ゲームセンター聖地巡礼「1980年代 京都」特別編~ハイスコアラー三原一郎氏のゲーム体験記~
目次
『ゲバラ』をノーミスクリアするとやってくるアイツ
――三原さんはノーミスにこだわってゲームをプレイしていたとのことですが、その美学はどこから生まれたんでしょう?
三原 もう、俺が通っていた「ビッグキャロット京都店」がハナっからノーミス文化でしたからね(前編にて詳述)。俺が常連になる前から。
――三原さんたちが「ビッグキャロット京都店」でノーミス文化をスタートさせたわけではなく、すでにそういう伝統があったということですね。
三原 あ、ノーミスといえば、『ゲバラ』(1987年/SNK)は、ノーミスクリアができないんですが知っています? 1ミスしてのクリアはできるんです。俺はこのゲームで、ノーミスクリアをした結果、クリアができなかったんです。
―― えっ…?
三原 何言っているか分かんないと思うんですけど(笑)、ちゃんと説明しますね。『ゲバラ』って、永久パターン防止キャラが現われるんです。死なないまま時間が経つと殺しに来るんですよ(笑)。避けられないような爆撃がくる。
俺はこのゲームの最終ボスをノーミスで倒し、エンディングのスタッフロールが始まったんですけど、問題はここなんです。永久パターン防止キャラが、エンディングの最中に来るんですよ。
一同 えっ?
三原 エンディングが流れているときは、自分は動けないから死ぬんです。で、永久パターン防止キャラが出続けているんで、残機も全部死ぬ。だから、エンディングの最中にゲームオーバーになるんです。
一同 へえ~…(笑)。
三原 ノーミスでエンディングに到達するとクリアできないんですよ(笑)。でも、わざと一度死んでから最終ボスを倒すと、エンディングの最中に永久パターン防止キャラが来ないから、クリアできるんです(笑)。
大堀 ひどいね(笑)。
三原 …というのを、当時ノーミスを突き詰めた結果発見したんです(笑)。
大堀 そんな会話できる人、いま何人いるんだろう(笑)。
三原 あと、『サスケvsコマンダー』(1980年/新日本企画)で、周回プレーに成功しています。あれ、全部のボスを倒すと、一面目に戻るんです。全ステージクリアした後のボスが、最初のボスが使う「火炎の術」を使ってきたときはびっくりしましたよ。
大堀 最初に戻るんだ。あれ、全ステージクリアできる人いるんだなぁ。
三原 『ゲバラ』に関しても『サスケvsコマンダー』に関しても、「俺はそんな記憶があるんだけど、皆さんそうでしたよね?」と今回ここで問いかけたいです。誰か俺の記憶を証明してほしい(笑)。
大堀 「そうでしたよね」って言ってくる人いないと思うなぁ(笑)。
フレンドリーなゲーマーは嫌い…?
血のりの『マーブルマッドネス』事件
――三原さんは、ゲーセンでお友達になった方は多いんですか?
三原 友達になったのは、「ビッグキャロット京都店」で知り合った連中がほぼすべてだと思います。敵と味方と半々ですけどね。やはりスコアラーなんで。仲のいい友達もいれば、一言も言葉を交わさないヤツもいました。
――ゲーセンで積極的に友達作りをしたわけではなく、自然の流れでいろんな人と仲良くなっていったという感じでしょうかね。
三原 そうですね。後期に『バーチャファイター』(1993年/セガ)とかを遊びに東京に来ていて、そのときに知らないプレイヤーがフレンドリーに話しかけてくるのが、俺は相当ダメで…(笑)。本編でも言いましたけど、京都のゲーマーって逆に、暗黙の了解で距離を置くんですよ。
――そういう距離間のほうが心地良かったと?
三原 というか、みんな心に壁を持っていた感じです(笑)。常連同士の結束が生まれてから仲良くなっていく感じでしたね。
――なるほど。三原さんは、当時そういった仲間内で、ゲームの同人誌を作ったりなどの活動はされていましたか?
三原 というか、「ビッグキャロット京都店」の店長が同人誌を作っていたので、手伝っていました。毎月200部くらいでしたかねぇ。
大堀 アリカの社員さんが、まだそれを持っているんですよね。
三原 はい。当時編集長をやっていたのが、いまのアリカの業務部の部長Oですから。
――それはぜひ拝見して掲載したいですが、今回はお持ちではないですよね?
三原 はい。闇に葬りたい過去ですので。
大堀 表紙だけでもいいじゃないですか(笑)。
三原 ああ、表紙、俺が描いているのもあるからダメです(笑)。事実上、俺は裏の編集長だったんです。常連さんが描いていた漫画とかも連載していましたね。
大堀 載せたかったなぁ(笑)。現存しているのに。
三原 そういう試みもやっていたり、「ビッグキャロット京都店」は、ほんと京都のゲーセンの中心的イメージでしたね。あ、余談ですが「なんばCITY ビッグキャロット」は、伝説の『NG』(ナムコの無料情報誌)の1号が、関西で初めて配られた店です。
――そういえば、ナムコ直営店には「ビッグキャロット」という店舗もあるということを、恥ずかしながら今回の探訪で知りました。
大堀 「プレイシティキャロット」を冠する直営店が多い中、高田馬場は「ゲームブティック」でしたね。「ゲームブティック」は、オシャレにしようと名付けたんだろうけど、ゲームやる僕らからしたらあまり関係なくて(笑)。蒲田は「ミライヤ」でしたしね。
――ほかにも何か、当時のアーケードゲームに関するエピソードがあればお聞かせください。
三原 あ、俺、手や爪はきれいなほうだと自負しているんですけど、1本の爪だけに縦の溝が入っているんです。
大堀 何をやったんですか(笑)。
三原 『マーブルマッドネス』(1984年/アタリゲームス)を「なんばCITY ビッグキャロット」でやっていたときに、指をぶつけたんです。プレイ中、なんかおかしいなと思っていたら、辺りが血の海なんです。ゲームに集中しているから、俺はそんなことは気づかなくて…。
大堀 血のりの『マーブルマッドネス』(笑)。『マーブルマッドネス』で事故った人はけっこういますよね。トラックボールに肉を挟んだりして。
三原 『マーブルマッドネス』は、一時期筺体を持っているほど好きでした。音も良かった。当時、群を抜いていましたよね。
――「東武東上線編」に出てくれたスリーリングスの竹中さんも、『マーブルマッドネス』を一番好きなゲームに挙げていましたね。
三原 あと、当時やっていたラジオ番組『ラジオはアメリカン』(1981~1996年)。この番組のCMでは、最新のナムコゲームの情報が流れるんですよね。
『ギャプラス』(1984年/ナムコ)が初めてCMで流れたとき、俺は雑音もあって「ギャポラス」って聞こえていた。「今度『ギャポラス』ってゲームが出るぞ」と息巻いていたんですが、実際出たのは『ギャプラス』だったという(笑)。
――『ギャポラス』ってかわいいですね(笑)。
三原 しかも後から知ったのは、東京のラジオで流れていたCMと、ほかの地方のラジオで流れていたCMは内容が違うということ。ゲームのCMは同じなんですが、直営店のCMが違う。
例えば、東京では「プレイシティキャロット新宿店」の紹介をしていても、東海では名古屋の現地のゲーセンを紹介している。大阪では「なんばCITY ビッグキャロット」を紹介していたり…。こういう事実を残しておくためにも、当時放送された各地の番組を録って集めておけばよかったと今思います(笑)。
――確かに、いい歴史的データになりそうですね。
人を驚かせたくてマイコンゲームを改造
タイトーやカプコンで本当のゲーム作りを学ぶ
――三原さんがゲーム業界で働こうと思ったのはいつ頃ですか?
三原 もう中学のときには、ゲーム業界で働きたいという気にはなっていましたね。そして高3くらいのときに『ウイニングラン』(1988年/ナムコ)を見て、これからはコンピューターグラフィックスだと思って、そういう大学を選びました。
でも当時は、ゲームを作りたいというよりは、「人を驚かせたい」なんですよ。『パックマン』(1980年/ナムコ)って、パワーエサを食べて逆転するじゃないですか。当時、俺はマイコンでプログラムを改造して、パワーエサを食べたら死ぬというゲームを作っていた(笑)。知らずにやったやつをびっくりさせて、それを後ろで笑って見ているという根の暗い遊びが好きで(笑)。
―― 人を驚かそうというのが、三原さんのゲーム作りの原点なのでしょうか?
三原 …と言うと聞こえはいいですが、それよりも「俺の張った罠に落ちろ」みたいのが最初だと思いますね(笑)。人をだますのが好きだったんですよ、たぶん(笑)。いい言い方をすれば、「人をだまして驚かせたかった」みたいな。それがスタートで。もうそういう趣味は実行してないんですけどね。
――三原さんはマイコンでゲーム作りをされていたんですね。
三原 他人のプログラムを理解して、改造するのが好きでしたね。当時『I/O』(*01)というマイコン雑誌に、中村光一さん(*02)が作ったPC-8001のゲームのプログラムが載っていた。そういうものを自分で解析して、改造したりしていましたね。またそこで、驚くような仕掛けに改造して、友達にやらせたり。
――分かる気がします。私はプログラムでゲームを作ることはできず、『ロードランナー』(1983年/ブローダーバンド)のコンストラクション機能でステージを作って楽しむぐらいに留まっていたのですが、これがゲームプレイよりもおもしろくて。難解なステージを作って、友達にやらせて、自分の思うように引っ掛かるのを見てニヤニヤしていました。
三原 分かります。でも、俺のはもっと陰湿でしたよ。増田さんの言うような、解けなかったことに対しての「してやったり感」は、クリアできるという前提がある。俺の場合は根本がおかしいんですよ。クリアさせる気がない(笑)。
一同 (笑)
三原 お約束を守った結果死ぬ…とかね(笑)。悪意のあるSです(笑)。遊びでマイコンとかを触っていた時代の性質は、自分がゲーム制作のプロになったときには、ほとんど生かされていないと思います。
――なんと…(笑)。
三原 俺がゲーム会社(タイトー)に入って最初に配属されたのは、アーケード部門だったんです。当時のアーケードゲーム作りって「100円3分で(顧客を)納得させるにはどうするか」というテーマがあった。「100円3分で終わらせろ」というよりは、「100円で3分遊んでおもしろいと思ってもらって、また100円入れさせる」という。
それを考えると、(客に)「惜しい」とか「もう少しなのに」と感じさせないといけない。マイコンでゲーム改造していたときとは真逆ですよね(笑)。
プロのゲーム作りはタイトーさんで基本を教えていただいて、企画論はカプコンさんで学ばせていただきました。それが今に生きていると思います。
――ぜひこれからも、斬新な「人を驚かす」ゲームを作り続けていただきたいと思います。
取材当日、我々取材班は三原氏と共に東京から京都に向かったのですが、三原氏は新幹線の中、ゲーセン跡地巡礼の道中、ホテルの喫茶店などで、楽しいエピソードを休みなく聞かせてくれました。それらをつなぎ合わせて作ったのがこの特別編です。本編もぜひご覧ください。
三原 一郎 氏
1968年生まれ。京都府出身。立命館高等学校を卒業後、京都芸術短期大学に入学。タイトー在籍時は『パズニック』、カプコン在籍時は『ロックマン5』『ロックマン6』などの開発に携わる。1995年、西谷亮氏(アリカ社長)と共に株式会社アリカを設立し、『ストリートファイターEX』や『テトリス ザ・グランドマスター』などを開発。約30年にわたりゲームを作り続けている人物。現在はアリカ取締役副社長。
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脚注
↑01 | I/O(アイオー) : 1976年に日本マイクロコンピュータ連盟から創刊され、後に工学社発行となったPC雑誌。PC本体やPCゲーム、PCショップなどの広告が誌面の大半を占めていた。ゲームのプログラムリストも掲載し、パッケージ販売も行っていた。内容は当時とは大きく異なるが、現在も刊行中。 |
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↑02 | 中村光一 : かつて『I/O』に数々の自作プログラムが掲載されていたプログラマー。高校3年のときに作ったPCゲーム『ドアドア』が、エニックス主催の第1回ホビープログラムコンテストで優秀プログラム賞に入選。1983年に発売され、当時のPC少年の間にスタープログラマー中村光一の名が知れ渡る。1984年にチュンソフトを設立。現在は、スパイク・チュンソフト取締役会長。 |