本の街を見守ってきた老舗ゲーセンが残したもの~神保町ゲーセン「ミッキー」~後編
東京のゲーマーの間ではいまや伝説のゲームセンター「ミッキー」。そのミッキーを開店し、支えてきた三木商事の三木さん親子に、インタビューを敢行した。
前編では、アーケードゲームの黄金期から衰退期までゲーセン業界の酸いも甘いも知り得てきたお二人に、同店の常連客でもあった大堀所長と筆者が当時抱いていた素朴な疑問を中心にお聞きした。
後編では、今だから話せるゲーセン業界の特殊な裏事情や、2013年の閉店当時の様子について伺った。それらを踏まえて、多くの常連客に愛されたミッキーを思い返していきたい。
三木商事
三木修二氏 (以下、三木社長)
三木健太郎氏 (以下、三木(健))
【聞き手】
ゲーム文化保存研究所
所長:大堀 康祐
ライター:八木 貴弘
コピー商品に悩まされた麻雀ソフトの制作販売
――三木社長は、ゲームを作られたこともあったんですよね?
三木社長 そうですね。リースの商売もやっていて、リースの何たるかは分かっていたので、自社でゲームを作ったり、ほかで作らせてからその販売権を得たりすることもありました。
――どういったタイトルを作られたのでしょうか?
三木社長 『麻雀かぐや姫』『台湾麻雀』『麻雀カメラ小僧』(いずれも1988年/三木商事)とか。麻雀ゲームはニチブツ(*01)が開発し、三木商事で販売する形で何十種類も世に出しました。ゲームのシナリオ(ストーリー)は私が考えて、キャラクターなどのデザインはニチブツが担当しましたね。1タイトルで1,000枚~2,000枚作りました。
――『麻雀かぐや姫』は当時、シグマのファンタジア(*02)系列のお店で見かけましたね。
三木社長 あそこはメダルのお店でベット式だからね。『麻雀かぐや姫』は本場中国では「姫麻雀」と言われていて、40万枚の大ヒットでした。でも、僕が売ったオリジナル基板はそのうち1,000枚程度。ほとんどコピーされた基板で、日本国内では6,000~7,000枚ぐらいのコピー基板が出回りました。ニチブツに開発させたんだけど、カスタムチップが解析されてしまいました。当時はコピー、コピーの世の中で、ようやく日本でも「それはいけないね」と言われ始めた頃でしたね。
大堀 インベーダーハウス(*03)を経て、ミッキーを経営しながらキャビネットを作ってソフトも開発させた、という流れですね。
三木社長 どうせコピーされるのは分かっていたから、オリジナルだと証明する上でもしっかりと基板に許諾証シールを貼って卸していました。1枚2,000円で(許諾証シールを)買い取ってもらったりね。でも、販売権などの権利はちゃんと三木商事が持っていました。
――それだけ規模が大きくなっていったのでしたら、業界でも一目置かれていたのでは?
三木社長 セガやタイトーなどの大手開発会社にはなれないけれども、裏方として業界ナンバーワンになりたいという野望は持っていました。でも夢は叶ってない。途中で挫折しました。ただ、(業界を裏方で盛り上げるという)スタイルは変えなかった。
三木(健) 当時は大手業務用の業界団体がゲーセンにガイドラインや標準化規格を設けていたのですが、ミッキーはその団体に入っていなかったことが功を奏して、その規格に外れた、例えばパチスロ(*04)のような台も置くことができたのです。その自由度があったからこそお店が成り立ったという面もありました。しかしながら、1980~1990年代の全盛期に比べて、2000年以降はアーケードゲームも衰退してきました。
三木社長 実は、パチンコ店の業務用パチスロを、ゲーセンで稼働できるアミューズメント仕様に変えたのはウチです。それをJ社が買い取って、どこのゲーセンでも稼働できる流れになった。それもあり、三木商事の名前は表に出てこないんだけど、全部ウチが手をかけた商品でした。
同じようなオファーはほかの会社からもあったんだけど、J社と取引していた手前、断りました。その後、その会社は質の低いところに開発を依頼したもんだからクレームの嵐で、2005年には倒産しましたね。
メダル機の開発はとても難しい。誤作動を起こしたら一気にクレームが来て、売れなくなっちゃう。新台1台40万円のパチスロ機が、在庫の山になるんですよ。
「安く売って早く儲けてもらう」がウチのモットーなんで、やるからには10カ月で元を取り、最低でも3年は稼げるビジネスにしないとね。
大堀 ミッキー以外に、何店舗ぐらいのゲーセンを経営されていたのでしょうか。
三木社長 小さい店舗を4軒やっていましたが、ミッキー開店(1982年)の1年後に全部閉めて、(その4店舗にあった)すべての機械をミッキーに集めました。
当時の店の雰囲気が分かる『ゲーメスト』の広告
――今回、資料としてゲーム雑誌『ゲーメスト』(1986~1999年/新声社)を持ってきました。当時、こちらで広告を出されていましたよね。
三木社長 雑誌社(新声社)から掲載させてくれないかと話を持ちかけられたんで、二つ返事で「いいよ」って。
――お店の宣伝ページながら、お客さんの写真が多く載っていて、広告ですらミッキーの良い意味での異質さがうかがえました。
三木社長 (雑誌社に)任せっきりだったんだよ。お店に写真を撮りに来たりしてね。
三木(健) デザイナーさんが良かったんじゃないかな。
――当時、広告費はどれくらいだったんですか?
三木社長 この当時は高かったですよ(笑)。2ページで20万円まではいかなかったかなぁ。『コインジャーナル』(1976~2001年/コインジャーナル(*05))も半ページで20万円とかだったかな。それでも最盛期は広告を4ページは出していました。年末は特に多く出していましたね。
――広告ページを見ると、ゴールデンウィークに無料サービスをしたりしていますよね。
三木社長 そういった企画はしょっちゅうやっていました。
三木(健) 時期に関係なく、開店後のコーヒーサービスとか。これがサラリーマンに人気で。やっぱりタダ飲みはできないので、気持ち的に少し遊んで帰るんですよね。午前中はお客さんが少ないので、それでも十分でした。
三木社長 フリーベンダーにして解放していたりね。
――『ギャラクシーフォース』(1988年/セガ)の導入にしても、お客さんに来てもらいたくてやっていたんですね。
三木社長 お客さんが来てくれて、楽しんで、そして喜んでもらえれば、それだけで良かったです。
――常連さんも多かったと思うのですが…。
三木(健) お客さんは、ある程度の年齢になると卒業していく。でも、毎年世代の入れ替えがあって常に繁盛していました。
三木社長 当時のミッキーのお客さんが、今でもウチの機械を買ってくれているんですよ。
三木(健) 「ミッキーに通っていたんですけど、何かゲーム機が残っていませんか?」なんて、今でもたまに飛び込みで電話がかかってきたりね(笑)。だから、ミッキーっていうのはそれなりに名が通っていたのかなと思います。
三木社長 テーブルゲーム機は、今でも毎月30台ぐらい出ていますよ。新品も作っていますしね。
三木(健) これまでの付き合いがあるので、お店を閉めて、テーブル機を撤去する業者さんからウチに流れてくるんです。全部買い取ってレストアして、リユースもしています。
――対象は業者さんですか? 個人さんですか?
三木(健) 個人のお客さんが多いですね。
脚注
↑01 | ニチブツ : 日本物産の略。ミミズクのメーカーロゴでも有名なアーケードゲームメーカーの雄。『ムーンクレスタ』(1980年)や『クレイジークライマー』(1980年)といった人気ゲームのほか、多くの麻雀ゲームを手がけたことでも知られる。 |
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↑02 | シグマのファンタジア : シグマは、スロットマシンなどのカジノゲームをメダルを使って遊ぶ「メダルゲーム」というジャンルを考案・確立したゲームメーカー。1971年に、メダルゲームを中心としたゲームセンター「ゲームファンタジアミラノ店(現「アドアーズ」)」を開設。以降、同様のゲームセンターをチェーン展開した。 |
↑03 | インベーダーハウス : 『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)のみを設置したゲームセンターで、1970年代後半から1980年初頭にかけて全国各地に出現した。 |
↑04 | パチスロ : ここでいう「パチスロ」は、いわゆるパチンコ・パチスロ専門店に置かれるものではなく、未成年でもプレイ可能なアミューズメント仕様に改変されたタイプ(パチスロゲーム機)を言う。メダルもしくは100円で遊べる台が一般的。ミッキーは後者のタイプが多く置かれていた。 |
↑05 | コインジャーナル : アーケード業界のトピックや新作情報、ロケーション動向などを掲載していた業界誌。2001年以降は『アミューズメント・ジャーナル』に引き継がれる。書店で取り扱われる類いの雑誌ではないが、AOUアミューズメントエキスポなどの展示会やゲームセンターで目にしたことのあるゲームファンも少なからずいたのでは。 |