近代ビデオゲームの原点『スペースインベーダー』を生んだゲーム業界の父!西角友宏氏インタビュー 中編
目次
当時はほとんど行くことのなかったゲームセンター
大堀 「あれほどのブームになるとは思ってなかった」とおっしゃっていましたが、実際に大きなブームになったわけじゃないですか。社会や業界にも影響が広がったことに、西角さんご自身はどのように捉えていらっしゃいますか?
例えば半導体業界にしても、『スペースインベーダー』のおかげで半導体の価格が下がって、その結果、ゲームも普及することになったと思うんですけど、半導体業界とか、ゲーム業界とか、ゲームセンターの経営者に対しても、どういった影響をインベーダーブームが与えたと思いますか?
西角 ゲーム業界は前編でもお話したように、開発会社が増えて成長していきましたけれども、半導体の分野も日本が一気に伸びましたよね。メモリーとかの半導体で日本が世界一位になったこともありました。そういうのもゲームの影響が少なからずあると思います。まあ私の想像なので、半導体業界の人たちがそう考えているかは分かりませんが。
大堀 ゲームセンターの経営者たちはどうですか?
西角 ゲームセンターのことは詳しくないんだけど、今ではなくなったインベーダーハウス(*01)とかができて、ゲームセンターとして数が増えたんじゃないですか。
大堀 相当増えましたね。当時はゲームセンターではなく、インベーダーハウスという呼ばれ方でしたね。
西角 私はインベーダーハウスには1回も行ったことなかったです。
大堀 インベーダーハウスは私の育った地域にけっこうありましたよ。
西角 インベーダーハウスの建物は見たことがありましたけどね。あの頃は何をしていたのかな。ゲームセンターにはあまり行ってないし。
大堀 お忙しかったんじゃないですか。
西角 街を歩くとインベーダーの音はよく聞こえてきましたね。あれって耳障りな音ですよ(笑)。発射音とかうるさい音だなと思いながら街を歩いていました。どっちかというと、休みの日はパチンコで遊んでいたな。でもパチンコは『スペースインベーダー』の影響で売り上げが下がったそうですよね。
新しいゲームは参考資料として開発の部署に入ってきていたんで、ゲームセンターに行かなくても会社で遊べた。だから、ゲームセンターに行く必要がなかったんですね。でも、なぜかブロック崩しゲームだけは開発部に置かれなくて、プレイしにゲームセンターに行った覚えはあります。そのブロック崩しゲームは『ブレイクアウト』(1976年/アタリ)だったかな。
『スペースインベーダー』のことでゲームセンターに行ったのは、バグの対処をするためでした。蒲田でコインが入らないバグが出ていると言われて、リリース間もない頃に1回行ったかな。それ以外でゲームセンターには行きませんでしたね。
初期ロットで見つかった致命的なバグ
――コインが入らないというのは、クレジットされないということですか。
西角 特定のタイミングでお金を入れると無視されてしまったんです。まだ500台かそれくらいしか出回っていなかった初期ロットですよ。ROMを入れ替えて対処したんですけど、ブーム真っ最中の大量に出回った頃に見つかっていたら大変なことになっていました。その時点で見つかって良かったです。
最初の頃は、「もしかしたらお客さんがタダでゲームしたくてクレームを付けているだけかもしれません。そういうお客さんがよくいるんですよ」ってお店が言っていたのですが、私は、そうじゃなくて実際に何か不具合が起きているなと感じました。今でも蒲田にあるお店で、実際に足を運んで、3時間か4時間くらいかけて原因を見つけました。
デモ画面でインベーダーが弾を落として文字を壊しますよね。弾を落としている瞬間にお金を入れると無視されたんですよ。
大堀 「INSERT CCOIN」の余分なCを壊すデモですよね。
西角 その演出の時になぜかお金が入ったことを検出するルーチンのインタラプト(割り込み処理)が止まっちゃっていて、それを見つけたんです。それさえ分かってしまえば直すのは早いんですけど、見つけるまでが大変でしたね。
その対応をしている時に、お店の人が「このゲームは人気があるんですよ」って言っていて、それで『スペースインベーダー』の人気が上がっていることを知りました。
『スペースインベーダー』開発中に気分転換で別のゲームを作る
――『スペースインベーダー』の開発中に行き詰まって、気分転換に並行してゲームを2タイトル作ったというエピソードがありますが、とてもユニークですね。
西角 アイデアが出ないなど、なかなか思うように『スペースインベーダー』の開発が進まなかった時期がありました。営業から「まだ完成しないのか?」と催促されるし、ちょっと行き詰まってきているし、ここで頭を冷やす必要があるなと思い、気晴らしでほかのタイトルの開発をすることにしました。
まずは『スピードレース』(1974年/タイトー)のカラー化を思いつきました。カラー化だけなら元の基板に少し手を加えるだけだし、カラーモニターの値段も少し下がってきていたので…『スーパースピードレース』(1977年/タイトー) というタイトルを作りました。
大堀 「カラーモニターが少し安くなった」とおっしゃいましたが、ビデオゲーム初期の頃のカラーモニターはコストがかなりかかったと思うんです。そういう高価な部材を使うとなった時に、技術者としてどのような気持ちで開発に取り組みましたか?
また、会社がカラーモニターを使っていいと許可したということは、当時高い評価を受けていた『スピードレース』の続編ということもあり、社運をかけていたのではないかという取り方もできます。その点に対し、ご自身はどのように感じていらっしゃいましたか。
西角 確かに当時のカラーモニターは高かったんですけどね、ただ、部材の価格は仕入れ数である程度変わってきますから。例えば、たくさん発注するよと言えば、値段は下がったと思うんですよ。営業の方も『スーパースピードレース』はけっこう数が出ると思っていたようなので、部材も大量に発注していたんじゃないですかね。
私個人のレベルでは、簡単にできる新しいものはないかなと思った時に、『スピードレース』は定番ゲームになっていたので、カラー化するだけでもある程度売れるだろうなと思っただけです。画面をカラー化するのはそんなに難しくないので、1週間とまではいかないけれど、1カ月も経たないうちに回路設計は終わったと記憶しています。
それで(営業に)『スーパースピードレース』の試作を見せたら「これはいける」と営業が食いついてきたんです。部材はたぶん高かったでしょうけど、ある程度の収益が見込めたようでした。
大堀 『スペースインベーダー』はアップライト筐体で14インチの白黒モニターを備えていました。でも、これより先に発売された『スーパースピードレース』は(画面が)カラーで『スペースインベーダー』よりも大きかったですよね?
西角 20インチあったかもしれないですね。
大堀 プレイヤーとしては「なんじゃこりゃ」って感じるくらいインパクトがありました。
西角 そういうふうに驚かせようとしたかもしれませんね。だから『スペースインベーダー』もなんで最初からカラーにしなかったのかなって思いますよ。途中からカラー化しましたけど、最初は白黒でしたから。
コストを掛けずに対応できた『スペースインベーダー』のカラー化
――『スペースインベーダー』は出力先が白黒モニターだったからモノクロ表示だったんですか? それとも回路の段階でモノクロしか出力できないようになっていたのでしょうか。
西角 回路ですね。だからカラー化する段階で回路も変えましたよ。カラー版も白黒から日を置かずにリリースされたんじゃないかな。モノクロ版を完成させて、すぐにカラー版の設計を始めたと記憶していますから。
白黒モニターにフィルムを貼ってカラーっぽく見せたものもありましたね。あれってブラウン管モニターでしたから、電圧や同期が変わると表示位置がずれちゃうんですよ。赤フィルムの位置に来なければいけないインベーダーが、ほかの色との境目に来てツートンカラーになるとかね(笑)。それじゃあまりにもみっともなかったから、ちゃんとしたカラーモニターに表示されるものを作ろうと思ってカラー化しました。
コストが上がらないようにカラー化したので、ドット単位で色を付けることはできませんでしたけどね。とりあえず画面上のブロック単位で色を出せるようにして、低価格で実現することができました。自分ではあのカラー化はよくできたと思っています。
次回予告
『スペースインベーダー』のヒット後も次々ゲームを生み出していった西角氏。『スペースインベーダー』が売れすぎてしまったが故に、その後手がけたい研究ができなくなるというジレンマもあったようだ。次回は『スペースインベーダー』以降の活動や、続編の『スペースインベーダー・パートⅡ』(1979年)にまつわる裏話をお届けする。乞うご期待!
西角 友宏 氏
ビデオゲーム史に燦然と輝く名作『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)を生み出し、ゲームデザイナーという職業ジャンルを確立させた。1968年にパシフィック工業(当時のタイトーの子会社)へ入社し、エレメカのエンジニアを経験した後にタイトーへ移籍する。『ルナレスキュー』(1979年)『バルーンボンバー』(1980年)など多くのゲームを手がけている。現在は、タイトーにてアドバイザーを務める。
脚注
↑01 | インベーダーハウス : 『スペースインベーダー』とその亜種のみを置いた店で、ゲームセンターの前身ともいえる存在。1970年代後半に起きたインベーダーブームにより、全国各地に乱立した。 |
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