高井商会探訪記~代表・高井一美氏に聞く ビデオゲームの歴史と保存~ 前編
目次
ビデオゲームの売り上げを増大させた『スペースインベーダー』ブーム
――1978年に『スペースインベーダー』が出るわけですが…。
高井 その頃はバッティングセンターとかボウリング場とかが全盛で、私らリース業者が『スペースインベーダー』を見せてもらったのは、大阪でタイトーの展示会があった時です。『スペースインベーダー』はテーブルタイプもあるしアップライトもある。でも、(『スペースインベーダー』と)同時期に発売された『ブルーシャーク』(1978年)のほうが(リース業者には)評判が良くて。タイマー制ですから、どんなヘタでもある程度はできる。『スペースインベーダー』は3回やられたらゲームオーバーだから、「こんなん無理やで! こんな遊べん機械はない」って。当時ゲームをする人の多くは、おっさんでしたからね。それで『ブルーシャーク』を注文する人はたくさんいたと思います。
『スペースインベーダー』を注文する人もいたけど、テーブルタイプにするかアップライトにするかは迷うところでした。その頃はボーリング場やバッティングセンターにテーブル型を置くというイメージはなかったから、大概の人は(『スペースインベーダー』)のアップライトを注文したと思います。でも、タイトーさんが「バッティングセンターでもテーブル型の売り上げもいいみたいですよ」と勧めてきて、それで業者も注文するようになり、テーブル型の人気に火が付いたというわけです。
堀井 最初にそのタイトーの展示会で『スペースインベーダー』を見た時、「これはいける」っていう感じはあったんですか?
高井 いや、ダメだと思った。私もほかの人と一緒で「これはアカンで」というようなもんでした。
一同 (笑)
――これまでに概念のなかったシューティングゲームを初めて見たわけですし…。
大堀 『スペースインベーダー』が出た頃、僕は小学生だったんですけど、発売後どれぐらいで人気が出たんですか?
――1978年6月16日に東京で展示会があったと聞きましたので、おそらく大阪の展示会は、その少し後だったんでしょう。そこから半年ぐらいかけて盛り上がったのではないのでしょうか。
高井 (『スペースインベーダー』のアップライト型は)ハーフミラーを使って宇宙に浮かんでるみたいで、まぁキレイだったね。タイトーさんは絵の作り方や背景の作り方が本当に上手だった。
ブームで品薄状態となってもオリジナルにこだわる姿勢
――そこから年末にかけて人気が上がっていって、たぶん1979年になったら、買いたくても買えなくなる状況になるんですよね。その頃はどうされてたんですか?
高井 私の悪いところは、実物の機械のほうを見てしまうんで、ゲームの内容が一緒だったらいいという妥協ができなかった。コピー製品はたくさん出回っているのに、タイトーのものでなければいけないとか。それまで卸売価格の7掛けで買えていたものが、ブーム後は定価でないと買えなくなり、定価では購入したくない。そんな理屈を言っていたら、機械が入らなくなってしまいました。
堀井 爆発的に売れていた頃だから、定価だろうが高かろうが、買ったほうが良かったですね。
高井 そうです。商売人やったら、採算を考えて買うべきだったんでしょうけど…。その頃『スペースインベーダー』の丸々コピー品もたくさんありましたが、そんなものも手に入りませんでした。
堀井 当時はまだ、コンピュータープログラムにおいて著作権の法的整備がなされていなかったので、違法性を問えなかったという状況だったんですよね。
大堀 ところで、ブームの頃、インベーダーゲーム1台につき1日の売り上げはどれぐらいあったんですか?
高井 1日1万円ぐらいありましたかねえ。それだけあるってことは月に30万円ですから、折半でも月15万円は利益がありました。
大堀 1日1万円というと、1プレイ100円だったわけで…なんと1日100プレイ! ということですね。
高井 (1日1万円は)普通の営業時間でやっているところの売り上げだから、24時間営業のところだと1日2~3万円以上の売り上げでした。そういうときは喫茶店より、もっとお客さんが入る場所に優先的に持って行っていました。今度はこっち側(リース業者側)が売り手市場となって、強い商売ができました。
――その後、インベーダーハウス(*01)があちこちで開業し、高井さんはそういうところ相手に商売するようになったそうですね。
高井 これまでゲームというのは、単独で店を借りて運営することができなかった。運営できるほどの売り上げはないし、採算が合わない。でも、『スペースインベーダー』が出てきてからは、それができるようになった。これが今までと大きな違いですね。
堀井 ゲームセンターの始まりってことですね。インベーダーブームの頃の業者さんの話で、もう本当に儲かって儲かって仕方がなくて「我々はもうこれで一生食いっぱぐれない、ぐらいの気持ちがあった」と聞いたことがあります。
――1978年から翌79年にかけては(ブームの過熱ぶりが)すごかったでしょうね。
堀井 僕もお使いのお釣りをくすねてゲームをやって、家に帰れなくなったりしてましたからね。
――そういう時期も、1年あったか、なかったかぐらいで、長くなかったですよね。
高井 でも、社会現象にまでなるゲームは『スペースインベーダー』が初めてでした。
大堀 やっぱり、ブームの時に機械を買うのは本当に大変だったんですね。
高井 機械は手に入らんかったですね。オールナイトの喫茶店でもやろうと思ったら、1店舗で10~15台必要だったわけで、タイトー製でなくても、任天堂とかアイ・ピー・エム(カプコンの前身)とか、どこの会社製でもよかった。
大堀 任天堂の『スペースフィーバー』(1979年)、ボタン式でセガの『スペースアタック』(1979年)とか、たくさんの亜流が出てましたね。
堀井 僕らから見ても、プレハブの中にインベーダーゲームを詰めたようなゲームセンターが急にできて……。まぁブームが終わるとなくなっちゃうんですけど、そういうのがあった時期でしたね。
インベーダーハウスの登場で、自らもゲームコーナー運営へ
――高井さん自身も、ゲームコーナーをやっていらっしゃっんですよね?
高井 インベーダーブームの頃からゲームコーナーを始めました。大阪で、物件を借りて。
あの頃、ゲームを置いている場所といえば真っ暗なところばかりですよね。外から入ったら通路がよく分からない。そりゃあ健全な遊びとはちょっと言えない感じがしましたけどね。ただ、暗いほうがゲーム画面はきれいでしたよね。
それから、ショッピングセンターなどにも出店するようになりました。
堀井 その頃は「インベーダーハウス」と呼ばれていましたけど、いつから「ゲームセンター」ってのができ始めたんですかね?
高井 どうなんですかね。「インベーダーゲーム」が下火になった頃に、ほかのゲームを混ぜて置くようになった。1ゲーム100円というのは定着していたし、次々と良いアーケードゲームも出てきたんで、その頃に「ゲームセンター」ができ始めたんではないですかね。
――高井さんは最大でロケーション(ゲームコーナー)を何箇所ぐらい運営していたんですか?
高井 私はあんまり持っていなくて、十何軒かぐらいですね。
――それでも十数軒!
高井 自分で家賃を払って運営しているところだけではなく、ショッピングセンターの中に入ってるところも入れてですよ。
――その時に設置していた機種には『スペースインベーダー』だけじゃなくて、インベーダー基板を使った『ルナレスキュー』(1979年/タイトー)や『ギャラクシーウォーズ』(1979年/ユニバーサル)などもありましたか? その頃だと、『ギャラクシアン』(1979年)などのナムコのゲームも出てきた時期でしたね。
高井 そうですね。インベーダーの亜流や、インベーダーを改造したものには、そんなにヒットするゲームはなかったですね。でも『ギャラクシアン』は別物でした。まったく感覚の違う、新しいゲームでしたね。
――「星が流れてる!」って驚きましたね、動きも滑らかで。
リース業から部品屋・基板販売店としての基礎を築く
――頂いた資料の中に、「昭和60年(1985年)にIC部品(*02)の販売、輸出入部門開設」とありますが…。
高井 部品屋もやっていた関係で、基板の販売にもつながったんです。
堀井 汎用のCPU(*03)とか、74LS(*04)とか、そんな感じのやつなんですか?
高井 あの頃は汎用のもので売れました。ヤマハの音源とかね。何に使うのかと思ったら、海外で子供の玩具に使うんだって聞きましたね。(海外製の)高いものでは採算が合わないと言って。
堀井 そうか、ヤマハのYM系音源を使った玩具が海外にあったんですね。
高井 私は直接、海外と取引してないんですけど、国内の取引先がそんなことを言っていましたね。
――日本の部品メーカーから日本の業者に売るというビジネスだったんですね。
高井 そういえば、一つおもしろい話があります。『ギャラクシアン』を製造する際、複数の高速のRAMが必要になりました。でも当時、市場になくて探し回ったら、「ブロックくずし」に使われていることが分かりました。1台の「ブロックくずし」につきRAM1個しかないわけだから、いくつも「ブロックくずし」からRAMを出して、ようやく1台の『ギャラクシアン』を完成することができました。
――部品取りに使われるんですね……。かわいそうな「ブロックくずし」の基板! 部品屋さんをされていた時代も、ゲーム関係の事業は並行して続けていたんですね。
高井 私らは、部品の注文が来たときに、どのゲームにどの部品がついているのか大体把握していて、それをハンダ槽から抜いて、集めて売るというやり方をしていました。1,000個以下では商売にならないので、最低1,000個ですね、たくさんの基板があって、そこから抜いてくるっていう。
――「平成5年(1993年)から、今の商売に繋がる『マニア向け販売会社レクトロン』の開設」とありますね。
高井 それはすぐに終わったんですけど、基板を集めるのはそのレクトロンで集めました。
堀井 僕はレクトロンさんにお世話になりました。
――こちらも大阪で販売していたんですか?
高井 そうですね。かつては大阪で販売していました。
――この頃は基板も安値で取引できた時代ですかね? 今は高価なものになりましたが。
高井 その頃はそりゃあ安かったです。一番安かったのはメーカーさんの除却分です。
大堀 それはロケーションで1回使った物を?
堀井 「除却」って基本的には捨てることですよね。
高井 メーカーさんに「除却するぐらいなら、うちに売ってください」って頼みに行ったら、社内で調整してくれましてね。「(除却分を)売れるかどうか分からないから調べてあげる」と言われて、税務署に問い合わせてもらいました。そうしたら、「税務上売ってもかまわないけど、申告はしてくださいよ」と回答を頂き、そこからメーカー各社にたくさん除却分を売ってもらいました。
――メーカーだと自社ロケ(自社運営のゲームセンター)で何百枚も同じ基板があるでしょうから。
高井 一括で購入した時には、何百もの基板が運ばれて来ましたね。
――高井さんのところが引き取ってくれたから、希少な基板も残すことができたわけですよね。
僕らにとって、基板屋というと、ただ遊べる基板を仕入れて、そのまま売るってイメージがありますけど、そうじゃないってことですね。基板から部品を取って売ったり、逆に修理に使ったり、いろんなことに使っていたんですね。
高井 そうです。だから今は、いろんな部品があるから修理の時に楽ですよ。
次号予告
今回は、高井商会の歴史を辿ることで、ゲーム業界の変遷を垣間見ることができた。次回はいよいよ、高井商会の倉庫にお邪魔して伺った貴重なお話をお届けする。所有タイトルについてほか、かなりマニアックな話も飛び出すので、レトロゲームファンはこうご期待!
脚注
↑01 | インベーダーハウス : 日本で「ゲームセンター」という呼称が定着する前、インベーダーゲームを中心に、ほぼビデオゲームだけを並べたゲーム場の業態をこう呼称した。 |
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↑02 | IC部品 : 複雑な電子回路を小さなパッケージに封入した集積回路(integrated circuit=IC)部品のこと。集積する回路の規模により、LSI(Large Scale Integration)やVLSI(Very Large Scale Integration)などとも呼称される。その黒く四角い形状から、単純に「石」と呼ばれることも多い。 |
↑03 | CPU : 中央処理装置(Central Processing Unit)のことで、コンピューター全体のうち、中心的な処理(計算)を行う部分。 |
↑04 | 74LSシリーズ : シンプルなICの一種で、型番が74LSから始まる部品。役割や規模によってさまざまな種類がある。 |