北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー

  • 記事タイトル
    北海道ゲーマーズ・オーラルヒストリー
  • 公開日
    2024年03月22日
  • 記事番号
    10940
  • ライター
    藤井昌樹

第二回・中川 剛さん(元ハイスコアラー)Vol.1

「小樽・札幌ゲーセン物語展」、「雑誌・攻略本・同人誌ゲームの本展」の企画を通して知り合った北海道在住のゲーマーの皆さんにお話を伺う企画、その第二回目をお送りします。
ゲームはプレイヤーがいてこそ成立するものであり、そしてゲームの遊ばれかたが時代によって大きく変化しているのなら「プレイヤーの記録」も重要なのではないかという視点からインタビューを行います。
今回は、1983年の開店間もない頃からプレイシティキャロット琴似店の常連プレイヤーであり、最初期の頃からゲーム雑誌にハイスコアが何度も掲載されたことがある中川 剛さんにお話を伺いました。
ビデオゲーム黎明期におけるゲーム攻略、ゲームセンターのコミュニティ、ゲームイベントなど、どれも今となっては貴重となる話題ばかりとなっています。

1980年代から90年代初頭にかけてハイスコアラーとして何度もゲーム雑誌に名前が掲載された中川 剛氏

70年代末、はじめて出会ったビデオゲーム

―― 中川さんがお生まれになった年は?

中川 1968年の2月生まれです。

―― だとすると、今(2023年9月にインタビュー)は55歳ですかね。

中川 そうですね。40歳超えた辺りから気にしなくなっちゃって、自分の年齢がわからなくなるときがあります(笑)。

―― だとするとわたしの1個上ですね。

中川 じゃあ同世代なんだ。

――そういう意味では、実経験として共感できる話が多いと思われます。中川さんが最初に触れたビデオゲームは何になりますか?

中川 『スペースインベーダー』(タイトー/1978年)です。

―― その前の『PONG』(アタリ/1972年)は?

中川 『PONG』は逆にインベーダーをやり始めた後で見ました。最初はインベーダー
から入っていますね。それまでゲームセンターにも行ったことがなかったので。

―― インベーダーとは、どのようなシチュエーションで出会ったのでしょう?

中川 わたしが小学校のとき、札幌の西区にある八軒に冨久屋旅館いうところがありました。当時、そこの子どもと友だちだったんですよ。旅館と併設して喫茶店もあって、そこに置いてあったインベーダーをプレイしたのがはじめてです。

―― 最初にプレイしたときの感想を覚えていますか?

中川 はじめてやったときは「このゲーム画面はどうやって動いているのだろう?」とまず思いました。

―― それまでテレビゲームというものがなかったですからね。

中川 とにかく最初は衝撃的でしたよね。ボタンとレバーで画面の中の砲台が動くことがもう新鮮で。

―― テレビ画面の中に介入できるというのは、当時わたしも衝撃でした。

中川 このときは友だちの親が経営しているお店に遊びに行っているということもあって、タダで遊ばせてもらっていました。そういった形で何回か遊んで、これは楽しいゲームだというのがわかってきた。当時はインベーダーがブームの頃なので、その喫茶店に行くと他に年上のお客さんがたくさん来ているわけです。そういう人たちのプレイを見てUFOの撃ちかたを学んだり、名古屋撃ち(*01)もやるようになりました。

―― その頃から他のプレイヤーから情報を得ていたわけですね。

中川 そうなんです。

―― 当時はインベーダーのブームが起きて、ゲーセンが街に増え始めましたが、中川さんの周辺ではどうでしたか?

中川 その頃、八軒(琴似の北東)にインベーダーハウスが新しくできたんですよ。中にあるのが全部インベーダーなんです。すごかった。インベーダーだらけ。

―― 店内には何台ぐらいあったのですか?

中川 ええと、12台ぐらいあったのかな。これが純正のインベーダーだけじゃなくて、亜流のインベーダーも置いてあったんです。分裂インベーダーってわかりますかね?

―― タイトー製じゃないやつですね。

中川 事前に調べていたのですが、分裂インベーダーは『スペースフィーバー』(任天堂/1979年)です。『スペースフィーバー ハイスプリッター』(任天堂/1979年)というのもありました。タイトー製のインベーダーも『スペースインベーダーパートII』(タイトー/1979年)が出ていましたね。これらがまた、それはそれでおもしろいんです。だから、そこでずっとインベーダー系のゲームにハマっていた感じですね。

―― インベーダーブームの渦中にいたわけですね。

中川 78年に出て、1年ぐらいブームだったというのは覚えているんですよ。中学に入るときには、もうブームが終わっていたと思います。

―― ブームの始まりは小学生の頃ですか?

中川 小学4年生ぐらいに始めて、5年生くらいでやめちゃった感じですね。

―― インベーダーのときから、攻略や腕前の上達ということを意識していましたか?

中川 そこはあまり意識していなかったです。UFOを撃つことを意識していたくらいですね。子どもなのでお金がないから100円で長い時間遊べるプレイを心がけていた感じです。

―― まだハイスコアは意識していない?

中川 特にスコアは意識しないで、長く遊びたいなって。

―― ゲームオーバーにならないように。

中川 はい。そういうプレイを心がけていましたね。

遊びたいゲームが豊富だった1981年

―― まずインベーダーにハマって、その次にプレイしたゲームは何になるのですか?

中川 その次にハマったのは中学生の頃です。1981年に結構いいタイトルがあって。まず『ドンキーコング』(任天堂/1981年)。他に『レディバグ』(ユニバーサル/1981年)や『ギャラガ』(ナムコ/1981年)。『ニューラリーX』(ナムコ/1981年)と『ボスコニアン』(ナムコ/1981年)。あと『クラッシュローラー』(アルファ電子/1981年)に『フロッガー』(コナミ/1981年)。

―― どれも名作ですね。

中川 この辺が出たときに「新しいゲームもおもしろいじゃん」と感じるようになって。これらのゲームと比べるとインベーダーって単調だったじゃないですか。それに比べたら『ドンキーコング』は1面、2面、3面・・・とステージがあって、それぞれで攻略も違いました。それで、そこからまたゲームにのめり込んでいきました。

―― その前に『ギャラクシアン』(ナムコ/1979年)や『パックマン』(ナムコ/1980年)がありましたけど、それらはプレイしなかったのですか?

中川 『ギャラクシアン』と『パックマン』もちょっとやってはいたんですよ。でも、そこまでハマらなかったんです。そうはいっても『パックマン』は、鍵が出る面までは行きました。でも、その後は同じ攻略パターンの繰り返しじゃないですか。だから、それ以上ハマらなかった。あとはコピー基板の亜流の『パックマン』も置いてあったので、それをちょっとやっていたくらいで、極めるまではいかなかったです。毎日ゲームをやるようになったのは『ドンキーコング』などが出た1981年からですね。

―― ちなみに最初にハマったインベーダーの前後で、ビデオゲーム以外でどのような遊びをしていましたか?

中川 ゲーセンのゲーム以外で言うと、『ゲーム&ウオッチ』(任天堂/1980年に初期タイトルが発売)はやっていましたね。でも自分で持っていたわけじゃなくて、友だちのものを遊ばせてもらっていました。学校でやっていたのですけど、先生に見つかって怒られたこともあります。でもそんなにやっていなかったと思います。

―― 他に、ゲーム以外の遊びだと、どういったものがありましたか?

中川 まあ一般的なやつですが、メンコとか、ビー玉とか、野球とかですよね。その辺を朝から晩までやっていて。元々は公園で遊ぶ子どもだったんですよ。 それがインベーダーにハマったときには、公園で遊ばなくなっちゃった。

―― インベーダーの辺りからゲームに集中していくようなったのですね。そして『ギャラクシアン』や『パックマン』の時期を経て、さっき言われていた1981年に至る。

中川 そうです。いやー『レディバグ』とか結構やったんですよね。『クラッシュローラー』もけっこうやりましたね。

―― この時点では、そのときに稼働していたタイトルは満遍なく遊んでいたのですか?

中川 遊んでいましたね。その頃に「よしや」というパチンコ屋さんが琴似にあったんです。その下にゲームコーナーがあったんですよ。そこへ友人に連れられて行きました。薄暗い店内にゲームが置いてあるようなところで、そこに行ったら店長さんがコーラをくれるんです。「ついでに遊んでいきなよ」と言ってゲームで遊ぶことを勧められる。そこで遊んでいたのが『ドンキーコング』なんですが、その店の中で一番やったのは実は『ディグダグ』(ナムコ/1982年)です。

―― そうなんですね。

中川 そこではじめて『ディグダグ』に出会いました。それでハイスコアを目指すようになったので、そこがスコアラーのきっかけかもしれないですね。

中川さんがハイスコアラーを目指すきっかけとなった『ディグダグ』(※PS4版を使用)
DIGDUG™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

―― 最初にハイスコアを意識したのが『ディグダグ』なんですね。ちなみにそのときは1プレイ50円ですか?

中川 50円だったかな。100円だったような気もするな。でも違うな、うーん。やっぱり100円だったと思います。

―― そうなんですよ。わたしの記憶でも、その頃は必ずしも1プレイ50円じゃなくて。

中川 今考えると、琴似近辺で50円というところがあまりなくて、ほとんど100円でやっていたと思います。子ども心にお高い商売だなと思いながら。

琴似キャロットの常連客となる1983年

―― その頃に中川さんが住んでいたのが琴似ということで、琴似近辺のゲーセンによく行っていたのですね。

中川 最初は八軒に住んでいたんですよ。だから八軒のインベーダーハウスに行っていたのですけど、中学になったと同時に琴似に引っ越したんです。そこから「プレイシティキャロット琴似店」(以下、琴似キャロット)に行くようになります。琴似キャロットの前に道路があって、その道路を挟んで向かい側に歩いて50メートルくらいのところに住んでいたので、アーケードゲームを遊ぶにはすごく良い環境でした。

※プレイシティキャロット琴似店

―― たしかに、羨ましい環境ですね。

中川 さっき言ったように、まずは「よしや」というパチンコ屋の下のゲーセンから始まって。まだそのときは琴似キャロットがない時代でした。「よしや」でゲームにハマっている途中で琴似キャロットがオープンします。

―― それは1983年ですか?

中川 82年の12月ですね。そこからはもう琴似キャロットに通うようになります。琴似キャロットに行くと、82年末の時点でハイスコアボードが店内にあったんです。

―― そこではじめてスコアボードを見たのですね。

中川 ハイスコアというものに本当に目覚めたのはそこですね。ハイスコアボードがあって、そこにハイスコアを載せたいと思うようになって。まず『ディグダグ』から載せていきました。

―― 琴似キャロットのオープンと同時にハイスコアボードはあったのですか?

中川 途中からなのかな。わたしが行き始めたのは琴似キャロットができて、ちょっと経ってからなんですよ。少なくとも、そのときにはもうハイスコボードがありました。

―― オープンと同時かはわからないけれど、でも早い時期からあったことにはなりますね。

中川 ほぼ同時期と言っていいと思います。そして店内がすごくおしゃれなんですよ。それまでのゲーセンは真っ暗と言っていいくらいの照明の暗さでした。それと比べて琴似キャロットは明るいんですよ。

―― 照明が明るい。

中川 そう、それまでのゲーセンとは全然違う、何かライトな感じの雰囲気があって。最初は「こんなゲーセンがあるんだ」と驚きました。そこからはずっと琴似キャロットに通います。

―― 常連への第一歩ですね。

中川 それまで行っていた「よしや」にもジュースがもらえるのでたまに行くのですけど、ハイスコアに目覚めるとそこに行く明確な目標がないんですよね。だからハイスコア掲載という具体的な目標のある琴似キャロットのほうによく行くようになります。

―― なるほど。

中川 琴似キャロットで『ディグダグ』をプレイしていたときには、後ろでけっこうな数のギャラリーが見ているようになりました。よしやでもギャラリーはいたのですけど、琴似キャロットの人数のほうが多いんですよ。これはキャロットに行くモチベーションアップに繋がりました。それで店員さんもハイスコアが出ているかを確認しに筐体のところまでやってくるんです。

―― ハイスコアボードに掲載するに当たって、ですね。

中川 はい。ハイスコアが出たら琴似キャロットの店員さんに伝えて、店員さんが確認してノートに書いて、ボードにハイスコアを載せるというシステムでした。だから途中経過を見に来るわけです。それでまたギャラリーも増えていくという感じでした。

―― その頃の琴似キャロットによく来るお客さんの年齢層は?

中川 高かったです。

―― そのときの中川さんは中学生ですよね。

中川 中学生ですね。ほかの学生はほとんどいなかったと思いますね。わたしは逆に年上のお客さんに可愛がられたくらいなので。

―― サラリーマン、社会人が多かったのですね。

中川 わたしが常連になってはじめて仲良くなった人たちって、みんな大人なんですよ。

―― 大人が多かったというのは、今から考えると興味深いですね。

中川 大学生や浪人生もいました。前回の荒木さんインタビューで話題に出ていたやまざき拓さん(*02)も浪人生として琴似キャロットによく来ていました。でもやはり働いている人が多かったですね。

―― では平日だと仕事が終わってから来る人が多かった?

中川 そうですね。休みだと日中からいる大人もいましたね。

―― そういった環境の琴似キャロットで、中川さんはハイスコアを目指すようになった。

中川 スコアを稼いで、キャロットのハイスコアボードに名前を載せたいというモチベーションは大きかったですね。ちなみにわたしの最初の頃のハイスコア登録は友だちの名前なんですよ。中学生のときと高校1年のときで、それぞれ別の友だちの名前を借りていました。友だちも「俺の名前をボードにいっぱい載せてくれよ」みたいな感じだったので、わたしも「おお、いいよ、じゃあ載せてやるよ」ということで名前を使わせてもらいました。それがまたハイスコアへのモチベーションアップになったのですよね。

―― 中学生ぐらいだと、ひとつのゲーセンだけでも大きな世界みたいなものだから、名前を貸した友人さんも含めてそこに名前が載るだけでも嬉しいですよね。

中川 本当にそうです。その、中学生のときに名前を使わせてもらった友だちが、先ほど話した「よしや」を紹介してくれた人なんですよ。琴似キャロットに行こうって誘ってくれたのも彼です。最初に名前をハイスコアボードに載せるときに「どういう名前にしよう、困ったな」となったら、「俺の名前載せてもいいよ」と彼が言ってくれて。

―― そのハイスコアボードは、今でいうホワイトボードみたいなものですか?

中川 そうですね、ホワイトボードです。ホワイトボードにゲームタイトルがあって、スコアがあって、プレイヤーの名前が書いてあって。その頃はそういったハイスコアボードを他のゲーセンで取り入れるというのはあまりなかったです。琴似キャロットくらいじゃないですかね。スコアを店員に伝えてメモしておくというのはあったかもしれないけど、ボードはなかったんですよ。

―― 83年だとゲームオーバー後のネーム入れは普通にどのゲームにもありましたよね。

中川 ありました。わたしはネーム入れにはそんなに興味がなかったんですよ。「AAA」とか適当に入れていました。

―― あくまで重要なのはスコアだった。

中川 はい、スコア重視だったので、そんな感じでやっていましたね。

―― 『パックマン』の頃だとまだネーム入れはなかったですかね?

中川 『パックマン』にはなかったですね。

―― 中川さんが琴似キャロットに行かれた83年の頃は『パックマン』も稼働していたのですか?

中川 『パックマン』はなかったと思います。

―― あくまで当時の最新のものしかなかった?

中川 そうですね。琴似キャロットって最新のものしか入れないんですよ。しばらくして古くなったら他のナムコ直営の店舗に回していたので、古いゲームをやりに行くときは他のナムコ直営店である「西野ナムコランド」みたいな感じで決まっていました。琴似キャロットでは新旧タイトルの入れ替えが激しかったというのはありますね。

※西野ナムコランド

はじめての雑誌へのハイスコア掲載

―― ゲーム雑誌へのハイスコア掲載の話題に入っていきたいと思います。「AMUSEMENT LIFE」(以下、AM LIFE)(*03)83年12月号に、わたしが把握している記録上ではじめて中川さんのハイスコアが掲載されています。タイトルは『マリオブラザーズ』(任天堂/1983年)で、琴似キャロットで出したスコアです。

中川 そうですね、AM LIFEの83年12月号がわたしにとって最初にスコアが雑誌掲載されたものになります。同じ号に、やまざき拓さんも『マッピー』で載っていますね。その前の創刊号にわたしは載らなかったんですよ。

中川さんにとってはじめての雑誌へのスコア掲載となった『マリオブラザーズ』(※Nintendo Switch版を使用)
ⒸNintendo
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

―― 前月の11月号にはやまざき拓さんが琴似キャロットで出した『マッピー』のハイスコアが載っていますね。かつ全国で『ゼビウス』(ナムコ/1983年)1000万点を獲得した人のリストがあって、そちらにもやまざきさんが載っています。さらに「うる星あんず」名義の大堀康祐さん(*04)も含めて32名のかたの名前が載っています。

中川 わたしも『ゼビウス』で1000万出しているのですけど、もうちょっと後なんですよ。「マイコンBASICマガジン」(以下、ベーマガ)にハイスコアが掲載されるようになってから出したので。しかも友だちの名前だったという。

―― でもこの前に、まず『ディグダグ』でハイスコアは出されていた。

中川 そうですね、『ディグダグ』で琴似キャロットの店内限定の掲載スコアとしては載っていたのですけど、この頃はもう『ディグダグ』のブームは終わっているんですよ。

―― 前年の82年くらいで。

中川 だから、わたしが初掲載の1983年10月頃には琴似キャロットにはなくなっているんです

―― 中川さんが『ディグダグ』をやっていた頃は中学生でしたよね。その時点でハイスコアを取るための攻略法を確立させていたのですね。

中川 はい、もうパターン化ができていました。

―― ハイスコアを出すにあたって、当時はどうパターンを組んでいくかというのが基本的な攻略だったわけですか?

中川 その頃のゲームはパターンゲームが多かったですよね。実力で弾をよけるというよりは、自分がこう動けば敵キャラもこう動くみたいなことを把握して攻略していく感じです。

―― 『マッピー』もパターン攻略ですよね?

中川 『マッピー』も全部パターンですよ。

―― わたしはファミコン版の『マッピー』のパターンを覚えて延々プレイするということはあったので、パターン攻略は経験として理解できます。当時『マッピー』のハイスコアラーとして有名だったやまざき拓さんもパターン化して攻略していたのでしょうか?

中川 そうですね、パターン化してどんどん進んでいったのですけど、『マッピー』は後半に進むと敵の動きがめちゃくちゃ速いんですよ。だからパターン化すればOKという単純な話でもなかったです。速い動きに対応しなければならなくなる。

―― この頃、中川さんはやまざき拓さんとはもうお知り合いだったのですか?

中川 はい、わたしも『マッピー』をやっていたのでやまざきさんとは琴似キャロットで会って話をしています。

―― やまざきさんと攻略情報を共有することもありましたか?

中川 どちらかと言うと、わたしは攻略法を教えてもらう感じでしたね。年下だし、やまざきさんのスコアがすごい上だったので。最初は雲の上の人でした。わたしは『マッピー』だけはどうもうまくいかなくて。いろいろ真似をしてパターン化はしていたのですけどね。『マッピー』については、最後までやまざきさんのスコアは抜けなかったです。

―― そういった中で、83年の10月の時点ではAM LIFEにハイスコアが掲載されるくらい中川さんは『マリオブラザーズ』が上手かった。

中川 最初はさっき言った『ディグダグ』に軸を置いていました。わたしはまず何かひとつのタイトルに軸を置いてプレイするんですよ。その合間に違うゲームやるというパターンが多かった。だから83年の初頭は『マリオブラザーズ』を軸にしてやっていた感じですね。

―― 『ディグダグ』から『マリオブラザーズ』に軸が移ったということですね。

中川 はい。そして『マリオブラザーズ』の次に軸となったのが『リブルラブル』(ナムコ/1983年)と『パックランド』(ナムコ/1984年)でした。それらを軸に置きつつ他のゲームもちょろちょろとやってハイスコアを目指すといった感じでした。

―― 『マリオブラザーズ』もハイスコア攻略にあたってパターン化をしたのですか?

中川 ほとんどパターンですね。

―― マリオをこう動かせば敵にやられないというのを見つけていく。

中川 そうです。あとは根気ですよね。『マリオブラザーズ』はハイスコアを目指そうとすると長時間やることになるので。

―― この頃のゲームは『ディグダグ』も含めて攻略のパターンを極めてしまうと終わらないものが多かったのですか?

中川 終わらないですね。『ディグダグ』も『マリオブラザーズ』も99万9990点で0に戻ります。スコアのルールが当時はまだ確立されていなくて、琴似キャロットでは『ディグダグ』は99万9990点でハイスコア掲載、『マリオブラザーズ』は100万以降もカウントしていました。

―― 先ほど伺ったように中川さんが琴似キャロットに行き始めた頃にまず店内限定のハイスコアボードがあった。そこから83年に入って雑誌AM LIFEにもスコアを載せようということになった。

中川 そうですね、最初はハイスコアボードがあって、そのボードだけで完結していたんです。そうしたときにAM LIFEからハイスコアを掲載させてほしいという連絡が琴似キャロットに来て、店長さんがスコアラーの常連客に気を利かせて「うちも載せようと思う」ということで載せるようになった。

―― 中川さんは実際にAM LIFEを買われていましたか?

中川 わたしが見たいところはハイスコアの掲載ページしかなかったので買うまではいかなかったです。

―― 琴似キャロットにAM LIFEは置いてあったのですか?

中川 いや、置いていなかったですね。後のベーマガやゲーメストなどは置いていました。

―― そうでしたか。はじめて自分の名前が掲載されたAM LIFE 12月号はどこかで目にしたのですか?

中川 札幌の書店で立ち読みしました。「あ、名前が載っている、嬉しいな」と思いました。

―― 自分の名前が普通に流通している本に載ったのは、これがはじめてですよね?

中川 はじめてです。嬉しかったですね。そして翌年からはベーマガにもハイスコアが載るようになります。84年8月号に『マリオブラザーズ』のスコアが全国1位として掲載されました。これがわたしにとってはじめての全国・単独での1位だった。このときは琴似キャロットの枠で載っていて、『ゼビウス』でハイスコアだったかたとわたしが全国1位です。

―― ベーマガにはその前の84年1月号の時点で、中川さんのハイスコアが掲載はされていますね。『マリオブラザーズ』と『フォゾン』(ナムコ/1983年)。

中川 ベーマガにハイスコアが掲載される初期の頃から載っていました。

―― ベーマガにはじめてスコアが載ったのが84年1月号で、タイトルのひとつは『マリオブラザーズ』。同じくマリオでAM LIFE 83年12月号にスコアが掲載されていたので、1年くらい『マリオブラザーズ』をプレイしていたことになりますね。

中川 ずっと基本路線としてやっていました。ライバルがいて、それがまたハイスコアへのモチベーションになっていました。「西野ナムコランド」にライバルのプレイヤーがいて、抜きつ抜かれつだったんですよね。その人も全一をとったことがあります。

ハイスコアラーたちによるゲーム大会の始まり

―― 他のプレイヤーを意識するようになるのは、雑誌に掲載された他のゲーセンのスコアを見たのがきっかけですか?

中川 どちらかと言ったら、他のゲーセンを拠点にしているプレイヤーと出会うようになって、はじめて意識するようになりました。琴似キャロットに遠征で遊びに来た人がいて、後で詳細を話しますけど「つきだて」というプレイヤーネームの人です。その人は川沿キャロットハウス(以下、川沿キャロット)と澄川キャロットハウス(以下、澄川キャロット)を拠点としていたので、「そっちにもゲーセンがあるんだ」という認識をするようになります。それから当時、『フォゾン』の北海道大会があったんです。そのときの会場が澄川キャロットで、わたしにとっては他店舗だったので、ここにもこんなゲーセンがあるんだというのを実感するわけです。

※川沿キャロットハウス

※澄川キャロットハウス

―― ちなみに『フォゾン』の大会の主催は澄川キャロットになるのですか?

中川 そのゲーセンというよりは、ナムコ主催です。ほかのナムコ直営店に大会の案内が来ていました。琴似キャロットにも案内が来ていて、「中川も出なよ」みたいな話になって、「じゃあ出よう」ということで参加しました。84年の1月くらいですね。

―― その頃だと『フォゾン』は、まだ最新のタイトルだった?

中川 はい、出て1~2か月経ったくらいだと思います。

―― 販促も兼ねてということだったのでしょうかね。中川さんが把握している範囲では、北海道で最初に行われたゲーム大会はこの『フォゾン』になるのですか?

中川 そうですね。『フォゾン』のゲーム大会がたぶんはじめてで、その次に参加したのがいわゆる「近代五種」と呼ばれる大会でした。これは琴似キャロットで開かれた大会です。ちょうどその頃、他の店舗で『ハイパーオリンピック』(コナミ/1983年)の大会がけっこう行われていたんですよ。わたしはそちらには出ないで、琴似の「近代五種」のほうに出ました。

―― それは、5つのゲームの大会ということですか?

中川 『エキサイティングサッカー』(アルファ電子/1983年)、『10ヤードファイト』(アイレム/1983年)、『ハイパーオリンピック』、『ドラゴンズレア』(シネマトロニクス/1983年)、『リブルラブル』の5タイトルですね。「近代五種」という名前を付けた経緯は知らないのですけど。

―― イベントの会場は琴似キャロットになるんですか?

中川 はい。琴似キャロットが企画したイベントになります。

―― 5つのゲームタイトルで競うという内容なんですね。

中川 そうです。スコアの順位が1位だと何ポイント、2位だと何ポイントという感じで設定されていました。具体的に何ポイントだったかは忘れてしまいましたが、最後に5タイトルのポイントを合計して総合の順位を決めるという形です。

―― これはどれくらいの期間で開催されたのですか?

中川 うーんと2か月くらい、いや1か月でしたね。

―― その期間内であれば、各タイトルを何回プレイしてもいい?

中川 そうですね。1か月の中のハイスコアで最終的にポイントの合計を出します。

―― 期間の前半で出したスコアでもそれがハイスコアであればポイントの対象になるということですね。このイベントにはどれくらいの人数が参加したのですか?

中川 けっこう参加していますよ。たしか20人以上は参加していたと思います。ちょうどハイスコア自体がブームになりかけていた頃なんです。元々、琴似キャロットに独自のスコアボードがあったので、みんなでハイスコアを目指そうみたいな雰囲気になっていました。だからほとんどの常連プレイヤーはそれがゲームをするモチベーションになっていた時期ですね。

―― この5タイトルを選んだのは誰なんですか?

中川 それは琴似キャロット側ですね。おそらく、そのときに流行っていたゲームを採用したのだと思います。特に『ハイパーオリンピック』は当時すごく流行っていました。

―― スポーツ物が3つありますよね。それに『ドラゴンズレア』と『リブルラブル』が加わる形になっています。スポーツ物が多いから「近代五種」という名前になったのかな。

中川 「近代五種」で『リブルラブル』をプレイしているときにトイレ問題にぶち当たったんですよ。このゲームはスコアだけを狙うのだったら、上から出てくるザコキャラのホブリンをただ囲むだけなんです。エネルギーが減ってきたら植物を囲んでエネルギーをためてフルパワーアップしてというのを朝から晩までずっとやるんですよね。

―― 朝から晩までというのは、今改めて聞くとすごいワードです。

中川 わたしは根性がなかったので、夜の7時か8時くらいで、もうトイレに行きたくてギブアップしたことがあります。

―― (笑)

中川 その時期に『リブルラブル』が上手い大学生のかたがもう一人いて、上手いというか根性があるというか、朝から夜の11時まで、ずっとプレイしているんですよ。トイレも行かない。

―― 食事もしないのですか?

中川 そう、食事もしない。当時、ハイスコアを狙うに当たって長時間かかるゲームをプレイするときは、朝の開店と同時というか、その前から並んでいたんです。昔のゲーセンには「並ぶ」という文化がありました。

―― 開店前から戦いは始まっている感じですね。

中川 並んでスコアを目指そうということですよね。84年から86年くらいまでかな。そういう文化があって、琴似キャロットでは土日はもう朝から並ぼうみたいな。先ほどのトイレに行かないかたは大学生なんですよ。だから平日も自由なんです。一方で自分らは高校生だから、土日しか『リブルラブル』を含めてゲームのハイスコアを狙う機会がないんですね。平日だと長時間プレイができない。だから土日に早く店に行って席を取られる前に、すぐやらなきゃということになる。ハイスコアを出すには、そうするしかないわけです。

―― そうか、その頃の琴似キャロットは24時間営業じゃなくて、夜遅くまでやっているけど、いったん閉めて。

中川 はい、翌朝の10時にまた開店になる。

―― 要は当時の上手い人は基本ゲームが終わらないから、スコアを伸ばそうとしたら時間が重要になってくるのですね。

中川 時間が大事、時間がすべてなんです。 朝10時にスタートしないと、すでに出ているハイスコアを抜けない。

―― ゲームの中ではなく、お店としてのタイムオーバーがあるのですね。閉店時間という。

中川 そうそう。でも、お店としては迷惑ですよね。100円しか一日の売り上げがないから。「近代五種」開催のときの琴似キャロットには『リブルラブル』が2台あって、片方だけ長時間プレイ可のハイスコア用にしていました。もう片方は通常プレイ用。最後は根気の問題ですよね。攻略パターンを確立させると、あとは単純作業を繰り返す感じになる。

―― 10時間くらいは平気で超えるわけですか?

中川 10時間は超えますね。わたしは10時間ぐらいでギブアップしたんですよ。「近代五種」で優勝した人は13時間くらいやったのかな。開店の10時から夜の11時まで約半日です。自分は、そこまではさすがに無理だと。トイレもあるし、飲まず食わずはきついですよね。

―― 年齢的にそれができたというのもありそうですね。

中川 飲み物を飲んだらトイレに行きたくなるから飲まないということもありました。若かったからですよね。

―― 今から考えるとすごいことやっているなと思うけど、でも当時の状況でハイスコアを出そうとしたら、そういうハードなプレイ内容になるよなという理解はできます。

中川 今だったら「何やってんの?」みたいな、ちょっと呆れた感想にもなりますね。そんな同じこと10時間もやってみたいな。ちなみに「近代五種」でプレイ時間が長くなるのは『リブルラブル』だけです。『10ヤードファイト』は逆に早いです。10~20分くらいで終わる。『エキサイトサッカー』もそんなにかからないですね。30分くらいで終わります。『リブルラブル』だけが長い。

琴似キャロット主催のゲーム大会「近代五種」のひとつである『リブルラブル』。ハイスコアを出すために飲食もトイレも我慢して長時間プレイする必要があった。(※PS4版を使用)
LIBBLE RABBLE™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

―― この「近代五種」は1回きりの開催だったのですか?

中川 「近代五種」は、これで2回目でした。わたしは第1回には参加していません。また、過去にも女性のドンキーコング大会があったようです。「近代五種」はこの2回目で最後になりました。

―― やはり長時間プレイがあったからですかね。

中川 『リブルラブル』は反省点かもしれないですね。朝から晩までプレイするというのは長すぎる。

―― ビデオゲーム自体が黎明期の頃ですから、ゲーム大会も手探りでやっていたということなんでしょうね。中川さんの最終順位は何位だったのですか?

中川 総合2位でした。1位は『リブルラブル』を長時間プレイした大学生です。わたしの各タイトルのポイントは忘れてしまいましたね。

―― 優勝賞品はナムコのグッズとかですか?

中川 ナムコグッズはもらいましたね。ただ何をもらったかは忘れました。わたしはあまりグッズに興味がなかったんです。

―― 基本、琴似キャロットでふだん売っているグッズが商品だったのですかね。

中川 そうですね。

―― それをタダでもらえたということなんですね。

中川 そうそう、「近代五種」の前に参加した『フォゾン』の大会もわたしは2位でした。そのときの商品はモノラルの「ウォークマン」(*05)でした。1位がステレオの「ウォークマン」。

―― あの当時に「ウォークマン」をもらえるのは嬉しいですね。

中川 余談ですけど、当時の琴似キャロットは肉まんを売っていたんですよ。ひとつ100円。

―― 安い。

中川 安いんですよ。当時、わたしは高校生で、昼食代として500円をもらっていました。それで昼ご飯は食べずに我慢する。学校が終わってから琴似キャロットに行って、100円で肉まんを食べて、残りの400円でゲームをする。高校生のときはお金がないので、このパターンですね。

―― 肉まんはコンビニと同じ形で売っていたのですか?

中川 そうですね。隣でナムコグッズを売っていて。肉まんは意外にけっこう旨かったですよ。わたしは常に食べていました。

―― 札幌のナムコ直営店で肉まんを売っていたのは琴似キャロットだけなんですか?

中川 わたしの記憶では琴似だけだと思います。他の店で見たことがないですね。でも肉まん以外の食事が食べられる店はありました。「プレイタウン赤い風車」は焼きそばが食べられたし、川沿キャロットも軽食が食べられました。澄川キャロットや西野ナムコランドは食べ物を売っていなかったですね。

※プレイタウン赤い風車

80年代、世の中から理解されなかったゲーマー

―― 話が前後しますけど、中川さんが『ゼビウス』にハマっていたのは83年ですか?

中川 83年です。稼働し始めた頃からハマっていました。

―― スコアで1000万点を取るのは?

中川 83年の後半くらいだったと思いますね。最初にみんなが1000万点を出していた頃から1~2か月遅れぐらいで出したんですよ。

―― 琴似キャロットだと先に1000万点を出している他のプレイヤーがいたと思いますが?

中川 周りにいっぱいいましたね。その人たちのプレイを見て、自分も攻略法を覚えた感じです。『ゼビウス』は琴似キャロット以前から行っていた「よしや」の地下の暗かったゲーセンでもやっていて、そこで攻略の基本はできていました。スペシャルフラッグとかソルといった隠しフィーチャーについては琴似キャロットのほうで他のプレイヤーに教えてもらったんです。

―― 有益な情報の流れは琴似キャロットだと早かったのですね。わたしが当時住んでいた静内町(現・新ひだか町)では駄菓子屋やスーパーのゲームコーナーにしか『ゼビウス』が置いておらず、遊びにくるゲーマーの数も少なかった。自分と一緒に遊んでいた友だちの範囲でしか情報が流通しないから、有効な情報というのはまず入ってこない。ベーマガ付録のスーパーソフトマガジンで『ゼビウス』が大々的に取り上げられたときにはじめて公式情報を知りましたが、それまではほとんどわからなかった。

中川 隠し要素のスペシャルフラッグやソルの出しかたは「情報」じゃないですか。この場所で横にブラスターを撃っていれば、スペシャルフラッグが出ますよ、みたいな。人から教えてもらうのと自力で見つけるのとでは、情報の得やすさは大きく違いますよね。

―― その頃は基本毎日、琴似キャロットに行っていたのですか?

中川 そうです。平日でも学校帰りに寄って夜までいる感じでした。

―― 『ゼビウス』の頃だと、琴似キャロットは何時まで営業していたのですか?

中川 琴似キャロットは午前4時頃に閉めていました。自分は4時までいたことはないのですけど、午前の2時~3時くらいまで遊んでいたことがあります。ちなみに24時間営業の店も琴似にはありました。

―― 85年スタートの新風営法の前ですね。

中川 そうです。これ脱線話になりますけど、わたしが高校1年のときに夜中にゲーセンに行っているのを親に見つかっちゃって。ふだんゲームしていることを親には言ってなかったんです。真面目に勉強とかしているフリはしていたのですけど。親は夜にスナックの仕事をしていたので、夜の6時から家にいないんですよ。そこから自分にとってはフリータイムになります。だから夜中の2時ぐらいまで琴似キャロットでゲームをする時間があったんですよね。当時は高校生だったので学校が終わったら学生服を脱いで、普通の格好でキャロットに行ってゲームしていたわけなんですけど、1回親に見つかっちゃって。それぞれの帰宅がちょうど同じ時間にかち合っちゃったんです。

―― あらら。

中川 もう、そのときはひどかった。すごく怒られちゃって。「そんなことなら学校やめろ」とまで言われて。でも俺は「やめない」と。「ゲームもやめろ」って言われて「わかった」って言って。でもやめない(笑)。

―― けっきょく、その後もゲーセン通いは続いたのですね。

中川 でも、あの頃のゲームは一般的なイメージがあまり良くなかったですよね。ゲーセンでゲームをすることはすごくイメージが悪くて。わたしの高校時代のときも、「不良じゃないの?」みたいなことを言われたことがあります。不良じゃないのだけどね。さらに80年代後半になるとオタクって言葉が流行って「あなたはゲームオタクなの?」ってバカにされるんですよ。「いや、ゲーマーだから」って返したことは何回もあります。

―― 今の話を聞いて思い出した話があって。ちょっと余談ですけど、わたしが新卒で働き始めた1990年の頃に新入社員同士の飲み会みがあって、居酒屋に行く前に自分も入れた3人くらいで「ちょっとゲーセンに寄って行こうぜ」ってことになったんです。当時、自分は『パワードリフト』(セガ/1988年)にハマっていて、一緒に行った同僚たちの前でエクストラステージ(それまでの5つのステージをすべて1位でゴールするとプレイできる)を含めてクリアしたら変な目で見られたことが今も強く記憶に残っています。ふだんゲームに関心ない人には、そう見えちゃうんだなという発見があったというか。

中川 今でこそ「eスポーツ」という感じで一般層にも認知されるようになっていますけど、その当時はかなりね、ワルというか、オタクというか、何かイメージは悪かったですよね。

―― ゲームが上手いというだけで、ふだんゲームを遊ばない人からは変な目で見られちゃう時代でした。

中川 そうそう。「ゲームが上手くてすごい」とならなかったですよね。ゲームが上手い=すごいじゃなくて、一般的にはゲームが上手い=危ないみたいな時代。

―― わたしは当時「ALL ABOUT namco」を買ったことも、ゲームをしない同級生には変な目で見られていましたからね。

中川 そうですよ、ゲーム雑誌なんか買おうものならどう言われるか。80年代はそういう時代でした。

―― いや本当、そこは変な共感をしてしまいますけど。

中川 やー、わかります。

―― でも改めて考えると、当時の中川さんのゲーム環境はいいですよね。自宅から歩いて行けるところに、上手いプレイヤーがたくさんいる琴似キャロットがあって。

中川 そうですね。

―― 親にさえ見つからなければ、時間もフリータイムで遊べるという。

中川 だから勉強さえしておけば、成績をある程度キープしていれば問題なかったってことなんですよね。

―― 上手いプレイヤーが周りにいるというのは、大きいことだなと思います。

中川 大きいですよね。琴似キャロットでは、特にサラリーマンの人が上手かった。やまざき拓さんは予備校生でしたけど、やまざきさんも含めて自分より上の世代で上手い人が多かったです。

―― 例えば『ゼビウス』は、そういった年上の上手い人の攻略法をトレースしていたわけですね。

中川 はい、参考にしていました。

―― 逆に、中川さんのハイスコアが雑誌に掲載されていた『マリオブラザーズ』はどうだったのですか? 他のプレイヤーとのやり取りはあったのでしょうか?

中川 『マリオブラザーズ』はけっこう長い期間やっていたので、まず自分で攻略パターンを作る形でした。その後、他の店舗の上手いプレイヤーと交流することになります。西野ナムコランドから来ている人や小樽から琴似キャロットに来た人と攻略パターンの交換をして攻略スキルを高めていきました。それぞれが作ったものから一番いいパターンを選択した感じです。

―― 雑誌へのハイスコア掲載がされていた頃は、『マリオブラザーズ』が中川さんの中では、かなりおもしろいゲームだったわけですよね。どこまでスコアを伸ばせるかというのがモチベーションにもなって。

中川 そうですね。それでも最後はちょっと飽きちゃったんですよ。攻略が極まるとひたすらループだし、何よりプレイ時間が長くなる。『マリオブラザーズ』をやり始めたら3時間くらい続くので。もう次のゲームに移ろうかという思いが生まれてきてしまう。

『ゼビウス』のプレイヤーとして糸井重里さんのTV番組に出演

―― 続いて糸井重里さんの番組に『ゼビウス』のプレイヤーとして中川さんが出られた件についてお聞きします。この番組の放送はいつ頃ですか?

中川 84年の終わり頃ですかね。『ゼビウス』のブームが終わりかけている頃。

―― NHKの番組ですか?

中川 NHKじゃないんですよ。民放ですね。資料を持ってきたのですけど、UHB(北海道文化放送、フジテレビ系列)ですね。当時、琴似キャロットの店長からテレビ中継に出てほしいという話がありました。この頃は『ゼビウス』をしばらくやっていなかったので、事前にちょっとリハビリ的なプレイをして備えました。当日は土曜日の午後からの収録でしたね。

糸井重里さん出演のTV番組で中川さんがプレイを披露した『ゼビウス』(※PS4版を使用)
XEVIOUS™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.
Arcade Archives Series Produced by HAMSTER Co.

―― まず琴似キャロットに番組側から打診があったということですか?

中川 そうです。その当時、他の店舗と比べて琴似キャロットがハイスコアを出しているプレイヤーが多かった。札幌市内のナムコ直営店の中でも琴似キャロットには強者プレイヤーが多いということはナムコのほうでも知っていたらしくて。それで番組とナムコとの間でもいろいろ調整があって、琴似キャロットの常連プレイヤーを出演させたいという話になったみたいです。

―― そういった中で、琴似キャロットの数あるプレイヤーの中から中川さんに声がかかったのは、どういった経緯があったのでしょう?

中川 わたしが『ゼビウス』で1000万点を出していて、他のゲームでもハイスコアを出していることを店長が知っていたことから判断したんじゃないかと思います。

―― その頃だと中川さんは中学生ではなく、高校生になっていますよね。

中川 高校1年か2年です。

―― 番組に出てもらうに当たって、学生がよかったみたいなこともあったのでしょうか?

中川 いや、そんなことはなかったと思うのですけどね。うーん、どうなんだろう。そこはわからないですね。

―― 中川さんが高校生の頃も、琴似キャロットの常連の中では年齢が低いほうだった?

中川 低いです。もう1人、さらに年齢が低い子がいたのですけど、その子は『ゼビウス』をやっていなかったので、番組出演の対象にならなかった。ブームの後ということもあって、当時の琴似キャロットの常連の中で『ゼビウス』をやっている人が実はそんなにいなくて。

―― そうなんですね。

中川 常連ではないけど、ふらっとキャロットに来て、『ゼビウス』のハイスコアを出したという人が多かったですね。他のゲーセンで極めて琴似キャロットでもハイスコアを出すというかたはいましたけど、常連ではなかった。

―― そういったことから、当時としては中川さんに番組に出てもらうのがいちばん妥当という判断だったのですね。土曜日の収録とのことで、当時はまだ午前中に授業がありましたから、昼で学校が終わってUHBに行った。テレビ局に行ったら、そこにゲーム筐体が置いてあってという感じだったのですか?

中川 とりあえずテレビ局に行ってゲームをしてくださいとは言われたのですけど、具体的な話は聞かされていなかったんですよ。ざっくりとしたテーマだけは聞いていて。「北海道の文化を語る」というテーマで、 例えば書道の文化を語るとかいろいろある中にビデオゲームも入っていました。なぜゲームなのか、わたしはわかっていなかったのですけど。

―― 「文化」という観点のテーマ設定があったのですね。

中川 そのときにゲストで来ていたのが糸井重里さん。詳細は今もわからないですけど、当時の糸井さんがゲームを好きだったからビデオゲームも取り上げられたのかもしれないです。

―― 今だと「ゲームと文化」という関連付けは珍しくないですけど、80年代にその視点でゲームが取り上げられるのは、あまり一般的ではなかったですよね。

中川 わたしも最初に話を聞いて「何で文化なんだろう?」とは正直思いました。でも前年に『ゼビウス』がブームになって、ゲームセンターがまた盛り上がっていたことに糸井さんは注目したのかもしれません。

―― 84年の終わり頃だと、細野晴臣さんがプロデュースした「ビデオ・ゲーム・ミュージック」

(*06)

がすでに発売されています。そういった辺りからも糸井さんはビデオゲームに文化を感じていたのかもしれませんね。先ほどの話にもあったように、90年代の頭くらいまではゲームもまだオタク的に揶揄されるような時期だったわけだから、先見の明があった番組とは言えそうです。

中川 当時の筐体はまだアップライトじゃなくて、テーブルでした。だから、わたしが画面を見下ろす形で座って、糸井さんが近くに立って、ゲームをしているわたしに話しかけるという形でした。「北海道ゲームチャンピオン」という肩書きで紹介されて、勝手に盛られた感じです(笑)。

―― この収録のとき、『ゼビウス』をどれぐらいの時間プレイしていたのですか?

中川 カメラがわたしのほうに回る前に先行して2時間くらいプレイしていて、その時点でスコアが300万点くらいいっていたはずです。300万点というと、エリア16の10回目を越えた辺りかな。そのタイミングで糸井さんが話しかけてきて、カメラも回り始めました。『ゼビウス』のほうにカメラが入るまでの間で他の人が語る北海道の文化にスポットを当てていて、途中からわたしのほうにカメラが回ってきたという感じです。

―― この番組は生放送なんでしたっけ?

中川 生放送です。同じ学校の人が見ていたらしくて、後から「番組を見たよ、出ていたでしょ」と言われました。

―― 生放送というのは、またすごいですね。

中川 だから、わたしは番組を見ていないんですよ。その当時、まだビデオデッキもあまり普及していなかったですからね。

―― 番組側には、カメラを向けたときにゲームオーバーになっちゃっているかもみたいな心配は特になかったのですか?

中川 なかったみたいです。ゲームが上手いやつが来ているから大丈夫だと思っていたんじゃないですかね。

―― 収録中、糸井さんとはどのような話をしたのですか?

中川 糸井さんは『ゼビウス』にちょっとくわしいかたでしたね。例えば「エリア16のここは難しいよね」とか、「ここにソルがあるんだよね」といった、それなりにプレイしていないとわからない、そこそこやり込んでいないと言えないような話をしていました。

―― 考えてみたら、その番組収録の5年後にファミコンで『MOTHER』(任天堂/1989年)を作るわけだから、糸井さんはその時点で比較的ゲームに関心があって、くわしい人だったというのはよくわかる気がします。その番組の映像は、今はどこにもないですか?

中川 どこにもないです。あの映像は今欲しいなと思うのですけど、持っている人はいないですよね。

―― 録画環境が乏しい頃だから、そもそも録画している人がいないということか。

中川 その後にもわたしはテレビに出る機会があったのですけど、それは残していたんですよ。家庭用ゲームのほうで何回か出ていて、そちらはビデオが普及していた頃だから残してあるんですけど、最初のUHBのやつは残っていないんです。

―― 当時の琴似キャロットの常連でテレビに出たことがあるのは中川さんだけですか?

中川 わたしだけですね。

―― キャロットの常連さんの中で、番組を見たよという人はいましたか?

中川 いや、意外とそんなに見ていないんですよ。放映が土曜日の午後なので、また微妙な時間帯なんですよ。

―― テレビ番組を見るよりも他のことをやっている時間帯ですよね。それこそ常連さんならキャロットに行っている人もいただろうし。

中川 だから同じ学校のやつがよく見ていたなと思って。

―― 琴似キャロットの店員さんは見ていなかったのですか?

中川 キャロットの店員も見ていなかった。話を振った店長も見ていないというね(笑)。

―― 番組の収録が終わったら、その時点でゲームも中断してという感じだったのですか?

中川 そうです。カメラが回るのが終わったら、そこでゲームも中断しました。図書券をくれて、終わりですね。「はい、お疲れさんでーす」って、何かそっけない終わりかたでした。そういうものなんだろうなとは思いましたけど。

―― 糸井さんのサインをもらったりといったことはなかったのですか?

中川 そんな接点もなかったですね。カメラが回っているときに話をして終了です。

―― その後、糸井さんと会うこともなく?

中川 全然なかったですね。でもその後、名前を忘れてしまったのですけど札幌ナムコの偉い人が琴似キャロットに来て挨拶をしてくれました。良い思い出です。

(Vol.2に続く)

   

インタビュー場所:GAMERSBAR lettuce702
北海道札幌市中央区南6条西3丁目第8桂和ビル4階
X(Twitter):https://twitter.com/gblettuce702
TEL:090-9757-1646

本インタビューに当たり、TYR-YETI氏のブログ「小人閑居して不善を為す chapter3」を資料として参照させていただきました。
https://www.inu-inu-yeti.com/

本インタビューは、インタビュー時から約40年前のお話を中川さんにお聞きしました。そのため中川さんご自身の記憶にどうしても曖昧なところが一部ある上でのお話となっています。その曖昧な部分を可能な範囲で補完するための事実確認と資料提供に関して、下記の皆様にご協力をいただきました。こちらにお名前を紹介させていただき、お礼を申し上げます。(氏名五十音・アルファベット順、敬称略)

 見城 こうじ
 佐藤 昌信(GAMERSBAR lettuce702 店長)
 OAM HIDE®
 Show.@OLDゲーマー
 TYR-YETI

脚注

脚注
01

※名古屋撃ち
『スペースインベーダー』で自陣直前まで来た敵の弾が自機に当たらないことを利用した攻略テクニック。インベーダー稼働当時から有名な裏ワザの元祖とも言える存在である。

02

※やまざき拓氏
1984年、札幌そごうゲームスポットを拠点にしたゲームサークル「札幌南無児村青年団」を創設した初代会長。『マッピー』(ナムコ/1983年)のハイスコアラーとして全国的に有名だった。大学進学と同時に「札幌南無児村青年団」から離れる。二代目の会長となったのが前回インタビューを行った荒木聡氏。

03

※AMUSEMENT LIFE
1983年1月に創刊されたアミューズメント専門誌。ビデオゲームに限らず遊園地やエレメカなどアミューズメント全般についての情報を掲載していた。「マイコンBASICマガジン」に先駆けて全国のゲーセンで出されたハイスコアも掲載されていた(83年4月に発売された第4号から)。

04

※大堀康祐氏
『ゼビウス』稼働開始とほぼ同時期である高校生のときに日本ではじめてスコア1000万点を達成。「うる星あんず」名義でミニコミ誌「ゼビウス1000万点への解法」を発行した。その後、「マイコンBASICマガジン」のライターを経て、様々なゲーム開発・企画に携わる。2016年、「ゲーム文化保存研究所」を設立。

05 ※ウォークマン
1979年にソニーが販売を開始したポータブルオーディオプレイヤー。80年代はカセットテープが記憶メディアの主流だった。
06 ※ビデオ・ゲーム・ミュージック
1984年4月に発売された細野晴臣氏プロデュースによる日本初のゲームミュージック・サウンドトラック。1980年から83年までにリリースされたナムコのアーケードゲーム10タイトルが収録されている。

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