高橋由紀夫氏インタビュー 後編

  • 記事タイトル
    高橋由紀夫氏インタビュー 後編
  • 公開日
    2021年10月22日
  • 記事番号
    6244
  • ライター
    IGCCメディア編集部

ハムスターの「アーケードアーカイブス」にて『源平討魔伝』がリリースされることを受けて掲載スタートとなった、高橋由紀夫氏のインタビュー。
最終回となる今回は、『源平討魔伝』から現在までの高橋さんの足跡をたどります。
インタビュー前編は、こちら
インタビュー中編は、こちら
 
【聞き手】
大堀康祐(ゲーム文化保存研究所 所長)
石黒憲一(娯楽産業研究家)

『源平討魔伝』の余波

―― 『源平』は、ナムコとしてははじめてプロの声優さんを起用したということでも話題になりましたが……。

高橋 あれも中潟くんの野望(笑)。

(一同爆笑)

つくば万博(1985年)で行われたロボットバンドPicPac以降も、ミュージックコンサートをイベントで行っていた。このラジアメの福岡のイベントでは、アタリの『ガントレットの大会が開催された。四人一組でゲームを開始し、合計点ではなく、一番高得点を出したプレイヤーがいるチームが優勝というルールだった。会場には当時ナムコの社長だった故・中村雅哉氏もおいでになりました(石黒憲一氏提供)

高橋 水足さん(水足純一氏)という非常に優秀なかたがいて、もうひとり宇田川くん(宇田川晴久氏)というこれまた優秀な開発者がいて、ふたりは夏でもいつも長袖を着ていたので「長袖コンビ」なんて呼ばれていたんですけど。まず、その水足さんが音声合成をやりたいと言い出して、それでどうにかして声を出そうとしてお二人で頑張ってくれたんです。

―― そのお二人というのはファミコンの……。

高橋 そうです。秋葉原でファミコンを買ってきて解析して……。

大堀 任天堂から何の資料ももらっていないのにファミコン版『ギャラクシアン』を作っちゃったという伝説の人たちですよね。

高橋 うん。

―― ファミコンといえば、『源平討魔伝』のファミコン版もありましたが。

高橋 あれは全然関わっていません。私たちの知らないところで作られていたものなので。そういえば同じファミコンでコナミの『月風魔伝』ってありましたよね。

―― はい。あれをご覧になったとき、どう思われましたか?

高橋 じつは私、あのソフトの発表会に行ったんですよ。それで、これどっかに見たことあるような……みたいなことを係りの人に言ってみたりして(笑)。

大堀 悪質すぎる(笑)。

高橋 確かに雰囲気は似てると思う人もいるかもしれないけど、私はちょっとうれしかったんですよ。ああ、少なからず『源平』のことを認めてくださってるんじゃないかなって。

■『源平討魔伝』聖地巡礼 その4

壇ノ浦古戦場跡
https://goo.gl/maps/QvnhpDFuzeK3pDXc9

寿永4年(西暦1185年)、源氏と平家の最後の戦いとなった場所がここ。
現在では「みもすそ川公園」と呼ばれる緑地となっている。
壇ノ浦での合戦は海上におけるものだったため、後年に造られた碑や像などが当時を偲ぶ手がかりとなる。
ひと際目を引くのが、碇を振り上げて身構える知盛の像と、それと対峙するように配置された八艘飛びの義経像。
まだ幼い安徳天皇を抱いて海に身を投じた二位尼。それを見届けた知盛もまた、その後を追って入水。
かくして平家は滅亡したのであった。
(撮影:IGCCメディア編集部)

大堀 『源平』の開発のときの話に戻りますが、掘っ建て小屋で開発が進められたと言われてましたよね。

高橋 掘っ建て小屋にいたのは最後のほうですね。プレハブ小屋って言えばいいのか。その二階で開発を進めてましたね。

―― 一階は何に使われていたんですか?

高橋 宇田川くんチームがいましたね。なので、プレハブで仕事をしているから左遷されたとか、そういう感じは全然なかった(笑)。

―― なぜ宇田川さんのチームが一階に? 本社ではできないようなことをしていたとか……。

高橋 いや、そういうことはなくて。当時、ナムコは開発人員が増えて手狭になってきていて、仕方なくという感じだったんだと思います。そのプレハブもナムコがわざわざ建てたものですし。それに我々はバイクに乗っている人間が多くて、本社(矢口渡)へもそれだとすぐに行けますし、飲みに行こうというお誘いも互いに電話でしたりなど、付き合いが断たれたようなこともありませんでしたね。そもそもプレハブは武蔵新田にあるので、矢口渡とは駅ひとつ分しか離れていないから、そんな大げさなことはなかった。
  

―― 他にプレハブでのエピソードはありませんか?

高橋 トイレにお化けが出るって話はありましたね(笑)。

―― お化け!

高橋 中田さん、金澤さん(金澤尚子さん)という霊感の強いふたりの女性が「(プレハブの)二階のトイレには夜中になると出るらしい」と言い出して。

―― 怖かったですか?

高橋 いや全然(笑)。それよりも武蔵新田の周辺に、新田義興という武将にまつわる史跡があって、中でも新田神社はその新田義興のお墓があるとか。とにかく雰囲気たっぷりで、そっちのほうが断然怖かった。

―― お祓いやお参りなどはなさったんですか? 開発前とか開発の途中でとか。

高橋 他のみんなは確かやってましたね。

―― え、高橋さんは……。

高橋 私も一緒に行く予定だったんですが、直前に用事ができてしまって結局行けなかったんですね。

―― 阿部さんは……。

高橋 阿部氏はいろんなところに行ってたはずです(笑)。

―― 効果はあまりなかったのかもしれませんね……。

石黒 そういえば、唐突に思い出したんですが、1988年に聖蹟桜ヶ丘でナムコのゲームミュージックコンサートが開催されたことがあって。そのときは『源平討魔伝』の組曲と、ナムコの歴代タイトルの音楽のメドレーが演奏されました。中潟さんの生演奏はホントに凄くて感動しました。とにかくカッコよかった。その『源平』の部分のみがのちにカセットで販売されたりして、ゲームミュージックのバンドやコンサートという視点で見ると、ナムコはそういった活動をするのが非常に早かった印象を持ちました。

高橋 それも中潟くんの野望の一環ですね(笑)。

■『源平討魔伝』聖地巡礼 その5

赤間神宮
https://goo.gl/maps/jkPyS2QzGRF6zcN8A

幼くして亡くなった安徳天皇を祀る神社。
壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合葬墓もあり、「盛」の字のつく者が多く供養されていることから「七盛塚」とも呼ばれている。
毎年3月に平家一門の慰霊のために紙びなを壇ノ浦に流す「平家雛流し神事」、5月には「平家一門追悼祭」が。
また、小泉八雲の記した「怪談」でも有名な平家伝説の琵琶法師「耳なし芳一」を弔う祭礼が毎年7月に開催される。
(撮影:IGCCメディア編集部)

当時流行していたジャンプアクションは、穴に落ちるとミスとなるゲームが多かった。じつは最初は『源平』もそうだったんです。ただ、そのままでは難しすぎるということで穴に落ちてもミスにならない仕様にしました。(高橋さん談)
「だじゃれの国」は、最初は滅多に行くことのできない裏モードのようなものでした。ですが、ロム出し直前のドタバタで簡単に行けるように仕様を変更したんだと思います。(高橋さん談)
横モードに登場する菖蒲を取ると「愛」という表示が出ます。これは、大久保さんが誰にも相談せずに入れたものです。彼は当時、愛について考えることが多かったのではないでしょうか(適当)。もはや確かめることもできなくなってしまったのは、とても残念です。(高橋さん談)
ナムコの直営店・プレイシティキャロット巣鴨店のフリーペーパー。『源平討魔伝』を大きく扱っており、ルートも図解している (石黒憲一氏提供)

『ベラボーマン』、そして『爆突機銃艇』へ

―― その中潟さんですが、『源平』が終わったあと『超絶倫人ベラボーマン』を作ることになります。それも野望の一環だったりするんでしょうか。

高橋 ああ、どうでしょうね。『ベラボーマン』はそんなに私は関わっていないんで。

―― 『ベラボーマン』の製作は源平プロジェクトとしての活動ではなかった?

高橋 いや、一応はそういうことですが(笑)。

―― 高橋さんはあまり乗り気ではなかった?

高橋 まあそうですね(笑)。

『ベラボーマン』のPOP(石黒憲一氏提供)

―― それはどうしてでしょうか。差しさわりのない範囲で……。

高橋 個人的に企画に無理があるような気がしただけです。ハードウェアの問題ですね。

―― ゲームの内容ではなく、ハードの問題ですか。

高橋 当時の基板ですと、オブジェクトが横にたくさん並ぶと消えちゃうという問題があって。それなのに主人公が横に首をびよーんと伸ばすと、それだけでいろんなものが消えてしまう。大久保さんがそれでもなるべくオブジェクトが消えないように表示のタイミングを取ったりして、ちらちらしながらも何とか表示できるようにした。……という感じで、最初からゲームのおもしろさ以外の部分ですごく苦労していたので、企画はおもしろくても、このハードウェアで作るのは無理があるんじゃないかなって思ってました。そういう意味で乗り気ではなかったということです。

―― 大久保さんは『源平』を最後に会社を辞める、なんてお話もあったと思うのですが、それでも『ベラボーマン』に携わることになったんですね。

高橋 大久保さんはプログラマーの意地みたいな感じで取り組んでたと思いますね。できないとか不可能とか、そういうのに納得できなかったというか。多分ですけど。

石黒 『ベラボーマン』に使われているボタンスイッチは、当時、楽器などを作っている会社から「こんなスイッチがあるんですけど、ゲームで使えませんか?」と持ち込まれたと聞いたことがありますが。

高橋 そうです。ハードウェアのチームから、こんなおもしろそうなものがあるんだけど? と源平チームに相談があって、そこから話が広がった感じですね。

―― すぐに採用が決まったんですか?

高橋 ええ。ただ、最初は耐久性にすごく問題があって、改良してもらって最終的にはかなりよくなったという印象ですね。それでも普通のボタンに比べて耐久性は低かったんですが。

―― 最初はどんな問題があったんですか。

高橋 最初の頃は、強く叩くとボタンが凹んだままになって元に戻らないとか(笑)。弱く叩いたり、強く叩いたりと強弱がつけられることがウリなのに、このままだと厳しいな、と。

―― とすると、そのボタンスイッチの営業があったから『ベラボーマン』が生まれた、と?

高橋 いや、それはどうかな。その前から『ベラボーマン』の企画があったような気がする。
  

―― なるほど。では、続いて『爆突機銃艇』についてお伺いいたします。

高橋 ああ……(笑)。

大堀 何でそこで笑うんですか(笑)。

高橋 あのゲームについては、あんまり思い出したくないなぁ(笑)。

『バラデューク』と 『爆突機銃艇』 のPOP (石黒憲一氏提供)

―― 個人的に『バラデューク』が大好きで、その続編が出たと聞いてワクワクしながらゲームセンターに行ったんですね。で、実際に遊んでみたら……どうしてこうなったんだろう、と(笑)。不思議で不思議でしょうがなくて、それをぜひお聞きしたいな、と。

高橋 私としては、プロペラのついたレトロチックなマシンに乗り込んで、バラデューク(地下要塞)の中を撃ちながら進んでいく、というのを作りたかったんですね。

―― 当初から一方向へのみの攻撃という企画……?

高橋 そうですね。前作の『バラデューク』は主人公が人間でしたが、今回は機銃艇という大きな乗り物。それがレバーに合わせて左右にぱたぱたと向きが瞬時に切り替わると非常に違和感がある。今だったら3Dでモデリングしてそれを動かすこともありかと思うんですが、当時のようなドット絵ではあまり美しくなかった。振り返るのにたくさんのパターンを用意すればいいという問題じゃなくて、それでゲームとしておもしろくならないんじゃないかとも考えての結果ですね。

石黒 あくまでも機銃艇ありきのゲームだということですか。

高橋 そうです。それがコンセプトでしたから。
  

―― ゲーム展開についてですが、敵などが非常に硬い印象でした。

高橋 そこが一番の反省点かもしれませんね。これが家庭用ゲームだとまたちょっと違うのかもしれませんが、アーケードゲームなので、程よいところでプレイヤーにミスしてもらわないといけない。ただ、その難易度曲線の設定がよくなかった。あとは……これは言い訳になってしまうんですが、開発期間が短かったことも調整に時間を割けなかった要因かなと思います。

―― 開発期間はどれぐらいだったんでしょうか。

高橋 『源平』だと一年半、『バラデューク』は一年ぐらい。でも、この『爆突機銃艇』は半年ちょっと。

大堀 それはきつい……。

―― 最終面のマップが世界地図になっているのは、何か意図が……?

高橋 あれはネタに詰まって(笑)。

―― この『爆突機銃艇』は源平チームとは……。

高橋 無関係ですね。このとき、もう大久保さんはいなかったし、中潟くんもどっか行ってしまったし。

―― そのとき、高橋さんもナムコをお辞めになろうとは思わなかったのでしょうか?

高橋 うーん、思わなかったですね。大久保さんや中潟くんが今、地ならしをしてくれている最中だから、それが終わってからにしようと(笑)。いきなり外に出ても世間の風はきっと冷たいだろうから。まあ、半分冗談ですが(笑)。大久保さんや中潟さんはいなくなったけど、まだナムコの中には仲間や友人がたくさんいて、それなりに楽しかったということもありますね。

―― たとえば、どなたと仲がよかったとかありますか?

高橋 いろいろいますけど、特に柘植さん(柘植 卓氏)とは仲がよかったですね。

―― おお、そうでしたか。

高橋 週に三日は一緒に飲みに行く仲間というか(笑)。

―― めちゃくちゃ多いですね(笑)。

高橋 柘植さんは宣伝・広報として知られてますけど、最初は開発にいましたし、それでその頃から接点があって気楽に飲みに行く仲間だったというのが大きかったのかもしれませんね。

テレホンカードの数々 (石黒憲一氏提供)

難産だった『未来忍者』

―― 『爆突機銃艇』のあとは、ナムコではどのような……?

高橋 いろいろと手伝わされたことはありましたね。主にドット絵を描く関係で。開発以外ではPCエンジン版の『源平』について開発会社(ナウプロダクション)とやり取りするとか。ああ、思い出した。あと『未来忍者』にも関わったことがありましたね。

―― そうでしたか。知りませんでした。

高橋 ただ、あれは……私が知っている限りでは、ナムコ史上で一番難産だったタイトルだと思いますね。
  

―― どんなところでご苦労なさったんでしょうか。

高橋 私が知っているだけでも、ハードが三回ぐらい変わってますからね。そのたびに「どうしよう」と相談されて、その会議に出席することになって……といった感じでしたね。

―― では開発期間はとても長かった?

高橋 4、5年ぐらいは少なくともやってたんじゃないかな。『バラデューク』のちょっとあとぐらいから『未来忍者』の開発が動いていたんじゃなかったかな。

―― そんなに古くから……。

高橋 最初はイメージというかデザインがあって、それをどうゲームにするのか、というところでとても苦労したという印象ですね。普通なら一年とかやって先が見えない場合はお蔵入りになったりするパターンなのですが、なぜか『未来忍者』の場合は担当やハードが変わったりしてもプロジェクトが終了したりすることもなく、続いていた。今、思い返してみても不思議なプロジェクトでしたね。

―― それだけナムコさん的には魅力的な設定だったんでしょうか。

高橋 そうかもしれませんね。映画のほうも動いていましたし。あ、でもずっと昔の頃は『未来忍者』とは言ってなかったかも……。北原さん(北原聡氏。『未来忍者』の原案・脚本を担当。現在は立命館大学の教授)はデザイン課ということもあって、ゲーム内容からではなく、デザインのほうからプロジェクトを進めていたんだと思います。

『未来忍者』の紙袋とPOP (石黒憲一氏提供)

―― この『未来忍者』以降は、ナムコのゲームタイトルには携わっていましたか?

高橋 これ以降は……特になかったんじゃないかな。

―― 『ピストル大名の大冒険』は……。

高橋 あ、ああ……(笑)。そういうのもありましたね。

―― すっかりお忘れでしたか(笑)。

高橋 あのゲームは、自機の弾が放物線を描くように飛んでいくゲームはおもしろいんじゃないか、と。そのあたりからデザインを進めていったゲームですね。

―― では最初から放物線というアイデアがあって……。

高橋 そう。たとえば、お椀の中にパチンコ玉を投げ入れると、中で玉がゆらんゆらん揺れて、器から出そうになりますよね。あの力加減みたいなものをゲームにできたらおもしろいんじゃないかと思ったんです。作り始めてすぐに無理だとわかりましたが(笑)。

―― わかってしまったんですか!(笑) では、この企画の立ち上げは高橋さんで……。

高橋 そうですそうです。

大堀 『ピストル大名』って難しかったよね。

石黒 そうですね。敵の攻撃を喰らわないと抜けられないような場所があったりして、そういうのも覚えないといけないし。

―― 『ピストル大名』も源平チームの作品と言われていますが……。

高橋 それは違いますね。もう大久保さんもいなかったし。

―― 逆に、これは源平チームの作品だ、と言えるタイトルというと?

高橋 『源平討魔伝』、『ベラボーマン』ですね。あとは……発売はされなかったけど『ステラニアン』も入れてもいいかな、と思います。『ステラニアン』は、何で没になっちゃったんだろう。私は知らないんですよ。ロケテストでの評判が今ひとつ、というのはあったかもしれないけど……。

石黒 新規性はあったはずなんですよね。80年代で、ああいったゲームというのは他になかったと思いますし。

高橋 もったいないですよね。

大堀 話は戻りますが、『ピストル大名』のあたりでは開発期間はどれぐらいだったんですか?

高橋 結構短かったと思いますよ。というか、『源平』以降、どんどん短くなっていった(笑)。ちょうどその頃、個人的にはアーケードゲームの限界みたいなものに直面していた時期でもありましたね。

―― それは家庭用ゲームと比べて、という意味ですか?

高橋 そうです。同じビデオゲームという土俵の上で「家庭用」と戦うのはなかなか厳しかった。

―― セガさんだと体感ゲームのほうにシフトして戦っていた感じでしたが、そちらの方面にはあまりご興味はありませんでしたか?

高橋 ナムコでも体感ゲームというか大型筐体の開発は続けていましたね。特に当時はレースゲームはかなりの大プロジェクトで動いていて。ただそのときのトップの人が例の穴田さんとケンカした、凄い怖い係長だったので近づきたくないなぁ、と(笑)。数学も勉強しないと、あの方面はやっていけない雰囲気でしたし。微分や積分って本当に使うのか! とビビリました。

―― 製作コストもかなりのものですからね。

高橋 そうですね。とはいえ、従来どおりにたとえばレバー1本、ボタン2個。それで家庭用ゲームと張り合えるゲームを、短い納期で……となるとやっぱり厳しい。

―― なるほど。それが当時言われていた「限界」というわけですね。

高橋 もともとナムコは、家庭用ゲームを社内で作ることがあんまり多かったわけじゃないんですよね。よそから買ってきたり、外注さんを使ったり。本格的に社内チームとして家庭用に取り組んだのは岡本さん(岡本進一郎氏。『ワルキューレ』、『テイルズ オブ』、『ゴッドイーター』などのシリーズに携わった)のチームからだったと思いますよ。ファミコンの『ワルキューレの冒険』で。それ以前はアーケードの移植が多かったですしね。あの時期はそういった端境期のような感じだったんじゃないかな。

―― そういったこともあり、一足先にナムコをお辞めになった大久保さんと合流したわけですね。

高橋 地ならしが終わったようだったので(笑)。それでトムキャットシステムというソフトハウスを作ることになって。

―― 大久保さんと本当に仲が良かったんですね。

高橋 大久保さんはB型だったからなのか、ちょっとぐらい機嫌が悪くても、次の日にはスパッと忘れてたりするんですよ。そういう部分を知っていると、大久保さんとは付き合える(笑)。

(一同爆笑)

高橋 でも、たまに酔っぱらってるときに突然「そういえば高橋さんさぁ! あのとき!」なんて何ヶ月も前のことを急に蒸し返してきたりすることもありましたけどね。まあ、相性が良かったということもあるとは思います。大久保さんはプログラマーで、私は企画で。トムキャットシステムになってから推理ゲームをいっぱい作ることになったんだけけど、シナリオも書きましたし。絵描きはバイトにやってもらって(笑)。

―― 役割分担がうまくできていたわけですね。

高橋 意見がぶつかり合うことは少なかったんじゃないかな。あ、グラフィックやる人同士って仲が悪くなることって多くありません?

大堀 何て答えれば(笑)。

高橋 ある一定以上の腕を持ったグラフィックの人がふたりいると、なぜかいつの間にか仲が悪くなって派閥を作ってたりしません?(笑)

大堀 答えようがない(笑)。

高橋 私はそういうのを見てきたから、グラフィックがバイトの人だと気が楽なんですよ(笑)。

大堀 ああっ、突然思い出してしまった。話が戻っちゃうんですけど、質問いいですか?

高橋 何でしょう?

大堀 『ピストル大名』ってパチンコになったじゃないですか。

高橋 ああ、なってましたね。あれは私は手伝っただけで、メインは弓達さん(弓達公雄氏。『チャイルズクエスト』や『ワンダーモモ』などを担当)。アーケードや家庭用のゲームを作ったあとパチンコの部署に行かれて、それで……。
  

『SANKYO FEVER 実機シミュレーション2』 のちらし (石黒憲一氏提供)

―― なぜ『ピストル大名』がチョイスされたんでしょうか?

高橋 弾(玉)を撃つ(打つ)からじゃないですか?(笑)

―― 弾を撃つなら『ゼビウス』でもよさそうな気がしますが(笑)。

高橋 放物線、ですよ(笑)。

大堀、そこか! というか、弓達さんが『ピストル大名』を選んだんですか?

高橋 そう。

―― 高橋さんはどの部分をお手伝いしたんですか?

高橋 『ピストル大名』を選んだのはいいけど、描いたはずのドット絵がほとんど残っていなくてね。それで私が新たに描き起こすために。実機を見ながら目コピで。

―― ご自身の描いたものを目コピ……。では、河童がキュウリでお尻を叩くのは……。

高橋 あれは弓達さん(笑)。私が描いたと世間では思われていて、心外だな、と(笑)。

大堀 でも弓達さんは、本当に多彩なかたですよね。プログラムもグラフィックもできて、おまけに作詞・作曲もこなす。

―― その多彩な弓達さんが、なぜキュウリで……。

高橋 言ってもいいけど、載せられないだろうし。まあ、そういうのが好き、とだけ言っておきましょう(笑)。同時期に作っていた『ふぃーばーちゃん』っていう、おばあちゃんが大活躍するパチンコもまた凄かったですね。

―― 本日はお忙しい中、どうもありがとうございました。

  

おまけ

高橋さんの手がけた作品のインストラクションカードをまとめてご紹介します。

『源平討魔伝』のインストラクションカード 。ユルい景清が見どころ。ナムコレジェンダリーでTシャツにもなっている(石黒憲一氏提供)
『ベラボーマン』のインストラクションカード (石黒憲一氏提供)
『爆突機銃艇』のインストラクションカード (石黒憲一氏提供)

おまけ その2

『源平討魔伝』の海外版『GENPEI』。
『ドラゴンバスター』に続くファンタジーアクションとして販売されたようだ。

海外版『ナムコミュージアム Vol.04』に収録されているものとは異なる。
たとえばネームレジストは英語に変更されており、デフォルトはNAMCOになっている。
ゲーム中、ところどころ英語で字幕が入る。

地獄をクリアすると「I HAVE COME TO LIFE AGAIN!!!」(我、甦り)、弁慶の「YOU BRAT!!!!!!」は「小僧が!」といった意味。

一番気になる「だじゃれの国」は存在せず。
同じマップで他のステージ同様に敵が出現するようになっている。

高橋由紀夫氏 プロフィール

1958年8月18日生まれ。
ナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)にて『バラデューク』や『源平討魔伝』などの開発に携わったのちに独立。
『いただきストリート』(SFC)、『THE推理』シリーズ(PS~PS2)、『THE鑑識官』シリーズ(PS~PS2)などの他、推理ものゲームのシナリオやパズルなど多数の作品を手がける。
アオキゲームスでシナリオ執筆に従事(ただし、現在はコロナで休止中)。
お仕事のご依頼はアオキゲームスまで。

ⒸBANDAI NAMCO Entertainment Inc.

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