多数の有名ライターを育てたゲームマスコミ界の重鎮!平林久和氏インタビュー 前編

  • 記事タイトル
    多数の有名ライターを育てたゲームマスコミ界の重鎮!平林久和氏インタビュー 前編
  • 公開日
    2019年02月23日
  • 記事番号
    863
  • ライター
    こうべみせ

ファミリーコンピュータが人気絶頂だった1980年代。ゲームキッズの愛読雑誌といえば『ファミリーコンピュータMagazine』(1985年~1998年/徳間書店インターメディア)、『ファミコン通信』(1986年~/アスキー他)、『マル勝ファミコン』(1986年~1997年/角川書店)、『ファミコン必勝本』(1986年~1990年/JICC出版局)の四大誌だった。

なかでも『ファミコン必勝本』はマニアックな記事が多かったと記憶している。流行に媚びることなく、編集者やライター陣が良いと思ったゲームを推していくこだわりがあったゲーム誌だったといえるだろう。他のゲーム誌がメーカーの広報誌的になっていたのに対して、『ファミコン必勝本』はまさにマスコミといえる切り口で、ゲーム業界の深い部分まで伝えてくれる大人のゲーム誌だったと思っている。

そんな『ファミコン必勝本』を、編集者として陰になり日向になり支えていたのが平林久和氏だ。『ファミコン必勝本』に創刊時より携わり、同誌を出版していたJICC出版局(現、宝島社)を退職した後は自らの会社「インターラクト」を起業、現在はゲームアナリストとして多忙な毎日を送っている。

ゲームマスコミ出身者としてはもっとも成功した人物の一人といえる平林氏に、これまでのゲーム雑誌の変遷についてお聞きした。栄枯盛衰の激しいゲーム雑誌業界の足跡を紐解くにあたり、まずは、同氏を形作った少年時代や青春時代から辿っていく。

豊かなゲーム体験をもたらしてくれたという湯河原(神奈川県)での少年時代、そして編集者になるきっかけや多忙な編集部時代など、興味深いお話をたくさん伺った。『ファミコン必勝本』時代に同誌で活躍していたライターの田尻智(*01)ベニー松山氏(*02)成澤大輔(*03)との思い出についても気になるところ。古くから平林氏の知り合いでもある当研究所の大堀康祐所長とともに、平林氏の原点を探っていく。

【聞き手】
ゲーム文化保存研究所
所長 : 大堀 康祐
ライター : こうべみせ

ボウリング場でアタリのゲーム機に触れたのが原体験

▲「子供時代を過ごした湯河原は娯楽が多かった」と語る平林氏

――平林さんといえばゲーム関連のジャーナリストということで、ゲームマスコミを生み育ててきた大先輩なので緊張しています。ファミコン必勝本時代のお話や、ゲーム業界の裏話的なものをお聞きすることができればいいなと思っているのですが、その前にゲームの世界に触れるようになったきっかけを教えていただけますか。

平林 本格的にビデオゲームで遊ぶようになったのは高校1年生からですね。『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)がきっかけです。ただ、それ以前からも『ポン』(1972年/アタリ)や『ブレイクアウト』(1976年/アタリ)といったビデオゲームに親しんでいました。

まだゲームセンターのような店は存在しない時代だったので、ボウリング場で遊ぶという感じでしたね。「あなたが初めてビデオゲームに触れたのはどこですか?」という質問に、「ボウリング場」と答える狭いゾーンの世代です(笑)。

大堀 当時のボウリング場は隅にゲーム機が必ずありましたからね。

平林 当時は何と呼ぶか言葉を知らなかったけれども、今にして思えばアップライト筐体でしたね。海外から輸入したスタイルをそのまま継承していました。テーブル筐体は喫茶店に置けるようにと、後年になってから考案されたものですから。だからアップライト筐体の『ポン』をリアルタイムで小学校の頃にやっていたことになります。

▲平林氏が初めてハマったビデオゲームである『スペースインベーダー』(画像はスペースインベーダー公式サイトより引用)©TAITO CORPORATION 1978, 2019 ALL RIGHTS RESERVED.

あの頃の『ポン』というのはナムコが正規品を輸入していたんですよね。当時はノーラン・ブッシュネル(*04)中村雅哉(*05)会長(当時は社長職)の間に親交があったので、ナムコが輸入していたアタリの正規品で遊んでいたのが小学校の頃になります。

その頃はボウリングがブームでして、父親も母親もボウリングをやっていました。小学生だった僕もよくボウリング場に連れて行かれて、そんな時に『ポン』や『ブレイクアウト』を遊ぶという感じでしたね。

大堀 お話を聞いていると、そのボウリング場って当時としては新しいものを早めに入れていたような感じですね。

平林 そうですね。後になって業界のいろんなことを知ってから、そういう原体験をしていたんだと思うようになりました。タイトーのピーナッツベンダー(*06)なんかもありましたね。

▲当時のピーナツベンダーをイメージしたタイトー公認のオブジェ(「セブンパークアリオ柏」店内に設置。画像はけんつさんのTwitterより引用)

大堀 ピーナツベンダーって見たことがないですよ。

平林 タイトーはウォッカの販売みたいなところから始めていって、ベンディングマシンの開発をやっていました。そういうものにも触れていたんだなと思います。

僕の出身は神奈川県の湯河原町(ゆがわらまち)なんですけど、たまにテレビ番組の温泉街特集で「クラシックゲームがいっぱいあるよ」って話題が出るんです。当時の湯河原は観光客向けにゲームなどを積極的に置いていて、それがいまだに残っているんだなということが分かります。だから僕が子供の頃にいろんな機械と接することができたんだと、後になってから符合している感じです。

谷川浩司が現れなければ棋士になっていたかもしれない

▲「子供時代は天狗になっていたけど、鼻を折ってくれる人たちがいたおかげで勘違い人間にならずに済みました」と語る平林氏

――しかし、まだゲームが仕事になると思えるような時代ではありませんでしたよね。

平林 確かに子供時代から大好きだったけど、ゲームの仕事をするようになるとはまったく想像できなかったですね。もっとも大好きとは言っても、親から小遣いを300円もらって3回ゲームをしたら「ハイ終わり」というレベルです。その程度の「好き」であって、それを職業にしようとはまったく思っていませんでした。だから当時の僕がなりたかった職業は将棋の棋士なんです。

自分の祖父が将棋好きな人だったんですけど、その影響で僕も小さな頃から将棋に親しんでいて、小学生の時にはアマチュアで有段者になっていたんです。といっても学校では強いけれど、町の外で大きな大会に出ると負けて帰ってくるようなレベルだったんですけどね。でも大好きだからずっと続けていたんです。

そんな時に将棋界に現れたのが谷川浩司(*07)だったんです。彼は僕と同じ歳なんですけど、当時の彼は今で言うと藤井聡太(*08)みたいな存在です。棋士のすごさって棋譜を読むとだいたい分かります。プロ棋士の棋譜を読んで、やっぱりプロはすごいなと思うんです。まあそれは当たり前のことなんだけど、谷川の棋譜っていうのは初めて見るような将棋の指し方なんですよ。「なんで自分と同じ歳の小学生がこんな将棋を指すの?」って。こりゃぜんぜんレベルが違うわって思って、布団を抱えて悩みましたよ。

――とんでもない奴が現れたって感覚ですね。

平林 僕はそんなに学校の勉強は真面目にやっていなかったから、勉強は他人に負けてもいいやって感じだったんですけど、将棋は本当に一所懸命やっていました。これだけ一所懸命に(将棋を)やっているのに、なんで谷川とこんなに差がつくんだって悩みました。

それを自分の父親に言うと「世の中ってそんなことばかりだ」と諭されました。僕は小学生時代、本当にいろんなことに恵まれていて、他人よりもできると言われることが多くて天狗になっていたのかもしれない。でも、一番大好きな将棋において「こてんぱん」に負けてしまうという経験をしたおかげで、それが後々、自分の人生に役立っているのかもしれません。

――自分と同じ歳や歳下にもすごい人たちはいっぱいいる、と。

平林 ゲーム誌の編集に携わるようになってから、大堀さんをはじめとしていろんなゲームライターの方々と出会うんですけど、みんな僕より歳下だったんですね。ほかにも田尻智さんや成澤大輔さん、ベニー松山さんや山下章さん(*09)がいましたけど、表向きには「こいつらみんな生意気だ!」って僕は言うんですよ(笑)。でも心の中ではみんなに敬意を評していました。彼らのおかげでいろいろなことを吸収できました。だから僕にとって、ゲームのことを教えてくれた先生というのはそこの世代の人たちです。

その人たちから素直に学ぶことができたのは、子供の頃に同世代や歳下の人に徹底的に負けることを経験できたからですね。自分より年齢が下でも素直にその人のすごさを認めて、尊敬するようになれたのは大きかったですね。

脚注

脚注
01 田尻智(たじり さとし) : ゲームフリーク代表取締役社長。ポケットモンスターの生みの親。同人誌から活動を始め、ゲームライターを経験した後、インディーズ制作したファミコンゲーム『クインティ』(1989年/ナムコ)の収入を元に同人サークルを法人化した。それがポケットモンスター誕生につながっていくのだから、まさにジャパニーズドリームの具現者といったとこだろう。
02 ベニー松山 : 編集プロダクションであるスタジオベントスタッフ取締役。『ウィザードリィ』(1981年/サーテック)マニアで、同作の普及に尽力する。代表作は『ウィザードリィ』をベースにした小説『隣り合わせの灰と青春』(1988年/JICC出版局)。
03 成澤大輔 : ゲーム評論家。競馬マニアで『ダービースタリオン』シリーズ(1991年~/アスキー)に関する書籍を多数執筆する。2015年没。
04 ノーラン・ブッシュネル : アメリカのゲーム会社アタリの創業者。ビデオゲームで初めて商業的な成功を納めた人物でビデオゲームの父と呼ばれている。
05 中村雅哉 : ナムコ創業者。デパート屋上の遊具製造販売から会社を起こし、一大ビデオゲームメーカーにまでナムコを育て上げた立志伝中の人物。バンダイとの合併後は名誉相談役を務めた。2017年没。
06 ピーナッツベンダー : 1970年代にレストランやバーなどのテーブルに置いてあった小型の自動販売機。10円玉を入れると、ひとにぎりのピーナッツが出てくるというもの。
07 谷川浩司 : 1976年に14歳でプロ入りし、21歳で史上最年少名人になるなど、将棋界で天才と呼ばれる棋士のうちの一人。タイトル通算獲得数歴代4位。十七世名人の資格を有する。「光速の寄せ」と呼ばれるスピード感のある攻めが特徴。
08 藤井聡太 : 高校生プロ棋士。2015年に中学2年でプロ入り。中学生でプロ入りしたのは将棋史上、谷川浩司、羽生善治、そして藤井聡太含めて5人のみ。現在も将棋界の各種歴代記録を更新し続けている若き天才。
09 山下章 : 編集プロダクションのスタジオベントスタッフ代表取締役。ゲームライター。『マイコンBASICマガジン』(1982年~2003年/電波新聞社)で連載していた「チャレンジ! アドベンチャーゲーム」で一躍人気ライターとなる。

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