“人生の攻略”を教えてくれた「アストロシティ先生」

  • 記事タイトル
    “人生の攻略”を教えてくれた「アストロシティ先生」
  • 公開日
    2020年12月25日
  • 記事番号
    4444
  • ライター
    山田哲子

ゲーセンで育った世代にとって、かけがえのない筐体「アストロシティ」
「アストロシティミニ」が発売されるということで、アストロシティについて何か文章を起こしたいと思い、こうして筆を(タイピングですけど)とっております。

しかし、ゲーセン育ちを自負している私ですが、残念ながらゲーセン通いを始めた時代は「VF3」であり、「ブラストシティ」からの人間で、アストロシティそのものにそこまで馴染がない。
そこで今回は「ホームステイアキラ」またの名を「NAL」という私の夫に、『バーチャファイター』(VF)とシューティングゲーム(STG)を通して感じた「アストロシティ」について話を聞いてみることにしました。

アストロシティとの出会い:『バーチャ』シリーズ

ホームステイアキラ(以下HSA)とアストロシティの出会いは、彼の代名詞ともいえる『VF』(バーチャファイター)シリーズ。
初めての出会いから衝撃を受けたのかと思いきや、そのときは地元のゲーセンで仲良くなった常連に勧められて、『VF1』をプレイしただけだという。

周りは対戦などもしていたが、HSA本人は
「ジェフリーのトースプ(トーキックからのスプラッシュマウンテン)がカッコいいから出して遊んでいるだけ」
という、そんな少年だったらしい。

後に『VF1』はアストロシティのまま、大ブームを巻き起こした『VF2』へと進化。
その進化はHSA少年にとっても大きな衝撃であり、感動すらあった。

『VF1』のときは大人たちの対戦を見ているだけだったが、『VF2』になり対戦も始め、たまに地元にくる遠征者の「知らない連携・コンボ」等にカルチャーショックを受け、より高みを目指すように。
その頃から「ゲーメスト」を読んだり、コンボを探したりといった「考えてプレイする」ということを覚え、気づけばかなり上達して、地元では負けなくなっていく。

「強くなる」ということに楽しみを見出し始めていたHSAは、全国大会店舗予選に出場し、店舗代表に。
そして名古屋という都会で初めてのエリア予選に参加し、3~4回戦で敗退。
「見たこともないような猛者」に囲まれ、今までにないくらい負けを重ねる。
しかし不思議と悔しいという気持ちはなかったそうだ。

「たくさん負けたけど、とにかく強い人がたくさんいてとても楽しかった」

その後、岐阜ダイオウ(岐阜にあった「ゲームセンター ダイオウ」。すでに閉店)のレベルの高さを聞き、遠征に行くことに。
そしてダイオウで「まったく勝てない人物」と出会うことになる。

そこからHSAの人生は大きく変化した。
そのまったく勝てなかったプレイヤーと三重県内で行われた100人組手で再会することになり、
「またダイオウ遊びに来いよ、今からでもいいぞ!」
の言葉に
「今から行きます!」
と即答し、そのままゲームセンターダイオウのHSAが生まれることになる。

「遊びに行ってくるね」との連絡こそしてたとはいえ、8カ月も家に帰らなかった息子のことをご両親もさぞかしご心配なさっただろうに。
ともあれ、こうしてHSAは確実にゲーマーとして育っていった。

『VF2』は彼に対戦する喜びや外の世界、そして人とのつながりを教えてくれたのである。

『バーチャファイター』©SEGA

アストロシティで修行? STGとの出会い:バトルガレッガ

ダイオウで『VF2』に夢中になっていたHSAに、ここで転機が訪れる。
ハイスコア集計店の常連がダイオウに来訪し、奇遇にもダイオウの常連と知り合いだったのだ。
これをきっかけにHSAはそのハイスコア集計店を訪れるようになり、ハイレベルなSTGゲーマーたちを見て、こう思ってしまったのである。

「いつか、俺もシューティングゲームをやってみたいな」と。

こうしてHSAはNALという2つ目の名前を持つことになった。

そして、STGでは自身初めての全一を狙いに行くことになる。
そのタイトルは『バトルガレッガ』。
今でも多くの人に愛される、人気STGだ。

結果として、NALは全一を獲ることができた。
が、その道のりは決して平坦ではなかった。

ハイスコアが出ず、
「ハイスコアが出るまでやれや!」とアストロシティに縄で縛られて固定されたこともあった。
今考えると完全なパワハラである。
当時16歳。
「16歳で筐体に縛られたやつなんかおらへんで」とは本人談。

それ以外にも、生活のほとんどを『バトルガレッガ』に全振りした。
寝食以外はずっと『バトルガレッガ』のことを考えていたし、時間さえあればアストロシティと共に過ごした。

ただ、不思議と苦痛ではなかった。
とにかく楽しかった、
その楽しい気持ちこそがすべてだったのだろう。

またゲームに対する考え方も『バトルガレッガ』に育てられた部分が大きいという。
ゲームを理解することの重要性、そして理解するだけではなく、色々なことを試すこと、即ち[トライ&エラー]の大切さもこのとき知った。
悪い意味で妥協をしないことを常に念頭に置き、「ここはこれでいいはず」と決めつけない、思考を停止させない。常にどの部分も「もっと良くなるかもしれない」と思い続けるようにした。

NAL自身、ハイスコアで一番思い出に残っているという『バトルガレッガ』は、彼にゲームとの向き合い方や考え方、そして苦労の上に達成した喜びなど様々なものを与えてくれたのである。

アストロシティで成長:STG:怒首領蜂

『大往生』の攻略DVDをやっていたこともあって、「NALといえば怒首領蜂」というイメージを持たれているようだ。
『怒首領蜂』はどれもプレイしたが、本人が一番印象に残っているのが初代『怒首領蜂』だという。
特に初めて見たラスボス「火蜂」の衝撃は忘れられないらしい。

「こんな弾、実際に避けられるのだろうか」
初対面の火蜂に抱いた感想は「絶望」だった。

『怒首領蜂』の2周目自体がすでに難易度が高く、中でもその2周目の5面はとてつもなく苦労した。
この先に、いったい何があるのだろう。
コンティニューをして、進んだ先にいたのが「火蜂」だ。
そのときの絶望感と言ったら……今でもどう表現していいかわからないほどだった。

打倒・火蜂を掲げ、4カ月かけて悲願のクリア。
最終的に『怒首領蜂』でもBタイプで全一を獲るが、そのことよりも、目の前に現れた強敵「火蜂」の印象ばかりが残っているという。
火蜂はNALにとって、「最終形態のフリーザを見た気分」のような、普通の人生を歩んでいたらなかなか経験できない稀有な感情をもたらしたようだ。

また、この頃には自分のハイスコアの出し方の方針やアプローチの仕方が固まってきつつあった。

『怒首領蜂』はNALにとって、絶望に挑む勇気や、弾幕STGの楽しさ、そして今のNALのハイスコアへのアプローチや方針を固めてくれた、そんな思い出深いタイトルだった。

アストロシティはあなたにとって?

……こうしてHSAことNALの「アストロシティ」の様々な思い出話を聞いていて、1つ思ったことがありました。
それは彼という人が作られていく過程で、「アストロシティ」というものが大きく関わっていたということ。

HSAは決して弱音を吐かない。言い訳もしない。
サボりはします。サボリは大いにします。怠けもします。
ただ「やる」と言ったことは最終的に必ずやり遂げます。

これはきっと、筐体に縛られてまでSTGで全一を獲ったり、どうやって倒すかわからない火蜂のような強敵や、『VF』で出会った猛者たちに挑み続けた結果なのではないかと。

HSAは本当に人に優しく、人との縁を大切にします。
会った人や話しかけてくれた人、また遠征者の方や年下にも親切にする方です。

これはきっと、ゲームやゲーセンを通して様々な人と知り合い、可愛がられたから、自分もそうありたいと思っているからではないかと。

ゲームの腕前や攻略の仕方はもちろん、それ以外の人格形成や人生の歩み方にも、「アストロシティ」が大きく関わっているような気がしてならないのです。

「アストロシティミニ」 ゲームセンタースタイルキット ©SEGA ©SEGATOYS

「アストロシティ」は彼に、たくさんのゲームを通して、様々なことを教えてくれた。
HSAことNALにとってゲームセンターは学校であり、「アストロシティ」は先生だったのかもしれない。

そう思えてきたのです。

HSAだけではなく、この時代にゲームセンターに足を運んでいた方々、もうすっかり中年と言われるような大人になった私たちみんなも、どうか思い返してみてください。

アストロシティの思い出はなんですか?
あなたはどんなことを教わりましたか?
ふつふつと色んな想いが沸きあがってきませんか?

もう随分ゲームを触っていない、ゲームセンターに行ったのは何年前だろう。
大人になって、そういう方もたくさんいると思います。
もし、「アストロシティミニ」に、昔やったとことのあるタイトルが入っていたのなら、手に取ってみてください。
きっと当時の苦い思い出も、楽しかった記憶も、一瞬にして蘇るのではないでしょうか?

そして、たまには母校を訪ねるような感覚でゲーセンに行ってみるのもいいかもしれません。
きっと「アストロシティ」先生は喜んで、私たちを迎えてくれるはずです。
そしてその素晴らしさを後世へと伝えていくことが、卒業生である私たちの使命なのかもしれません。

昨今、コロナや家庭用ゲーム機の普及で淘汰されるのではないかと不安なゲームセンターや筐体ですが、我々の母校であるゲーセンが、そして筐体である先生たちがいつまでも元気でいてくださることを心から願っております。

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