍を見せる企業のこと。 |
↑03 | 遠藤雅伸 : ゲーム作家・ゲーム研究者。ナムコ時代に『ゼビウス』(1983年)、『ドルアーガの塔』(1984年)など、ゲーム史に残る名作を次々と生み出した。現在、東京工芸大学芸術学部ゲーム学科教授、日本デジタルゲーム学会副会長、同学会研究委員会委員長などを務める。 |
↑04 | 須田PIN : 当時アスキーでゲーム誌の編集に携わっていた人物。『ウィザードリィ』の熱心なプレイヤーとして有名で、攻略本も手掛けた。 |
↑05 | 隣り合わせの灰と青春 : 初期RPGの名作『ウィザードリィ』を題材とした小説。ゲームをノベライズしたものとしては先駆けの存在である。 |
↑06 | 夢枕獏 : 小説家。独特の文体で描写するバイオレンスな物語に魅了される読者が多い。代表作は『陰陽師』シリーズ(1988年~/文藝春秋)、『餓狼伝』シリーズ(1985年~/双葉社)など。 |
↑07 | 中島敦 : 『山月記』(1942年)で知られる昭和前期の小説家。『光と風と夢』(1942年)が世に認められるが夭折。『李陵』は遺稿。 |