本の街を見守ってきた老舗ゲーセンが残したもの~神保町ゲーセン「ミッキー」~後編
目次
時代の流行りでゲームの難易度を調整
――1982~2013年という長い間、ゲームの移り変わりや業界の変化を見てきて、ミッキーはどのように変わっていったと感じていますか?
三木社長 ウチはまったく変わらなかったですね。ダメになった時期というのはそんなにない。ビデオゲームがダメだった時は大型が良かったり、パチスロが受けていたり、切れ目がないんですよ。
――『テトリス』(1988年/セガ)をはじめとするパズルゲームブーム、『ストリートファイターⅡ』(1991年/カプコン)や『バーチャファイター』(1993年/セガ))、『鉄拳』(1994年/ナムコ)といった格闘ゲームブームがありましたよね。
三木(健) 『テトリス』は最初リースでしか出さなかったんだよね。後半は売っていましたけど。
――『テトリス』は発売当初から人気があったんですか?
三木(健) あったと思いますよ。
――今だから言いますと、ミッキーに置いてあった『テトリス』って難易度がハードランクだったんですよ。普通は「簡単だけど…」と思われがちなんですが、その難易度のおかげで鍛えられたんです。今では感謝しています(笑)。
三木社長 ゲームの難易度調整については現場に任せていたんだよ。
――周りのゲーセンがプレイ料金100円の中、ミッキーだけが50円でしたから、(『テトリス』の)難易度が高くてもプレイヤーは納得していたんじゃないかと…。
三木(健) 『テトリス』なんかもそうですが、終わりのないタイトルはプレイ時間が長くなってしまう。そういった理由での難易度設定というのもありましたよね。店長が全部調整していたんですよ。
三木社長 現場がそうだったということを、社長として今、初めて知りました(笑)。
――遠くから通っていた人が「これは難しい…」と感じていたという話を聞いたことがあります。
三木(健) 言ってくれればよかったのに。
一同(笑)
三木(健) 『電脳戦機バーチャロン』(1995年/セガ)はとても流行っていたんですけど、店長から「ハードモードでやっていて、いいんですかね…」って相談されたことはありましたね。あと『パカパカパッション』(1998年/ナムコ)も。
――ミッキーは『パカパカパッション』の聖地としても有名でしたよね。サウンドを強化した台がお店の入口付近でずっと稼働していました。
三木社長 あれは『パカパカパッション』専用台として、ブラストシティ(*01)を改造して作った特別仕様のキャビネットで提供していました。
三木(健) JBLのスピーカーを増設して、お客さんの声を反映させたんです。
――私が通っていた1980年代は、付近にある明治大学の学生さんなど若い客層が多いイメージでしたが、1990年代から閉店まではいかがでしたか?
三木社長 学生さんはもちろん多かったね。それとサボリーマンね(笑)。朝「営業行ってきまーす」なんて言って出てきて、それから夕方までずーっとウチで遊んでいる。そんな人もゴロゴロいたよ。
オールドゲームもインカムに貢献
――オールドゲームコーナーについて聞かせてください。お店の2階窓際にオールドゲームがずらっと並んでいましたが、その端にずっと『グレートソードマン』(1984年/タイトー)が置いてあったのが印象的でした。
三木(健) あれは私が置かせていました。昔のゲームを入れると、一瞬インカムが上がるんですよ。ゲームって入れ替えた直後は売り上げが良くなるんですね。だから月に1、2回、在庫を利用して入れ替えていました。『グレートソードマン』は売り上げが良かったからずっと置いてあったんだと思うんですけど。
三木社長 レイアウトを変えるだけでも売り上げに影響があったね。
――健太郎さんがお好きだったタイトルを入れていたこともあったんでしょうか?
三木(健) もちろん好きなものも入れていましたけど、売り上げは思ったようには上がらないんですよね。
大堀 健太郎さんがミッキーをお手伝いするようになったのは、いつぐらいからですか?
三木(健) 25歳(1999年)くらいの頃からかな。お店と会社と両方見ていました。
三木社長 何やるにしても、現場を知らないといけないからね。
三木(健) 集金は社員がしないといけなくて、毎日のお札の管理と、2週間に1度大がかりな集金をしていました。
大堀 集金だけでどのくらいの時間がかかっていましたか?
三木(健) 6~7人がかりでゆうに2~3時間はかかっていました。閉店後にやるので、終わるのが深夜の3時とかね。『機動戦士ガンダム エクストリームバーサス フルブースト』(2012年/バンダイナムコ)のような極端にインカムの良い新ゲームは特にそうだったんですけど、2~3日に1度はお金を回収しないと、すぐに(コイン箱が)一杯になってしまうので、頻繁に集金していました。
一番インカムの高かったゲーム
――一番インカムの良かったゲームって覚えていますか?
三木(健) パチスロですね。『北斗の拳』(2003年/サミー)、や『吉宗』(2003年/大都技研)など(のパチスロゲーム)は1台で1日5万円は入りましたよ。それが5~6台ありました。パチスロゲームだけはプレイ料金を100円にして景品を出す仕様にした時もありました。
――もう少しで出ると思うと止められない。出たら出たで止められないのがパチスロですからね。ビデオゲームではどうだったでしょう?
三木(健) 『ストリートファイターⅢ 3rd STRIKE-Fight for the Future-』(1999年/カプコン)は長く好インカムでしたね。あと『バーチャストライカー2 ver.’98』(1998年/セガ)もすごかった。
――インカムとは別に、人気のあったゲームは?
三木(健) やっぱり『スパイクアウト』(1998年/セガ)ですね。ウチは特別だったからかもしれないですけど、『パカパカパッション』も。
昔は店内に川が流れていた!?
――店内入口に、寂しげにクレーンゲームが置いてありましたよね?
三木社長 あのスペースには、クレーンゲームの(設置)前は自販機が置かれていて、川が流れていました。
――川ですか!?
三木社長 もともとが和風の喫茶店で、2階から水が流れていました。途中から水を流すのをやめて、大型筐体を入れた時だったかに壊して、ゲーム機を置いたんです。
――1986年頃からミッキーに行きだした私には覚えがないですね。その頃のミッキーも見たかったです!
大堀 僕は『ゼビウス』(1983年/ナムコ)や『スターフォース』(1984年/テーカン)の頃に行っていましたが、なんか隙間があって、そんな雰囲気だったような気もします…。
――店に入ったらいきなり川が流れていて瓦があったら、絶対に忘れられない場所になりますよ。写真が残っていたら、ぜひ見たかったですね。
東日本大震災が残した爪痕
――ミッキーの歴史の中で、何か大きなハプニングはありましたか?
三木(健) 2011年の東日本大震災ですね。店内のすべての両替機が倒れました。結局、(あの震災が)閉店のきっかけとなったわけです。
三木社長 屋上にあったエアコンの室外機も全部倒れました。瓦も落ちて、天井も全部張り替えになりましたね。
――地震の直後、お店は一時閉店したのですか?
三木(健) それが、地震で揺れながらも、逃げないでゲームをやっているお客さんがいましてね(笑)。けが人が出なかったから、こうやって笑い話にできますけれど。
――お客さんの鑑ですね(笑)。
三木社長 あの地震で、店の壁にヒビは入るわ、いろんなものが曲がるわ。
三木(健) 床も抜けそうになり、重量のあるものは置けない危険なスペースもできてしまって。そこは立入禁止になりました。
三木社長 そんな状態だったので、大家さんや1階に入っていた飲み屋さんに迷惑がかからないよう気を使いました。2階や3階から、1台120kgの機械が120台も落ちてきたら大惨事になりますからね。
――床が抜けそうだったというミッキーと1階にあった飲み屋の天井は、どれくらい離れていたのですか?
三木社長 床と天井の間は、1m弱はあったんだよ。だから飲み屋に振動は伝わらなかった。
――実際に床が抜けたことはなかったんですか?
三木社長 それは一度もなかった。地震が起こる前は、定期的にウチの内装をやっているスタッフを呼んで床を補強していました。
――震災の時も営業していたんですよね。過去にお店を休みにしたことは?
三木社長 1日もなかったですね。
閉店という苦渋の選択
――東日本大震災で店にあちこちダメージが及び閉店に至ったということですが、建て替えてミッキーを再開する、というお考えはなかったのでしょうか?
三木社長 それはありませんでした。一つの理由は、ゲーム機が高額になってきたこと。私の経営スタイルは、投資金額は抑えめにしてリターンが早いやり方です。(そのスタイルが業界の流れ)に合わなくなってきた。課金制度のように、メーカーが儲かればいいというメーカー主導のスタンスに変わってきました。これだと店は元が取れません。「10カ月で元を取ろう」という私みたいな経営者は、そんな事業にはお金をつぎ込めませんよ。
三木(健) あと、ゲームをバージョンアップした時に減価償却ができない。償却できたと思ったら、またバージョンアップされるし、売っても二束三文。これじゃ商売にならないですよね。
三木社長 自転車操業ですね。全部メーカーに吸い取られるようになってしまった。そして、新作のアーケードゲームに魅力がなくなってしまった。現在やっているゲーム機販売事業のほうが、お客さんに喜んでもらえるようになりました。
三木(健) ミッキーの閉店前はビデオゲームがリリースされなくなっていました。そうすると、広いスペースに何を置こうかと考えたとき、自社で作ったものになりますよね。ウチはパチスロゲームを自社で作っていたので台数を増やしました。盤面交換なんかも自分たちでやっていましたね。業者さんに頼んだら高くついてしまいますから。最終的にはそういう流れになりました。寂しいことですけれど、時代の流れには逆らえなかったですね。
三木社長 震災で店にガタがきたのは、むしろいいきっかけだったんだよね。
三木(健) 売上高で言ったら、パチスロゲームが占める割合のほうが高くなっていましたね。
三木社長 最後はパチスロゲームだけで40~50台は置いていました。台湾で木製のキャビネットを作らせて、基板はウチのを使い、中古の盤面を買ってきて乗せるだけ。
――インカムが悪くなっていったからやめようと考えられたのではなかったんですね。
三木(健) 本音を言えば続けたかったですよ。
三木社長 赤字になっていたわけではなかったからね。
閉店当日のお客さんの反応
――閉店告知を出した時のお客さんの反応はいかがでしたか。
三木(健) 告知してから閉店当日まで、たくさんのお客さん、常連さんに来ていただきました。
三木社長 筐体も値札を付けて売ったんですよ。貼ってあったポスターは全部無料で(来店者に)差し上げました。
――そうだったんですか! 形見分けに欲しかったですね。
大堀 いまだに、神保町へ行ったら必ずミッキーの跡地を見に行くんですよ。「まだある!」って確認しに。
三木(健) あそこもとっくに新しいビルが建っているはずなんですけどね。その後のことは私たちには分からなくて…。
――神保町界隈は、もうゲーセンは1軒だけになってしまいましたね。
「ありがとう。お世話になりました」という気持ち
――それでは最後にお二人から、ミッキーを愛したお客さん、常連さんに一言メッセージを頂けますか。
三木社長 本当に「どうもありがとう」以外、ないんだけどね。逆に「お世話になりました」と言いたいですよ。お礼を言われるより、こちらからお礼を言いたいですね。「ミッキーを愛してくれてありがとう」と。これしかないです。
常連さんは、朝早くから来てくれて、夜遅くまでゲームで遊んでいました。みんないい子ばかりなんですよ。神保町なりに品のある子が多かったですね。
三木(健) 地域性なのか、神保町って不良はいないんですよ。
――思えば、ミッキーは安心して行けるゲーセンでしたね。
三木(健) 頭の良い私立校に通っている子も多かったですよ。東大から通ってくる学生さんもいました。
――こう言うと失礼ですが、一見ボロい外観のお店なんですが、迷路のようでワクワクする店内、そしてアットホームで安心できる雰囲気があったからこそ、ミッキーは多くの人に愛されたのではないかと思います。
三木(健) 経営していた側から見ても、すごく恵まれていたと思います。一言でと言われると難しいのですが、私も親父と一緒で「本当にありがとうございました。こちらからお礼を言わせていただきたい」と。それに尽きます。閉店の時、本当にしみじみそう思いました。
閉店当日、店を閉める時間になっても常連さんがなかなか帰らないんですよ。「最後に写真を撮らせてください」とか「もっと話を聞かせてください」とかってね。店を閉める間際まで、最後までお店の前で待っていてくれました。
取材の最後に改めて思ったこと
裸一貫でスタートし、30年以上もたくさんの人から愛されるお店を作った三木社長と健太郎さん。業界の表も裏も見てきたお二人から出てきた「ありがとう」の言葉が胸に刺さった。かつてミッキーのお客さん、常連さんであった読者に代わり、三木さん親子にあらためてお礼を言いたい。
心に残る青春時代の1ページをありがとう。
※記事内の店舗画像は但し書きのあるもの以外すべてITmedia「ねとらぼ」2013年03月27日公開記事および2013年3月31日公開記事より、許諾を得た上で引用したものです。画像の二次使用はおやめください。
脚注
↑01 | ブラストシティ : 1996年に発売されたセガの汎用筐体で、エアロシティ、アストロシティなどに次いでリリースされた。大きめサイズで迫力があり、セガの『ゲイングランド』(1988年)や『バーチャファイター』といった24kHz仕様のゲームに対応可能である点も特筆したい。 |
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